第15話 影の森にて、光はほどける

 足元の影が、まだじわじわとまとわりついていた。

 さっきまで、ただの薄暗い森だったはずだ。

 けれど今、そこは――

 輪になった影の中。

 外の世界から、切り離されたような空間だった。


「高城隊長殿!」


 聖騎士の一人が、慌てたように声を上げる。鎧のきしむ音が、妙に耳につく。


「さっきの声……今の、何だったんです?」


 “影の魔将”。

 耳の奥にこびりついた、低い男の声。どこか、くすぶった笑いを含んだような声音。


(……アイツもだいぶ性格悪いな)


 高城ユウキは、奥歯を噛みしめたまま周囲を見渡した。


 そこは、さっきまで進んでいた森の一角と、たいして変わらない。背の高い木々。湿った土。張り出した根。ただ――あまりにも、静かすぎた。

 鳥の声も、虫の羽音もない。風は吹いているはずなのに、葉擦れの音がほとんどしない。

 聞こえるのは、自分たちの呼吸と、鎧の軋みだけだった。


「……まずは隊列の確認だ」


 前に出た聖騎士長が、声を張る。甲冑の上からでも分かる、がっしりした体躯。その表情には、警戒と苛立ちが半々に混ざっていた。


「前衛、三十。中列、神官十。後列、弓兵――」


 ざっと数え上げたその数は、さっきまでよりも、明らかに少ない。

 ユウキも薄々気づいていた。森に入ってから、じりじりと、人が減っている。気づいたときには、誰かが消えている。戻ってこない。


(嫌なやり方、してくれるじゃねぇか)


 ユウキは舌打ちを飲み込んだ。

 まっすぐ襲ってくる魔物や魔族なら、まだいい。斬れば倒せるし、焼けば消える。

 だが、今は違う。地面の下から、音もなく足を引っかけてくる根。どこから飛んできたかも分からない矢。いつの間にか、隊列の隙間に入り込んでくる影。

 目に見えないものに、じわじわと削られていく感覚が、何より腹立たしかった。


「……ひとまず、この場で陣を張る」


 聖騎士長が決断を下す。


「むやみに動けば、それだけ隙を作る。神官は防御結界を。弓兵は周囲の警戒。高城隊長殿は――」


「高城様は、中央でお待ちください」


 すぐそばで、柔らかい声が割り込んだ。

 ふくよかな体をローブに包んだ司祭が、一歩前に出る。丸い顔に、作り物めいた微笑。だが、その目だけは獲物を狙う犬のようにぎらついていた。


「この状況でこそ、高城様の“光”は、真価を発揮するはずです。ですが――まだその時ではない」


「まだ?」


 ユウキは、思わず眉をひそめる。


「高城様には、ここぞという場面で一気に振るっていただきたいのです。森ごと、焼き払う力を」


 司祭は、聖騎士長の言葉を奪うように続けた。


「聖骸核も、そのためにこそ用意されたものですから」


(……“そのためにこそ”、ね)


 胸元の下で、硬い感触があった。服の内側に吊るされた、小さな結晶。今は光を失っているが、さっき森を白く焼き抜いたときの余熱が、まだ指先に残っている気がする。

 司祭は、そこをちらりと見ると、うやうやしく頭を下げた。


「高城様。あなたは“光の使徒”です。どうか、我らのために、その光をお持ちください」


 口調は丁寧だ。言葉だけ聞けば、持ち上げている。

 だが、中身は――


(便利な道具、って顔してるじゃねぇか)


