第8話 峡谷の影走り
城から北へ伸びる街道を、俺たちは走っていた。
先頭を走る偵察兵。
その少し後ろに、弓と剣を携えた俺。
さらに離れて、最低限の護衛と連絡役の魔族たち。
空気が違う。
魔王城の周りとは、匂いが変わる。
焦げた土の匂い。
焼けた木の残り香。
遠くで上がる、かすかな爆ぜる音。
ここが、戦場の“端っこ”か。
「この先が、北方峡谷の外縁です、ショウマ魔将殿」
偵察兵が走りながら振り返る。
「そこから先は、光の使徒と称する人間達の影響下……
完全な前線まではいきませんが、警戒は必要かと」
「分かってる」
息は乱れていない。
ダークエルフの身体は、走ることにも適していた。
人間の頃ならとっくに膝をついてる距離でも、まだ余裕がある。
途中、少しだけ結界で足場を補助してみた。
地形の凹凸をなだらかにし、足にかかる負担を減らす。
(……これは、結構使えるな)
真正面から殴り合うだけが戦いじゃない。
走る・逃げる・追う。そういうところでも、差は出る。
そうしているうちに――。
「見えてきました」
偵察兵の声に顔を上げる。
目の前に、巨大な“切れ目”が現れた。
地面が裂けてできたような、V字型の峡谷。
そこから、うっすらと煙が上がっている。
焦げた匂いが、さっきよりも濃くなった。
◇
峡谷の手前に、小さな野営地があった。
簡易な結界で囲っただけの、急ごしらえの拠点。
負傷者の呻き声と、慌ただしく走る兵士たちの気配。
その中央に、ひときわ大柄な魔族が立っていた。
灰色の肌。
角は折れた痕があり、片目に傷跡。
鎧はところどころ焦げ、剣にはまだ血がこびりついている。
「ショウマ魔将殿だ」
偵察兵の案内に、そいつがこちらを振り向いた。
「……お前が、例の“外から来た”ってやつか」
声は低く、ざらついている。
「お前は?」
「北方方面軍・峡谷防衛隊。隊長のドルガだ」
ドルガは短く名乗って、俺を頭から足先まで一度だけ眺めた。
剣。弓。軽装の防具。黒いコート。
その視線には、品定めと、少しの期待と、少しの警戒が混ざっている。
「ミラ様から報せは受けている。
が――悪いな。歓迎の宴をやる余裕はねえ」
「宴会をしに来たわけじゃない」
俺は峡谷の縁に歩み寄り、下を覗き込んだ。
狭い谷底を、一本の道が通っている。
そのあちこちで、黒く焦げた跡が点々と続いていた。
岩陰には、倒れた魔族の影。
救出済みの者もいれば、そのまま動かない影もある。
「『影走り』は、どこだ」
「峡谷の中腹だ」
ドルガが顎で下をしゃくる。
「全体としては、うまく撤退させた。
だが、奴らの尻を蹴っ飛ばして走らせるために、誰かが殿をやらなきゃならなかった」
「それが、レア・シルバ」
「ああ」
ドルガは腕を組み、苦い顔をした。
「お前は知らんだろうが、『影走り』はこの北方じゃそこそこ名の通った隠密遊撃隊だ。
隊長のレア・シルバは――」
「ダークエルフの血を引いてる、レアケース」
俺が言うと、ドルガの片目がわずかに細くなった。
「……耳が早えな」
「グルドから少し聞いた。それに――」
谷底に残る足跡と、焼け焦げた岩壁。
そこにかすかに残る“線”を見る。
因果の残り香。
さっき武具庫で見たものと、どこか似ている。
「隠れるのと、遠くから刺すのが得意なタイプの足跡だ。
ダークエルフ由来って言われれば、しっくりくる」
「因果を読むってのは、そういう感じか」
ドルガが、興味半分、警戒半分の目つきになる。
「……どこまで見えてるのかは知らんが、一応言っとく」
短く息を吐き、言葉を続けた。
「レアは、ここいらの魔族にとっちゃ希望のひとつだ。
血筋だのなんだのは正直どうでもいい。
“あいつがいると、生きて帰ってこられる”って思わせてくれる隊長なんだよ」
「……ほう」
それは、なかなか貴重な人材だ。
「あいつが“殿を務める”って聞いたとき、部隊の連中は全員残ろうとした。
それを無理やり蹴っ飛ばしてでも前に送って、今もまだ、向こうで時間を稼いでる」
ドルガの握りしめた拳が、小さく震える。
「前回の敗戦で、こっちはもう余裕がねえ。
これ以上、戦えるやつが減るのは正直キツい。
……だから――」
「だから、“助けてくれ”って言葉は飲み込んでるわけか」
俺はそう言って、ドルガを見た。
言いたいことは、顔に全部出てる。
でも、“魔将様に頼み込む”って形は取りたくない。
誇りの問題だろう。
「別に、頼まれなきゃ動かないって覚悟で来たわけじゃないさ」
