幸せな呪いの解き方
日月 間
幸せな呪いの解き方
雨の日のアスファルトは、ほんの少しだけ意地悪だ。
わかっていたはずなのに、私はまたやらかした。
「わっ――」
ツルッ、と足を取られた感覚の次には、もう世界がひっくり返っていた。
背中が地面にぶつかった衝撃とひざに鋭い痛み。
そして――最悪なことに、左手首に巻いていた包帯が、びしゃりと濡れてずれていた。
白い布の隙間から、にじむみたいにのぞく、蔦のような模様。
「あ……」
起き上がる前から、視線が突き刺さる気配がした。
「うわ……見てあれ」
後ろで、同じ制服の子たちが足を止める。
私は雨でべしゃべしゃになった髪を払いながら、反射的に左手首を押さえた。
けれど、もう遅い。
「マジで模様あるじゃん」
「写真撮んなよ、呪われるって」
冗談半分の声。笑いながら、でも一歩、距離を取る足音。
――何度も味わってきた、この感じ。
私は何も言わずに立ち上がると、にじむ視界のまま、ただ前を向いた。
傘を持ち直し、再び歩き出す。
別に、私が転んだことなんて、誰も本気で心配なんてしない。
だって――。
(どうせ、私のせいでしょ?)
最近、クラスでちょっとした事故が続いている。
体育の授業でボールが飛んできて、窓ガラスが割れた。
技術室で工具が落ちてきて、男子が指を切った。
階段で足を踏み外しかけた子がいた。
全部大きな怪我にはならなかったけど、そのたびに誰かが、こっちを見た。
「神崎ってさ……」
「やっぱ、そういうのあるんじゃない?」
――高校二年にもなって、「呪われてる」なんて言葉、普通は笑い飛ばす。
でも、私の家には、昔からそういう「話」がくっついて回っている。
神崎の家に生まれた「あざ持ち」は、不幸を呼ぶ。
その証拠みたいに、私の左手首には、生まれつき奇妙な模様が刻まれていた。
蔦の輪のような線と、小さな実みたいな点が一つ。
皮膚の下から浮かび上がるそれは、ホクロにしては大きく、刺青にしては薄い。
お医者さんは「ただの色素沈着ですよ」と笑っていたけど、
近所の大人たちは、こっそりとこう呼んだ。
――神崎家の呪い印。
◇
ホームルームが終わっても、膝のずきずきは止まらなかった。
委員長に「保健室行ってくれば?」と言われたが、私は「大丈夫」と笑った。
大丈夫じゃなかったけど、大丈夫って言うしかない。
そうやって、いつも通りのふりをして一日を乗り切る。
噂話だって、三日もすれば別の話題に移り変わる。
そのくらい、もう慣れっこだ。
放課後、昇降口でローファーを履き替えながら、ふとガラス越しに自分の姿が映る。
傷だらけの足と膝の絆創膏。左手首に新しく巻かれた包帯。
「……ほんと、絵になるなぁ。不幸体質」
小さくつぶやいて、苦笑いした。
◇
「ただいま」
「おかえり、凛。あら、また膝……」
玄関を開けると、キッチンの方から母さんの声が飛んできた。
買い物袋を持ったまま、エプロン姿で顔を出す。
「転んだの? 雨の日は気をつけなさいって、あれほど」
「うん……ちょっと滑っちゃって」
リビングの椅子に座らされて、膝を差し出す。
母さんはため息をつきながらも、手際よく消毒液と絆創膏を取り出した。
「しみるわよー」
「わかってる」
「――っつ」
ジリッ、とした痛みが膝から走る。
同時に、母さんの視線がふと、私の左手首へ滑っていくのを感じた。
さっき保健室で巻き直してもらったばかりの白い包帯。
その下に何があるか、母さんは誰よりもよく知っている。
ほんの一瞬、表情が固まった。
すぐにいつもの顔に戻ったけれど、その一瞬は、私には見えてしまう。
「……最近、学校どう? その、変な噂とか」
「別に。いつも通りだよ」
「気にしなくていいからね。ああいうのは、言ってる子たちの方が子どもなの」
「うん」
気にしなくていい。
――いや、気にしてるから、そんなことを言うんじゃないの?
