アイマスクの夜、君に触れる

舞夢宜人

第1話 秘密の種


 午前二時を告げるデジタル時計の赤い光が、暗闇の中で不気味に点滅している。部屋の空気は淀み、エアコンの微弱な駆動音だけが響いていた。


 僕は枕に顔を埋め、重たい溜息を吐き出す。眠れない。身体は鉛のように重いのに、脳の芯だけが冴え渡り、神経が毛羽立っているのが分かる。原因は分かっている。カーテンの隙間から差し込んでくる、鋭利な白い光だ。


 僕の部屋の窓は、隣接する月原家の二階、璃音の部屋と向かい合っている。その距離はわずか数メートル。手を伸ばせば届きそうなほどの近さが、今は呪わしい。カーテンを閉め切っていても、その隙間から漏れる光が、まるでレーザービームのように僕の瞼を刺すのだ。


 こんな時間まで、あいつは何をやっているんだ。学校では才色兼備の優等生、生徒会の役員までこなす完璧超人の月原璃音。だが、その実態は幼馴染の僕しか知らない部分がある。今頃、机に向かってカリカリと受験勉強に励んでいるのか、それとも隠れてハマっているオンラインゲームに没頭しているのか。どちらにせよ、その「活動」の余波が、僕の安眠を妨害している事実に変わりはない。


 数日前の放課後、僕は堪り兼ねて璃音に抗議した。


     *


 夕暮れの教室で、璃音は僕の言葉にきょとんと目を丸くした。


「え、私の部屋の電気? そんなに眩しい?」


「眩しいなんてもんじゃないよ。サーチライトで照らされてる脱獄囚の気分だ。おかげでこっちは万年寝不足だよ」


 僕が大げさに目の下の隈を指差すと、璃音は「あはは」と苦笑し、申し訳なさそうに眉を下げた。


「ごめんごめん。集中しちゃうと、つい時間忘れちゃって。カーテン閉めてるつもりだったんだけどな」


「受験勉強か? それともゲーム?」


「……秘密」


 璃音は悪戯っぽく人差し指を唇に当てると、鞄をごそごそと探り始めた。


「迷惑かけてるお詫びに、いいものあげる」


 そう言って差し出されたのが、黒いベルベット生地のアイマスクだった。安っぽいパーティグッズではない。手触りの良い、厚手のしっかりとした作りだ。


「これなら完全に真っ暗になるから。私の光、気にならなくなるでしょ?」


「……根本的な解決にはなってない気がするけど」


「いいから使ってみてよ。熟睡できること、私が保証するから」


 強引に手渡されたその布切れからは、微かに璃音と同じ、甘いフローラルの香りがした。


     *


 現在に戻る。僕はサイドテーブルから、そのアイマスクを手に取った。根本的な解決ではない。だが、今の僕にはこの光を遮断する術が必要だった。


 アイマスクを装着する。ゴムバンドが後頭部を適度な強さで締め付け、視界が完全な闇に覆われた。世界が消える。瞼を閉じるのとは違う、強制的な暗黒。隣家からの鋭い光も、散らかった部屋の惨状も、すべてがリセットされる。視覚情報が絶たれたことで、逆に聴覚や触覚が鋭敏になっていくのが分かった。

 意外と、悪くない。闇の中に沈んでいくような浮遊感に身を委ね、僕は意識を手放そうとした。


 その時だった。


 カタリ、と窓際で微かな音がした。風の音ではない。サッシがレールの上を滑る、質量のある音だ。続いて、ふわりと空気が動いた。エアコンの人工的な冷気の中に、夜の湿った外気が混ざり込む。


 誰かが、部屋に入ってきた。


 泥棒か? いや、違う。僕はアイマスクの下で、恐怖ではなく、呆れに近い感情を抱いて力の入っていた身体を緩めた。この気配には覚えがある。璃音だ。


 彼女は昔から、時々こうやって僕の部屋に忍び込んでくることがあった。幼い頃は「怖い夢を見た」と言って。高校生になってからも、親と喧嘩をした夜や、何か悩みがある時、ベランダ伝いにやって来ては、黙って僕のベッドの端に潜り込んでくる。

 そして朝になると、隣で寝息を立てている璃音を、僕が無意識のうちに抱き枕のように抱え込んでいて、飛び起きる──そんなことが、何度かあった。

 幼馴染という腐れ縁が生んだ、奇妙な慣習。お互いに異性であることを意識しつつも、「昔からだから」という言い訳で維持されてきた、甘く危険な距離感。

 今日もまた、勉強かゲームに行き詰まって、涼みに来たのだろう。いつものように背中を向けて丸まり、僕が抱き寄せるのを待つのだろうか。

 僕は狸寝入りを決め込むことにした。声をかけて起き上がるのも億劫だし、何よりアイマスクをしている姿を見られて「本当に使ってるんだ」とからかわれるのが癪だったからだ。


 ベッドのマットレスが沈み込む。やはり、来た。気配が近づき、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。アイマスク越しでも分かる、璃音の匂いだ。

 さあ、早く寝ろよ。僕の心の声など聞こえていないかのように、彼女は動いた。


 ぺたり。


 Tシャツから露出している僕の二の腕に、冷たい手が触れた。ひやりとした感触に、思わず心臓が跳ねる。なんだ? 添い寝をするんじゃないのか?

 しかし、声はかからない。その手は、二の腕をゆっくりと、確かめるように撫で上げていく。指先が肌の上を滑る感触が、妙に生々しい。


 おい、璃音?

 声を上げようとしたが、喉が張り付いたように動かない。手は止まらない。二の腕から肩へ、そして鎖骨の窪みへと、指先が這うように移動してくる。それは「ただの添い寝」を求める動作ではなかった。もっと粘着質で、探索するような、あるいは味わうような手つき。


 寝ていると思っているのか? いや、寝ているからこそ、悪戯をしているのか?

 普段の彼女なら絶対にしない行動に、僕は混乱した。優等生の璃音が、幼馴染の寝込みを襲って体に触れるなんて。だが、アイマスクで視界を奪われている恐怖と、正体不明の興奮が、僕を金縛りにあわせる。


 指先が喉仏をなぞり、さらに下へと降りていく。Tシャツの裾が捲り上げられた。腹部に直接、冷たい空気が触れ、その直後に温かい掌が密着した。


 ビクン、と腹筋が勝手に収縮する。


「……っ」


 声にならない息が漏れた。掌は、へその周りを円を描くように愛撫し、ゆっくりと、だが確実に下腹部へと進路を取っていた。


 待て。これは、さすがにまずい。幼馴染のじゃれ合いで済まされるラインを超えている。いつものように、朝になって「抱きついてたね」と笑って誤魔化せるレベルじゃない。

 今夜の璃音は、明らかに違う目的でここにいる。アイマスクの闇の中で、僕はその事実を突きつけられ、混乱と共に強烈な勃起の予感に襲われていた。

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