 ユウキは、舌の先に載りかけた言葉を飲み込んだ。ここで噛みついたところで、何も変わらない。そうやって何度か失敗したことぐらい、分かっている。


「……分かりました」


 短く答え、胸元の上から結晶に指を当てる。

 冷たいはずのそれは、ほんの少し、ぬるい。


     ◇


 森の上。高い枝の上に腰を下ろし、俺は静かに目を閉じた。

 意識が、森のあちこちに散らばした結界の線に沈んでいく。

 土の中に薄く埋めた「音を吸う膜」。木々の間に張り渡した「視線を曲げる壁」。足場の角度を、ほんの少しだけ狂わせる斜めの板。

 それらが、今もきちんと機能しているかを一つずつ確かめていく。


 目を閉じた先には、地図とは違う「森」が広がっていた。線と点で描かれた、因果の森だ。

 薄く輝く線が、人間たちの行軍。黒い影のような線が、影走りや魔族の動き。その中で、ひときわ白い塊が――


「……いた」


 因果の森の真ん中あたりに、濃度の高い光の固まりがある。さっき森を焼いた、あの聖骸核だ。

 周囲には、鎧の「線」が何十本も絡みついている。護衛の騎士。神官。弓兵。


 そして、その光の塊に一番近いところに、別の光の線が一本――


(高城ユウキ)


 あの日、教室を塗り潰した光。二年三組を丸ごとさらっていった輝きと、よく似た匂い。

 だが、違いもある。


 今、目の前にある光には、別の線が混じっていた。細い、人の線。いくつも。

 制服の影のような線。ボールを追いかけて走る足の線。誰かの笑い声の残滓。

 それらが全部、ひとつの塊に押し潰されて、まとめて光っている。


(……本当に、“人を潰して固めた”みたいだな)


 胸の奥が、ぞわりとささくれ立つ。光に対する嫌悪感か。それとも、そこに混じっている「線」が、やけに見覚えのある形をしているからか。

 どちらにせよ――


「狩り方を、そろそろ変えるか」


 俺は、因果の森の中で、指先を動かした。


「レア」


 枝の下から、気配が動く。


「います」


 影走りの隊長が、音もなく顔を出した。薄暗がりの中でもよく分かる、灰銀の髪と長い耳。


「囲いは締まった。あとは中身を、少しずつ削ればいい」


「少しずつ?」


「ああ。一気に殺すのは簡単だ。でも、それじゃあ面白くない」


 レアは、ほんの少しだけ眉をひそめる。


「……また、陰湿なことを考えてる顔」


「誉め言葉として受け取っとく」


 肩をすくめ、俺は光の塊の周囲を指でなぞった。


「前衛と後衛のあいだに、もう一枚壁を足す。音の伝わり方も切る。声が届きづらくなるように」


「前と後ろの連携を、切るんだね」


「ああ。前にいる連中は、“敵の姿が見えないまま削られる”っていうストレスで勝手に崩れてくれる」


 少し、指先に力を込める。因果の線が、きゅっと軋んだ。


「後ろのほうは……あいつだな」


 光の塊の隣にいる、一本の線を軽く弾く。それだけで、ユウキの因果の線が、ぴんと張り詰めた。


「勇者様には、もう少し“光の使徒と称する人間達”の中であがいてもらわないと」


 俺は、口の端だけで笑った。


     ◇


「……おい。何で声が届かねぇ」


 聖騎士長が前方に向かって怒鳴った。だが、その声は、木々の間で妙な具合にねじ曲がって返ってくる。


「前衛、状況を報告しろ! 聞こえているか!」


 返事はある。だが、妙に遠い。同じ距離にいるはずなのに、数十メートル離れた場所から響いてくるような感覚だった。

 逆に、後ろを振り向けば――補給用の荷車や予備隊が、思っていた以上に遠くに見える。


「……さっきより、離れてないか?」


 誰かがぼそりと呟く。気のせいではない。ほんの数分で、距離感が狂わされている。


(動けば動くほど、散らされてる……ってわけか)


 ユウキは、うっすらと寒気を覚えた。森そのものが、こちらを分解しようとしている。そんな感覚だ。


「全員、この範囲から出るな!」


 聖騎士長が、急ごしらえの防御陣を指し示す。光の紋章を刻んだ杭が、円形に打ち込まれていた。


「これ以上散らされれば、どうにもならん。神官、防御結界を二重に張れ。弓兵は外周警戒。高城様は――」


「高城様には、ここでお待ちいただきましょう」


 司祭が、またしても笑顔で割り込んだ。


「この結界が破られそうになったその時、森ごと焼き払っていただければよろしい。聖骸核も、カズマ様も、そのためにこそ……」


「……カズマ“様”、ね」


 ユウキは、無意識に口の中で繰り返していた。

 サッカー部の部室。泥のついたボール。走り終わったあと、水を飲みながら、カズマが笑って言っていたこと。


『俺、試合に出られなくてもいいからさ。みんなの役に立てたら、それでいいや』


 あのときの顔と、今、司祭の口から出た「カズマ様」という響きが、うまく結びつかない。あいつは、そんなふうに呼ばれることなんて望んでいなかったはずだ。


 ――なのに。


「カズマ様は、誇り高き光の使徒になられた」


 聖騎士長が、真面目な顔で言った。


「君がその光を振るうことこそ、あの方の望みだ。違うかね、高城様」


「…………」


(そんなこと、カズマは一言も言ってねぇよ)