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
代わりに、私は話題を変えた。
「そういえば、おばあちゃんって、元気だった頃どんな感じだった?」
「え? 急にどうしたの」
「なんとなく。ふと思い出しただけ」
母さんは少し遠い目をした。
「そうねぇ……ちょっと変な人だったわよ。あの印のことも、全然怖がらなくて。“きれいだねぇ、この子は強い子になるよ”なんて、真顔で言うんだから」
「……強い子、ね」
私の手首を撫でながら笑っていた祖母の顔が、ぼんやり浮かぶ。
『凛の印はね、守ってくれる印なんだよ』
小さい頃、何度もそう言われた。
でも、小学校高学年のとき、一度だけお祓いに連れて行かれた日を境に、私はその言葉を素直に信じられなくなった。
「母さんはさ、あの話……信じてる?」
「どの話?」
「神崎の家系の“呪い”とか、“不幸を呼ぶ印”とか」
母さんは、困ったように笑った。
「私はね、科学信者なの。迷信なんて信じません。でも――人は、わからないものを怖がるでしょ? だから、怖がる人の気持ちは、わかるわ」
わかる……けれど。
その視線に、私自身も含まれているような気がして、胸の奥が少しだけひりついた。
「……そっか」
「ご飯、もうすぐできるから。先にシャワー浴びてきなさい」
「うん」
立ち上がって自室に向かいながら、私はそっと振り返る。
母さんはもうキッチンに戻っていた。背中しか見えない。
でも、さっきの一瞬の視線が、まだ腕に残っている気がした。
(やっぱり、お母さんも怖いんだよね。“気にするな”って言うくせに、誰よりも)
だったらいっそ、本当に「呪い」なら、きれいに消えてしまえばいいのに。
そうしたら、この家も、私も、もっと楽になれるかもしれないのに。
◇
夕食を食べ終えたあと、勉強机に向かっても、教科書の文字は頭に入ってこなかった。
数学の公式よりも、今日の雨音と、転んだときのクラスメイトの顔が、ずっと鮮明だ。
「……散歩してこよ」
時計を見ると、まだ七時前。
外は小雨がしとしと降っている。
母さんに「コンビニ行ってくる」とだけ告げて、傘を手に外へ出た。
家から少し歩いたところに、小さな商店街がある。
古い八百屋や惣菜屋が並んでいて、ところどころシャッターが降りている。
大きなショッピングモールにお客を取られて、すっかり寂しくなった通りだ。
それでも、ネオンの明かりと、誰かの話し声がかすかに聞こえるこの場所は、
私にとって、学校とも家とも違う「どこでもない場所」だった。
アーケードの端まで歩き、さて本当にコンビニで何か買おうか、それともそのまま帰ろうか――そんなことを考えながら踵を返したとき。
視界の端に、細い路地が見えた。
商店街の建物と建物の間。
人ひとり通れるかどうかの狭い隙間に、小さく赤い光が揺れている。
『占』
古びた提灯に、手書きの文字。
雨に濡れて、少しだけにじんでいた。
(……こんなところに、お店なんてあったっけ?)
首を傾げて覗き込む。
路地の奥は、思っていたより明るかった。
裸電球の下、小さな机と、その向こう側に、誰かが座っている。
――見られている。
そんな感覚に、背筋がぞくりとした。
逃げようと思えば、今すぐ背を向けて歩き出せる。
でも、足はなぜか路地の入口に固定されたみたいに動かなかった。
そのときだった。
「よくもまぁ、そんなきれいな守り印を“呪い”なんて呼ぶよね」
路地の奥から、静かな声が飛んできた。
◇
驚いて、私はとっさに左手首を掴んだ。
包帯の上からでも、そこにある模様の位置がわかる。
見られている。見抜かれている。
そう確信できるほど、声には確かな何かがこもっていた。
「……私のこと、ですか」
「他に誰がいるのさ」
ゆっくりと、奥の人物が顔を上げる。
年齢不詳の、中性的な顔立ち。
黒いシャツに、柄の入ったストールをゆるく巻いている。
男の人なのか、女の人なのか、ひと目では判断できなかった。
路地の手前からだと、細部まではっきり見えない。
でも、その瞳だけは、妙にくっきりとこちらを捕まえている。
「……すみません、人違いじゃないですか」
「神崎の印を人違いする占い師がいたら、そいつは詐欺師か勉強不足の馬鹿だよ」
さらりと言ってのける。
「神崎……? なんで私の名字」
「その包帯の下、蔦みたいな輪と、小さな実が一つ。違う?」
胸が、ギュッと縮む。
なんで知ってるの? と問おうとした口が、うまく動かない。
私は、知らない誰かに印の形を言い当てられるなんて想像したこともなかった。
「こっち来る? 帰る? どっちでもいいけど、濡れるよ」
路地の奥の占い師が、ひらひらと手を振る。
その手は、驚くほど細くて白かった。
少し迷ってから、私は一歩、路地に足を踏み入れた。
アスファルトからコンクリートの感触に変わる。
頭上の提灯が、近くで揺れた音を立てる。
「いらっしゃい。路地裏占い、霧島 朔です。ご指名ありがとう」
「……指名した覚え、ないんですけど」
「じゃあ、印に呼ばれたんだ。どっちにしろ、結果は一緒」
霧島 朔――そう名乗った人物は、いたずらっぽく笑った。
◇
店、と呼んでいいのかわからない空間だった。
狭い路地に板を渡して作ったみたいなカウンター。
その上に、古びたタロットカードと砂時計。
奥の壁には、使われていないであろう水晶玉が置かれている。
「座って」
指さされた丸椅子に腰を下ろすと、想像以上に近く、朔の顔があった。