俺はフードを一度だけ脱ぎ、空気を深く吸った。
焦げた匂いの向こうに、微かな血の匂いが混ざっている。
「レア・シルバとやらは、今この瞬間も俺の“味方”だ。
味方を焼かれて笑ってる“勇者様”の顔を見る前に、
味方の顔をひとつでも多く覚えとくのは悪くない」
ドルガが黙り、そして――小さく笑った。
「……気に入った」
大きな手が、俺の肩を軽く叩く。
「峡谷の中は狭くて入り組んでる。
普通の部隊じゃ動きが取りづれえ地形だ。
だが、『影走り』には都合がいい。あいつらは影の中を走り回るのが仕事だ」
「敵の数と位置は?」
「こちらの偵察だと――」
ドルガは、簡易地図を地面に描きながら説明を始めた。
峡谷の入口。
その先の曲がりくねった道。
岩陰に潜む小さな待ち伏せ地点。
それを抜けた先にある広めの広場。
「そこが、今の主戦場だ。
光の使徒と称する人間達の部隊が一つ。
それを率いてる“光の塊みてえなやつ”が、おそらく勇者だ」
「顔は見たか?」
「……いや。光が強すぎて、輪郭しか見えねえ。
だが、笑ってやがることは分かった」
ドルガの声が、低く冷えた。
「部下を焼かれてるってのに、楽しそうな顔してやがった。
“悪を討つ”ってのは、そんなに面白えのかね」
胸の奥が、じり、と熱を帯びる。
(ああ。想像通りだ)
あの世界でもそうだった。
俺を刺した母親の背中。
それを撮っていたスマホ。
ワイドショーで、面白がるように“正義”を語っていた顔。
正義ってのは、やる側には結構“楽しい”んだろう。
「聞きたいことは、大体分かった」
俺は剣の柄に手をやり、弓を背負い直した。
「後は、現物を見て考える」
「ひとつだけ言わせてくれ」
ドルガが、俺の前に立つ。
「“勇者”に手を出すな、なんてことは言わねえ。
むしろ、ぶっ飛ばしてやってくれたら胸がすく」
「なら、話は早い」
「だが――」
ドルガの片目が、鋭く光る。
「絶対に、レアを見捨てるな。
あいつを失ったら、ここいらの魔族は、本当に折れちまう」
重い言葉だった。
願望でも、命令でもなく。
“ここを守ってきたやつ”の、切実な本音。
「……了解」
俺は短く、それだけ答えた。
レア・シルバ。
ダークエルフの血を引いていると噂される、隠密遊撃隊長。
まだ顔も見ていないが――
そこまで言われるなら、一度くらいは会っておきたい。
「行ってくる」
フードを深くかぶり直し、峡谷の入口へ向き直る。
風が、谷の奥から吹き上がってきた。
焦げた匂いの中に、かすかな血と、魔力のざわめき。
(さて――)
“勇者様”と、その光に焼かれている“味方”の顔。
両方まとめて、覗きに行こうか。
◇
――同じ頃。峡谷の中。
レアリア=ノクス・シルバは、岩陰に身を押しつけるようにして息を殺していた。
灰銀色の髪に、黒い耳。
人間より少しだけ長いその耳は、ダークエルフの血の証だ。
だが、肌の色は純血のダークエルフほど濃くはなく、
瞳も、漆黒ではなく薄紫の光を宿している。
そのせいで、物心ついた頃からずっと“混ざり物”と呼ばれてきた。
純血でも、人間でもないのだと、周囲も、本人もそう信じている。
その中途半端さを、彼女は逆に“武器”として使っていた。
「隊長、右の岩陰、もう持ちません」
背後から、囁くような声。
振り返ると、黒い布で顔を半分隠した部下がいた。
『影走り』の一員。
その肩には、魔力で焼かれた痕が赤く残っている。
「負傷者は?」
「三。うち一人は、もう……」
「分かった。全員まとめて、次の退避地点まで下がらせろ」
「ですが、隊長は――」
「私は残る」
言い切ると、部下の顔がくしゃりと歪んだ。
「……いつも、そうやって」
「殿を買って出るのが、私の仕事だろう」
レアは、薄く笑った。
「いいから行け。
ここでぐずぐずしてるほうが、全員まとめて焼かれる」
言われた部下は、歯を食いしばったまま一礼し、影の中へ消える。
足音は立てない。
息の音も漏らさない。
『影走り』の動きは、そういう風に叩き込んだ。
「……さて、と」
レアは岩陰からそっと顔を出す。
峡谷の上のほうに、白い光が揺れているのが見えた。
あれが、ドルガが言っていた“光の塊”。
姿は、よく見えない。
だが――声は、聞こえる。
『ははっ、逃げる逃げる。
悪い魔族さんたち、お尻に火がついてるよ〜?』
軽い。
あまりにも軽すぎる声。
レアの背筋に、ぞわりと冷たいものが走る。
『早くしないと、また焼けちゃうよ?