 喉まで出かかった反論を、ユウキはどうにか飲み込んだ。それを言葉にしたところで、誰も信じない。“光の使徒”の物語に酔っているこの連中には。


「……俺が、振るわなかったら?」


 代わりに、別の角度から問いを投げる。

 聖騎士長は一瞬だけ目を瞬かせ、それからゆっくりと首を振った。


「そのときは、他の誰かが振るうだけだ。君が担うべき栄誉を、別の光の使徒が引き受ける。それだけの話だ」


「そうですとも」


 司祭が、嬉しそうに頷く。


「ですが――私は、高城様にこそ、その役を担っていただきたい。あなたの光は強い。カズマ様の“献身”を、最も大きな形で証明できるのは、あなたなのです」


(……うわ)


 胸の奥が、ぐにゃりと捻じれた。言っていることは、全部「きれいな話」だ。殉教。献身。光の栄誉。

 だが、それを口にしている奴らの目は。聖具と同じ目で、カズマを見ている。自分を見ている。


(俺とカズマは、“光の使徒”ってラベルの付いた消耗品ってことかよ)


 腹の底から、苛立ちがぶくぶくと湧いてきた。


「……分かりましたよ」


 ユウキは、わざと肩の力を抜いた声で言った。


「どうせ俺は、森掃除要員ですから。やることは変わらない」


 聖騎士長が黙って頷き、司祭が満足げに微笑む。その様子が、余計に癇に障った。


(だったら――せめて、派手にやってやる)


 胸元の結晶に、そっと指を当てる。


 今度は、はっきりと分かった。冷たさの奥に、かすかな脈動。心臓の鼓動とは別の「何か」が、そこから伝わってくる。

 耳の奥で、微かなざわめきがした。誰かの声のような。複数の声が重なった呻きのような。


 ユウキは、反射的に眉をひそめた。


(……気のせいだ)


 そう決めつけて、結晶から指を離す。今ここで使うかどうかは、まだ分からない。だが――


「高城様」


 聖騎士長が、短く呼びかけた。


「敵が本格的に仕掛けてきたら、そのときは頼む」


「ええ。……“影の魔将”とやらに、見せてやりますよ」


 ユウキは、わざと軽く笑ってみせた。腹の底では、煮えたぎるものを押し込めたまま。


     ◇


 森の上で、それを見ていた。

 因果の森の中で、光の塊の周りの線が、少しずつ乱れていく。

 聖騎士長の線は、苛立ちと不安でざらついている。司祭の線は、いやに滑らかで、どろりとした期待の気配がまとわりついていた。

 そして――ユウキの線だけが、違っていた。


 怒り。焦り。それから、踏み外しかけた足を必死で戻そうとする、妙なバランス感覚。


(……まだ、完全に教会に溶けちゃいねぇか)


 俺は小さく鼻を鳴らした。


「どうだ?」


 枝の下から、レアの声。


「隊、散らせてる?」


「上出来だ」


 因果の森の中で、さっきよりも輪が締まっているのが分かる。


「あとは、中身だな」


 光の塊のすぐ横にある線を、もう一度指先で撫でた。高城ユウキの線。


「勇者様には――」


 低く呟く。


「もう少し、“光の使徒と称する人間達”の側で、腐ってもらわないとな」


 その言葉と同時に、俺は結界の角度を、ほんの少しだけ変えた。

 高城ユウキたちのいる「輪」が、森の中で、さらに深く沈んでいく。


 ――捕まえるのは、そのあとでも遅くない。


 そう思いながら、俺は因果の森から意識を引き上げた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る