まつげが長い。目が笑っているのに、どこか底が見えない。
「高校生? 制服、かわいいね」
「客に言う初手の言葉としてそれ、どうなんですか」
「褒めたのに。じゃあ本題――手首、見せて」
当たり前のように伸ばされた手を、私は反射的に避けた。
「……見せる必要、あります?」
「あるよ。だってそれ、“見てほしくて”ここまで連れてきたんでしょ」
「そんな覚えは――」
ない、と言い切れなかった。
さっきから胸の奥がざわざわしている。
この人に見られるのは、怖い。
でも、見てほしいとも、どこかで思っている。
自分でもよくわからない感情に押されるように、私はゆっくりと包帯をほどいた。
しめった布が、ぺたり、と膝の上に落ちる。
白い肌に浮かぶ、薄い茶色の模様。
蔦が一周するような輪と、小さな点。
「――やっぱり」
朔は、うっとりしたみたいな声で言った。
「きれいな守り印だね」
「……守り、印?」
「君たちの村では、そう呼んでたはずだよ。いつから“呪い”なんて言葉にすり替わったんだか」
守り、なんて。
聞き慣れない単語に、私は思わず眉をひそめる。
「これ、知ってるんですよね。“不幸を呼ぶ印”だって。うちの家系、昔からいろいろあったみたいだし」
「“不幸を呼ぶ”? 違う違う」
朔は首を横に振った。
「これは、“不幸を受ける皿”だよ。受け皿。誰かのところに行くはずだった厄を、先にちょっと味見してくれる器」
「……器って。そんな、きれいな言い方されても困るんですけど」
思わず笑いがこぼれた。
自嘲じみた笑い。
「だって現実、私ばっかり転んで、ケガして、変な噂立って。それで誰かが得してるなんて、聞いたことありません」
「君が転んだとき、誰かが助かったかどうか、君は知らないだけかもしれない」
静かな声が、すっと胸に刺さる。
「それに、印そのものに善悪はないよ。あるのは契約と役目だけ。君の先祖が、何を願ってこの印を受け取ったのか――それを知らないまま、“呪い”って決めつけるのは、ちょっと乱暴じゃない?」
「……決めつけ、って。じゃあ、何なんですか、これは」
私は思わず身を乗り出していた。
自分でも驚くくらい、声が強く出る。
「私、小さい頃からずっと、これのせいでって……。あの日、お祓いに連れて行かれた日も、ずっと。もし“呪い”じゃないなら、なんでこんな印、私だけ――」
「知りたい?」
朔が、言葉をかぶせる。
「君の印の意味。君が生まれるずっと前――もっとずっと前に、誰かが交わした約束の話」
胸が、ドクンと鳴った。
知りたい。
でも、怖い。
知らなければ、このまま「呪いだから」で全部諦めていられる。
知ってしまったら――。
「……もし、知ったところで、何も変わらないかもしれないじゃないですか」
「何も変わらないよ」
朔はあっさりと言った。
「君の印は消えないし、転ぶ回数も、きっとそんなに変わらない。でも、“どうせ私のせい”って自分を嫌う回数は、少し減るかもしれない」
さっき私が心の中で言った言葉を、そのまま返された気がして、息が止まる。
「――どうやって、そんなこと……」
「占い師ですから」
朔は、茶化すように笑った。
「真実を知りたい顔をして、ここまで来たのは君だよ、神崎 凛。だったら先に進みなよ。“呪い”ってラベルを貼られて、ずっと棚の奥に押し込まれてる箱を、開けに行きな」
「……先に、って。どこに?」
問い返すと、朔は机の下から、一枚の紙切れを取り出した。
古びた地図のコピーと、手書きのメモ。
「ここ。山の方にある小さな村。君のおばあちゃん――神崎 ヨシノが生まれたところ」
「――!」
ヨシノ。
祖母の名前を、他人の口から聞くのは久しぶりだった。
紙には、見覚えのない地名。
路線図の端っこにしか載っていないような、細い線と小さな駅の名前。
「その村の外れに、小さな祠がある。そこに、君の印と同じ模様が刻まれてる。契約の場所だ」
「契約……?」
「君の先祖が、何と、誰と、どんな約束をして、この“守り印”を受け取ったのか。知りたいなら、行ってくるといい」
朔は、紙を私の方へ滑らせた。
「べつに、行かなくてもいいよ。“呪いだから仕方ない”って言いながら、これからも転び続けるのも、君の自由」
「なんか、言い方ひどくないですか」
「自由って、だいたい残酷なものだから」
あっけらかんとした声。
私はしばらく黙って地図を見つめた。
祖母の故郷。
母さんから、ぼんやりと話を聞いたことはあるけれど、詳しい場所までは知らない。
祖母自身も、生前はあまり語りたがらなかった。
そのかわりに、私の印を撫でながら、何度も同じことを言った。
『凛の印はね、守ってくれる印なんだよ』
「……それ、本当に解けるんですか。私の“呪い”」
気づけば、私はそんなことを口にしていた。
朔は軽く肩をすくめる。
「呪いを解く方法は一つだけ。“呪いだ”って信じるのをやめること。そのために必要なのは、意味を知って、自分で名前をつけ直すこと」
「名前を……つけ直す?」
「今は“呪い”って呼んでるんでしょ? それを、別の呼び方にする。“守り印”でも、“ちょっと損な役回り”でも、“幸福な受け皿”でも、好きに。君が選んだ名前が、君の印の正体になる」
そんな馬鹿な、とどこかで思う。
けれど同時に、その言葉は妙にしっくりもした。
呪いかどうかなんて、本当は誰にも証明できない。
だったら、せめて、自分の中だけでも違う名前をつけてみたい。