“光の使徒と称する人間達”の正義の光でさ』
その後ろで、誰かが笑った。
『お前楽しみすぎだろ』
『だってさあ、“悪”なんだろ? 気にしなくていいって最高じゃね?』
峡谷の上から、光の矢が降ってくる。
レアは反射的に岩陰に飛び込んだ。
直後、さっきまで自分がいた場所を、白い炎が舐める。
岩が爆ぜ、砂と石片があたりに飛び散る。
「……っ」
腕に小さな傷が走る。
血がにじむ。
その血に、じわりと光の魔力がまとわりついた。
(浄化……いや、焼却か)
魔族の血を“正常化”しようとするような、嫌な感触。
ダークエルフの血がそれを弾き飛ばし、傷口から熱が抜けていく。
“混ざり物”と呼ばれてきたこの身体は、こういうときだけ便利だ。
「まだ、距離はある」
レアは自分に言い聞かせる。
敵の射程のギリギリ。
『影走り』の退路を、少しでも長く確保するための位置。
ここで粘れれば、部下たちは峡谷から抜け出せる。
そうすれば、後は――。
(後は、外でなんとかしてもらうしかない)
ミラ様。ドルガ。
そして、魔王城に残った戦力。
勝手な期待はしない。
けれど、完全に諦めてもいない。
「――さて。もう一矢、くらいは刺しておこうか」
レアは岩陰から、そっと弓を突き出した。
黒く細い弓。
それは、さっきショウマが手に取ったものと対になる、“影走り”の弓だった。
矢に魔力を込める。
気配を限界まで押し殺し、呼吸すら止める。
峡谷の上に揺れる、光の塊。
その周囲を飛び回る、眩しい甲冑と布の影。
誰が“勇者”なのかは、分からない。
だが、光の中心部に向けて矢を放てば――何かしらは反応するだろう。
「――っ」
弦が鳴る。
矢が、音もなく闇を走る。
次の瞬間。
『うお』
軽い声が、初めて少しだけ真面目な音を帯びた。
光がわずかに揺れ、矢が弾かれる。
視界の端に、甲冑の肩をかすめた火花が見えた。
『今の、なに?』
『下からだ。まだ残ってる』
『しぶといなあ、“悪”のくせに』
また、笑い声。
レアは、唇を噛んだ。
(しぶといのは、そっちだろ)
矢筒の中身は、もう残り少ない。
魔力も、じわじわと削られていく。
それでも、退くわけにはいかない。
今ここで退けば、『影走り』は背中から焼かれる。
それだけは、絶対に嫌だった。
だから――。
「……行け。みんな」
誰もいない岩陰に向かって、小さく呟く。
その直後。
さっきまでよりも、一段階“色の濃い”光が、峡谷の上に集まり始めた。
『じゃ、そろそろ終わりにしよっか。
後は掃除だし』
声色が、少しだけ低くなる。
『光の使徒と称する人間達の正義の炎で――
悪い魔族さんたちを、まとめて焼却処分』
耳障りな言葉と同時に、白い炎が膨れ上がった。
(……来る)
レアは、矢を捨てた。
さっきまでの細い光矢とは違う。
これは、峡谷ごと焼き切るつもりの“本気”だ。
逃げ場は、ない。
隠れる岩陰も、意味をなさない。
ここまでか――と、思った。
けれど、同時に。
胸のどこかで、妙な諦めきれなさも息をしていた。
(ミラ様。ドルガ。
ごめん。ここまでみたいだ)
それでも、時間は稼いだ。
『影走り』の連中は、きっと峡谷を抜けている。
なら、それで――。
『死ねよ、“悪”』
軽い声が、焼けつくような熱の中に響いた。
次の瞬間。
レアは、見た。
峡谷の上から降り注ぐはずだった白い炎が――
何か透明な“壁”にぶつかり、はじけ飛ぶ光景を。
炎が、広がらない。
峡谷の中に落ちてこない。
代わりに、見えない半球状の何かが、光を受け止めて揺れている。
「……え?」
思わず声が漏れた。
光の中に、“別の線”が走っているのが見えた。
岩と岩の間を繋ぐような、細い糸。
目には見えないが、確かに“存在”している結界。
その中心――峡谷の入口付近に、黒いフードの影が立っていた。
炎色の瞳。
褐色の肌。
黒いコートの裾を揺らしながら、片手を軽く掲げている。
その手が、白い炎を、あっさりと拒んでいた。
(……誰?)
レアの疑問に答えるように――
峡谷の入口から、落ち着いた声が響いた。
「“勇者様”。」
透明な壁越しに、軽く笑うような、低い声。
「――ちょっと、うるさいぞ」
白い炎と、透明な結界が軋む音が、峡谷に満ちた。
レアリア=ノクス・シルバと、『影走り』の運命を乗せた初陣が、
そこで、幕を開けた。
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