――そう思ってしまう自分が、少しだけ悔しかった。
「……考えます」
私は立ち上がった。
「今日はもう帰ります。紙、ありがとうございます」
「どういたしまして。また転んだら、おいで」
「二度と来ません」
「そう言う子ほど、だいたいまた来るんだよね」
背中に軽い笑い声を受けながら、私は路地から商店街へと戻った。
外の雨は、いつのまにか小降りになっていた。
◇
家に帰ると、母さんはもうテレビを見ていた。
「コンビニ、何も買ってないじゃない」
「あ、うん……なんか、欲しいものなかった」
適当にごまかして自室に入り、ドアを閉める。
ベッドの上に座って、さっきの紙を取り出した。
地名。駅名。山影のような線。
印刷の掠れた小さな地図。
「……本当に、こんなところに祠なんてあるのかな」
半信半疑でスマホを取り出し、地名を検索してみる。
地図アプリに、小さな緑色の地形と、細い道が浮かび上がった。
電車を乗り継いで、バスに乗り換えて、そこから徒歩。
時間は……。
「日帰り、ギリいけるか」
つぶやいた瞬間、自分の口から出た言葉に驚いた。
行くつもり、なのか、私。
答えは、祖母の写真立てがくれた。
机の端に置いてある、小さな木枠。
若い頃の祖母が、田んぼのあぜ道で笑っている写真。
ふと、気になって写真立てを持ち上げると、裏側に何か紙が挟まっているのに気づいた。
「……なに、これ」
そっと引き抜いてみると、黄ばんだメモ用紙に、見覚えのある字が踊っていた。
丸っこくて、どこか柔らかい筆跡。
『もし凛が、この場所を探したくなったら――』
そこには、朔の地図と同じ地名が書かれていた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
何年も前から、ここに挟まっていた紙。
祖母は、いつか私がこれを見つける日が来ると、信じていたのだろうか。
「……おばあちゃん、ずるいよ」
笑いそうになって、泣きそうになって、声が震れた。
守り印。受け皿。契約。
よくわからない単語が、頭の中でぐるぐる回る。
でも一つだけ、確かなことがある。
このまま「呪いだから」で全部諦めるのは、もう飽きた。
印の意味も、先祖の契約も、そして私が本当に「不幸を呼んでいる」のかどうかも――。
全部知らないまま、適当に怖がっている自分が、一番嫌だ。
スマホの画面で、バスの時刻表をスクロールしてから、私は大きく息を吐いた。
「……行ってみるか」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
呪いを信じ続けるのか。
それとも、自分で別の名前をつけ直すのか。
その分かれ道は、きっとあの村にある。
なら――。
「“呪い”を終わらせるために、行ってくるよ。おばあちゃん」
写真の中の祖母は、相変わらず田んぼのあぜ道で笑っている。
その笑顔が、少しだけ「行っといで」と言っているような気がした。
◇
翌朝の空は、昨日の雨が嘘みたいに澄んでいた。
窓を開けると、濡れたアスファルトから土の匂いが立ちのぼる。
いつもなら制服に袖を通す時間だけど、今日は違う。
クローゼットの奥からデニムとパーカーを引っぱり出す。
ポケットには財布とスマホ、それから、折り目のついたあの地図。
「……ほんとに行くんだ、私」
鏡の中の自分にそう言って、苦笑した。
呪いだ守り印だ、占い師の一言を真に受けて見知らぬ村に行くなんて、どうかしている。
それでも、足は止まらなかった。
◇
「ちょっと遠出?」
トーストをかじっていると、向かいの椅子で母さんが眉をひそめた。
「おばあちゃんの故郷、ちゃんと行ったことないなって思って。小学生のとき一回行ったきりだし」
「だからって、なんで今日いきなり……。遠いのよ、あそこ」
母さんの指が、マグカップの取っ手をきゅっと握る。
「調べたら日帰りいけそうだったからさ。電車乗って、バス乗って、ちょっと歩くだけ」
「“ちょっと”って言葉、信用ならないのよねぇ……」
ため息まじりに言いながら、母さんはじっと私の顔を見た。
「……凛。何かあった?」
「別に。本当にちょっと気になっただけ。おばあちゃん、どんなところで育ったのかなって」
半分は本音、半分はごまかし。
母さんはしばらく黙っていたが、やがて肩の力を抜いた。
「……わかった。行ってきなさい。連絡はこまめに。変な人には絶対ついていかない」
「高校生に言うセリフ?」
「世の中、一番怖いのは“普通そうな人”だから」
脳裏に、ストールを巻いた占い師の顔が浮かぶ。普通ではなかったけど。
「行ってきます」
「……行ってらっしゃい」
玄関で靴ひもを結びながら振り返ると、母さんは小さく手を振った。
その声には、不安と、ほんの少しの期待が混ざっているように聞こえた。
◇
ローカル線は、思ったより空いていた。
がたん、ごとん、と揺れるたび、景色が少しずつ変わる。
ビルが減り、家が低くなり、やがて田んぼと山の輪郭が近づいてきた。
左手首の包帯が、揺れに合わせてかすかに擦れる。
その下にある模様の形は、目を閉じなくても思い出せた。
(守り印、ね……)
朔の声が頭の中でよみがえる。
『意味を知らないまま“呪い”って決めつけるのは、ちょっと乱暴じゃない?』
乱暴かどうかなんて、考えたこともなかった。
神崎家の呪い印。不幸を呼ぶあざ。かかわると良くない子。
そう呼ばれてきた名前を、そのまま信じてきた。
楽だったからだ。全部「呪いのせい」にしておけば、自分で何かを選ばなくてよかったから。
車内アナウンスが、目的の駅の名前を読み上げる。
私は立ち上がって、ドアの前に立った。
◇
小さな無人駅を出ると、空気が少しひんやりしていた。
駅前には古いバス停。時刻表の本数は笑えるくらい少ない。
ちょうど「トボク村入口」行きのバスが停まるところだった。
「一人かい? どこまで?」
「トボク村入口までお願いします」
運転手のおじさんに告げると、「おお」と目を丸くされた。
「向こうに親戚?」
「おばあちゃんが昔住んでたみたいで。神崎って言うんですけど……」
「神崎? ヨシノさんとこか?」
思わず前のめりになる。
「……知ってるんですか、おばあちゃん」
「そりゃ知っとるよ。元気な人だったもん。ようこのバスにも乗っとった。“この印はねぇ、うちの自慢なんだわ”なんて、自分の手首見せながらな」
私の左手首が、包帯の中できゅっと熱を帯びた。
祖母はこの模様を自慢していたのか。
「ずいぶん前に亡くなっちゃったけど」
「そうかぁ。寂しくなったのぉ。……入口着いたら声かけるから、真っ直ぐ行って誰かに聞きなさい。神崎ヨシノの孫って言えば、みんな分かる」
万能なパスワードみたいだ、と思いながら頷く。
しばらく揺られていると、「トボク村入口」のアナウンスが響いた。
「ここから真っ直ぐ。気ぃつけてな、神崎さん」
「ありがとうございます」
苗字を何の悪意もなく呼ばれて、少しだけ胸が軽くなった。
◇
細い道の両脇に、畑と低い石垣。
遠くで犬が吠えて、どこかの家から味噌汁の匂いが漂ってくる。
「……これがおばあちゃんの見てた景色」
小さな集会所の前で掃き掃除をしているおばあさんに声をかける。
「あの、すみません。神崎ヨシノの孫なんですけど」
「まぁ!」
竹ぼうきが止まった。
「ヨシノさんのお孫さん! 目元がそっくりだこと」
「そ、そんなに?」
「呪い持ち」ではなく「誰かに似ている顔」として見られるのが、くすぐったい。
「祠、見に来たのかい? ヨシノさん、よく行ってたからねぇ」
「はい。どんなところか、見てみたくて」
祠、という単語に、朔と地図の存在を思い出す。
「なら、あそこの赤いポストの家の裏から石段が出てるよ。苔で滑るから気をつけなさい」
教えられた方向へ歩いていくと、民家の裏に苔むした石段が伸びていた。
◇
石段は想像より急だった。
木々の間からこぼれる光が、苔をきらきら照らしている。
膝の絆創膏を気にしながら、一段一段登っていく。
「……昨日も転んで今日も登山って、我ながら馬鹿だなぁ」
息が上がってきたところで、視界がふっとひらけた、その瞬間。
つるり、と足元が滑った。
「わっ――!」
世界がひっくり返り、尻もちと同時に、右足のすねに鋭い痛みが走る。
「いっった……!」
見れば、石の角で擦ったところから血がにじんでいた。
「ほんと、呪われてるって言われても文句言えないよね」
自分でツッコみながら、ティッシュで血を押さえる。
昨日の膝に続いて、今日は脛。両脚コンプリート。笑えない。
痛む足を引きずりながら、残りの段を登り切った。
◇
祠は、山の斜面に張り付くようにひっそりと建っていた。
子どもの背丈ほどの石の鳥居。
その奥に、小さな木造の社。
屋根は苔むしているが、境内はきちんと掃き清められている。
鳥居の柱に刻まれた模様を見て、私は息を呑んだ。
蔦が輪を描くような細い線と、小さな実みたいな丸が一つ。
私の左手首にあるものと、ほとんど同じだった。
「……ほんとに、あるんだ」
鳥居だけじゃなく、賽銭箱の横の石板にも、鈴の根元にも、同じ印が刻まれている。
ここでは、これが「神様の印」だ。
「神崎の子か」
背後から、掠れた声がした。
振り向くと、鳥居の横の石に、ひとりの老人が腰かけていた。
白い髭に深い皺。腰は曲がっているが、目だけは妙に若い。
「……はい。神崎 凛です」
「やっぱりの。ヨシノの顔じゃ。印も持っとる」
どうして分かるのか聞く前に、老人は鳥居を顎でしゃくる。
「ここは神崎の印の祠じゃ。昔から、神崎の家の印を祀っとる」
老人は鳥居の柱を指でなぞりながら、語り始めた。
「昔々、この村が丸ごと土に埋もれそうになったことがある。長雨で山がゆるんでの。夜中に山が崩れ出して、この辺は全部土の下になるはずじゃった」
「……でも、そうならなかった」
「印を持った者が一人、胸騒ぎがすると言うて、山に入っとった。神崎の先祖じゃ。その家のあたりで一番大きな崩れが起きて、家ごと流された」
さらりと言われた言葉の重さに、喉が固まる。
「その代わり、土砂の向きが変わった。村の真ん中へ向かっとった流れが、別の谷筋へそれての。村は残った。神崎の家は、残らんかったがな」
老人は鳥居を見上げながら続けた。
「それ以来、この印は厄を先に引き受けて、人に軽うして渡す“守り印”として祀られるようになった」
「……でも、家ひとつ、人ひとり失ってたら」
「残された者はこう言う。“神崎の家は災いを呼ぶ”とな」
老人は肩をすくめる。
「時代が変わって山崩れは起きんようになった代わりに、ちょっとした事故や不運が印持ちに集まるように“見える”。……よう見えるだけかもしれんがな」
「“見えるだけ”って、便利な言い方ですね」
「信じとる者から見れば“守られた”で、信じん者から見れば“運がよかっただけ”。世の中だいたいその二つじゃ」
どこか誰かと似た匂いのする言葉だった。
「ヨシノは、前者を信じとった。自分が熱を出すたび、怪我をするたび、『これで誰かが助かっとるなら安いもんだ』と笑っとったよ」
「……そうなんですか」
祖母の顔が浮かぶ。
あの人なら、本当にそう言いそうだ。
「集会所に、ヨシノが書いたノートが残っとる。見てくとええ」
「……見たいです」
「じゃあ行ってこい。降りるときも気ぃつけろよ。神崎の印は、よう転ぶからな」
「もう十分実感しました」
そう返すと、老人は喉を鳴らして笑った。
◇
集会所の奥のキャビネットから、おばあさんが一冊の大学ノートを出してくれた。
「これだねぇ。『神崎ヨシノ』って書いてある」
表紙をめくると、丸っこい字がびっしり並んでいた。
村の行事のこと、畑のこと、祠の掃除のこと。
ページをめくっていくうちに、見慣れた名前が目に飛び込んでくる。
『凛が生まれた。小さくて、でも目がよく光る子』
喉の奥が熱くなった。
『左手首に印が出た。美佐はひどくおびえて、何度も医者に連れて行っている。“ただのあざ”だと言われても、まだ不安そうだ』
インクが少しにじんでいる。
『私は嬉しい。この印は、うちの家の誇りだ。厄を引き受けて人を守る印だと、私は信じている』
信じている――その言葉だけ、ほかより強く書かれている気がした。
『この時代の人たちには、うまく伝わらないかもしれない。迷信だと言われるだろう。それでもいい。あの子が自分を嫌いにならずに済むなら、それでいい』
ページをめくる指が震える。
『いつか凛が、この村のことや印のことを知りたくなったときのために、祠の由来を書いておこうと思う』
その下には、さっき老人から聞いた山崩れの話が、もっと細かく書かれていた。
そして、最後の方。
『凛がこのノートを読む日が来るかどうかはわからない。でも、もし来たとしたら――そのときは、私のかわりに、この印のことを好きになってくれますように』
『どうかこの子が、自分を嫌いませんように』
視界がにじんだ。涙が一滴、紙の上に落ちる。
「……おばあちゃん」
笑い声みたいな、泣き声みたいな音が漏れた。
そのとき、スマホが震える。
◇
「もしもし」
『凛? 今、平気?』
母さんの声は、少し強ばっていた。
「うん。どうしたの」
『さっきニュースで、あなたの高校の名前が出てたの。近くの交差点で、生徒が巻き込まれそうな事故があったって』
心臓が跳ねた。
「……巻き込まれそう」
『トラックと乗用車が接触して、生徒のすぐそばまで車が突っ込んだらしいんだけど……学校からのメールだと、“生徒に大きな怪我はありません”って。かすり傷程度で済んだみたい』
大きな怪我は、ない。
その言葉に、少しだけ息が戻る。
「誰が、までは?」
『まだわからないみたい。時間はね……ええと、午後二時十分ごろ、って』
二時十分。
私は、自分のスマホの画面を思い出す。
さっき石段で派手に転んで、ポケットから飛び出したスマホを拾ったとき、画面に映っていた時刻。
二時〇七分。
たった三分。
たまたまかもしれない。こじつけと言われたら、それまでだ。
でも、胸の奥で何かがカチリと噛み合う音がした気がした。
「……こっちは平和だよ。転んだくらい」
どうにかそう答えると、母さんはしばらく黙ってから言った。
『ほんとに? 声、変よ。……何かあったら、すぐ電話して』
「うん。ありがとう」
通話を切ると、集会所の静けさが戻ってきた。
右足の脛がじんじん痛む。
“かすり傷で済んだ”誰かの身体も、どこかで同じように痛んでいるのかもしれない。
「顔色が悪いのぉ」
振り向くと、入口に祠の老人が立っていた。
「事故の話、聞いたぞい。」
「……大きな怪我はなかったみたいです」
自分の足元を見る。スニーカーの中で、擦り傷が脈を打つ。
「さっき転んだんは、二時ちょっと前じゃったな」
「……はい、多分」
偶然だと言い張ることもできる。
でも、口から出たのは曖昧な肯定だった。
「さっきも言うたじゃろ。“よう見えるだけ”じゃと」
老人は笑う。
「全部印のせいにする必要はない。じゃが、そう見えるから、そういうふうに生きる、いう選び方もある」
「もし本当に、私が転んだり熱出したりすることで、誰かの“もっとひどかったかもしれない未来”がちょっとマシになってるんだったら」
言葉にすると、途端に重くなる。
「……それでも嫌だって言う権利、ありますよね」
「もちろんじゃ」
老人は迷いなく言った。
「印があるからといって、役目を引き受けにゃならん決まりはない。これは“運命”やのうて、“選び直しの目印”みたいなもんじゃと、わしは思っとる」
「選び直し……」
「何も知らんまま嫌うのと、全部知った上で嫌うのとでは違う。好きになることもできる。どれを選ぶか決めるんは、印でも神様でも先祖でものうて、今生きとる本人じゃ」
朔の声と、老人の声と、祖母の文字が、頭の中で重なる。
私はノートの最後のページをもう一度見た。
『どうかこの子が、自分を嫌いませんように』
そっとノートを閉じる。紙の温度が、指先に残った。
◇
夕方の光の中、もう一度だけ祠に立ち寄る。
鳥居の印が、橙色に染まっていた。
左手首の包帯を少し緩める。
冷たい空気が、皮膚の上を撫でていく。
「……あんたが何者か、まだよくわかんないけど」
自分の手首に向かって呟く。
「“呪い”かどうかくらい、私が決めてもいいよね」
昨日までなら、反射で「呪い」と答えていた。
今は、その言葉が喉で引っかかる。
だからといって「守り印」と呼び直すには、まだ少し怖い。
その中途半端な場所にいる自分が、情けなくて、でも少しだけ愛おしい。
「もうちょっとちゃんと知ってから、名前つけ直してあげる」
鳥居の紋様にそっと触れて、ぺこりと頭を下げる。
山の風が、包帯の隙間から肌を撫でた。
思ったより、冷たくない。
(この印の意味を、私が選び直す)
そう心の中で言葉にして、石段を下り始める。
昨日までと同じように、これからもきっと転ぶ。
でも、同じ気持ちで転ぶことは、もうできそうになかった。
足音と一緒に、小さな決意が、胸の中で鳴っていた。
◇
トボク村から戻る電車の窓に、夕焼けが映っていた。
行きと同じローカル線なのに、見える景色は少し違って見える。
山の稜線も、田んぼの水面も、全部オレンジ色のフィルターを通したみたいにやわらかい。
膝と脛には、新しく増えた絆創膏。
左手首には、いつも通りの包帯。
(“選び直しの目印”、か)
祠の老人の言葉を思い出す。
『何も知らんまま嫌うのと、全部知った上で嫌うのとでは違う。好きになることもできる』
好きになる、なんてまだとても言えない。
でも、知らないまま「呪いだ」と決めつけていた頃の私には、もう戻れそうもなかった。
◇
家に着くころには、空はすっかり暗くなっていた。
「ただいま」
「おかえり。……思ったより元気そうね」
リビングから顔を出した母さんが、じっと私を見た。
その視線が、ちらりと膝の絆創膏と包帯に落ちる。
「また転んだ?」
「うん。石段で、ちょっと派手に」
「まったく……。こっち来て。消毒する」
ソファに座らされて、すねを差し出す。
シュッと冷たいスプレーの感触。わずかにしみる痛み。
「本当に大丈夫? 村で、変な目に遭ったりしなかった?」
「変な目って?」
「……“神崎の呪い”とか、なにか言われたり」
言いづらそうに、でも確認せずにはいられない、という顔だった。
「大丈夫。むしろ逆」
リビングのテーブルに、集会所から借りてきたコピーをそっと置く。
祖母のノートの、一部をコピーさせてもらったのだ。
「おばあちゃん、こんなもの残してた」
母さんは「え?」と目を瞬き、紙を手に取った。
丸い字で綴られた文章を追っていくうちに、表情が少しずつ変わっていく。
『私は嬉しい。この印は、うちの家の誇りだ。厄を引き受けて人を守る印だと、私は信じている』
『あの子が自分を嫌いにならずに済むなら、それでいい』
『どうかこの子が、自分を嫌いませんように』
最後の一文まで読み終えたとき、母さんは小さく息を呑んだ。
「……お母さん、こんなこと……」
「知ってた? 祠の話とか、山崩れの話とか」
「昔、少しだけ聞かされたことはある。でも、私は正直、信じきれなかった。迷信だって笑い飛ばしたかったし」
母さんは、コピー用紙を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「だから余計に怖かったの。私は信じてないのに、あなたの身体に印が出て。もし何かあったら、それを全部“印のせい”にしてしまいそうで」
それは、初めて聞く本音だった。
「凛が熱を出したときも、怪我をしたときも……。本当は、心のどこかでこう思ってた。“やっぱり呪いなんじゃないか”って。そう思うたびに、今度は自分を責めた。“そんなふうに思う自分こそ、母親失格だ”って」
母さんの声が、少し震える。
「ごめんね。怖がってたのは、私の方だったのに、“気にしなくていい”なんて、簡単に言って」
私は、膝の上で手を握った。
あのときの視線。印に向けられた、一瞬の硬さ。
それを「自分への恐怖」として受け取ってしまった私。
(でも本当は――)
母さんはずっと、自分自身を怖がっていたのかもしれない。
「……お母さん」
私は、祖母のコピーを指先でなぞりながら言った。
「私、もうこの印のこと、“呪い”って呼ぶのやめる」
母さんが顔を上げる。
「トボク村でさ、祠のおじいさんが言ってたんだ。“これは運命じゃなくて、選び直しの目印だ”って。おばあちゃんのノートにも、“凛が印を好きになってくれますように”って書いてあった」
一度、深呼吸をした。
「好きになれる自信はまだないけど……少なくとも、自分を嫌う理由にするのは、やめようと思う。それに、“呪いの子”って呼ばれてきたの、地味にムカつくし」
最後にわざと軽口を足すと、母さんがふっと吹き出した。
「そうね。うちの子は、そんなラベル似合わないわ」
笑いながら、目尻に光るものを指で拭う。
「じゃあ、これから何て呼ぶ?」
「うーん……」
私は左手首を見下ろす。包帯の下にある模様を思い浮かべながら、少しだけ考えた。
守り印。受け皿。クッション。
いろんな言葉が頭に浮かんでは消える。
「仮の名前で、“ちょっと損な守り印”とかどう?」
「ずいぶん控えめね」
「だって、“完璧なお守り”とか言いたくないし。痛いのはちゃんと痛いから」
私がそう言うと、母さんは今度こそ声を出して笑った。
「いいわね、それ。……じゃあ私は、それを“凛の印”って呼ぶ」
「それ、ただの私の名前では」
「そうよ。何かのせいにしなくていい、あなただけの印」
柔らかい手が、包帯の上からそっと撫でた。
「私は、あなたが生まれてきてくれたことを、呪いだなんて一度も思ったことはないから。それだけは、信じて」
その言葉が、胸のど真ん中に静かに落ちてきた。
「……うん」
涙が出そうになって、慌てて笑いでごまかす。
「じゃあ、明日からは“呪いの子”じゃなくて、“ちょっと損な守り印持ち”で登校するわ」
「長いわね、その肩書き」
二人で笑ったあと、ふと、母さんが真顔に戻る。
「でも、損な役回りを引き受けるのは、無理しない範囲でね」
「うん、わかってる」
本当にわかっているかどうかは、まだ分からない。
けれど、それを確かめるための「明日」が、ちゃんと欲しいと思えた。
◇
翌日、学校の昇降口で靴を履き替えていると、ちょうど同じクラスの二人組が入ってきた。
「ね、昨日の事故のやつさ」
「やばくない? トラック突っ込んでくるとか」
聞くつもりがなくても、耳に飛び込んでくる。
「でもさ、かすり傷で済んだんだって」
「それはそれで、“呪いの子”案件じゃない? ほら、神崎とかさ」
「やめなよ、聞こえるって」
いつもなら、その言葉に心の中がざらっと波立って、聞こえないふりをしていた。
今日も、完全に平気なわけじゃない。胸の奥が、少しざわつく。
でも、それ以上に――。
(“呪いの子”なんて、誰の命名なんだろ)
そんな冷静な疑問が頭をよぎる。
祖母は、この印を誇りだと言った。
村では、守り印として祀られている。
祠の老人は、選び直しの目印と呼んだ。
だったら、「呪いの子」なんて名前に縛られ続けるのは、損だ。
上履きのかかとを踏み込んで立ち上がると、ちょうど廊下で目が合った。
「あ……」
二人のうちの一人が、気まずそうに視線をそらす。
「おはよう」
私は、いつも通りの声で挨拶した。
その「いつも通り」が、少しだけ違う重さを持っている気がする。
「お、おはよ」
返事が返ってくる。
それだけのことなのに、胸のざわつきが少し和らいだ。
◇
午前中の授業は、特に事件もなく過ぎていった。
あの事故に巻き込まれそうになったのは、隣のクラスの男子だったらしい。
ホームルームで先生が「山田君は軽い打撲だけで済みました」と説明すると、教室から小さなどよめきが起きた。
(……よかった)
理由なんて分からない。
私が石段で転んだ時間と事故の時間が近かったからといって、本当に何か関係があったのかどうかも分からない。
ただ、「かすり傷で済んだ」という事実があるだけだ。
それをお守りだと信じるか、偶然だと笑い飛ばすか。
選ぶのは、その人次第。
(私は――)
まだ決めきれない。
でも、「全部呪いのせい」と決めつけるのは、もうやめた。
◇
その日の放課後、昇降口で靴を履き替えているときだった。
ふと、ガラス越しに見慣れた赤い光が視界に入った。
校門の外。
人ひとり通れるかどうかの細い隙間の奥で、小さな提灯が揺れている。
『占』
あの、にじんだ字。
(……また、出張してきてるし)
溜め息とも笑いともつかない息が漏れた。
誰もいないのを確認してから、私はそっと路地に足を踏み入れる。
「お疲れさま、神崎 凛」
相変わらずの中性的な顔で、朔がそこにいた。
タロットと砂時計の並ぶ小さな机。脱法感あふれる路地裏占い。
「学校のそばに出張店舗って、犯罪くさいですよ」
「大丈夫、心配しなくても、この路地は“見える人”にしか見えない仕様だから」
「その設定、昨日のうちに教えてください」
ため息をつきながら、丸椅子に腰を下ろす。
「で? トボク村の旅はどうだった?」
「……最悪」
私はわざとぶっきらぼうにそう言った。
「石段は苔で滑るし、すねは痛いし、おじいさんには“よく転ぶ印”とか言われるし」
「ひどいねぇ」
「でも――」
言葉を切って、左手首を見下ろす。
「行ってよかったって、ちょっとだけ思ってる」
朔が口の端を上げた。
「“呪い”ってラベル、少しは剥がれた?」
「完全には、無理。でも、“これ一枚だけじゃないかも”くらいには」
私は包帯を少しだけめくり、模様をのぞかせる。
「おばあちゃんは、これを誇りって呼んでた。村では守り印って呼ばれてる。あの祠のおじいさんは、“選び直しの目印”って。だから私も、私用の名前つけようと思って」
「ほぉ」
朔が興味深そうに身を乗り出す。
「仮の名前だけど――“ちょっと損な守り印”」
朔は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「何それ。ネーミングセンス、絶妙にダサかわいい」
「ほっといてください。私にはこれが限界」
そう言いながらも、自分でも少し笑ってしまう。
「でも、“呪い印”よりは、ちょっとだけマシでしょ」
「うん。ずっといい。その名前を選んだ瞬間から、それはもう“呪い”じゃない」
朔は、私の手首をじっと見つめた。
「印そのものは変わらない。転ぶ回数も、たぶんそんなに変わらない。でも、“どうせ私のせい”って自分を刺す棘の本数は、確実に減るよ」
昨日聞いた言葉を、もう一度、別の形で返される。
「……じゃあ、あとは私次第ってこと?」
「最初からずっとそうだよ」
朔は肩をすくめる。
「ただ、“選び直せる”ってことを知るまでは、なかなか気づけないだけ」
そのとき、校舎の方から、鋭い声が聞こえた。
「ちょっと! そこ危ないって!」
朔と同時に顔を上げる。
昇降口の上。
二階の窓から、何か大きなものがこちら側に傾いているのが見えた。
文化祭の準備で使った木製の看板。
紐が緩んだのか、今にも落ちそうになっている。
その真下には、鞄を背負い直している同じクラスの女子の姿。
「あぶな――」
叫ぶより早く、身体が動いた。
私は路地から飛び出し、校門を抜けて駆け出す。
さっきまで雨が残っていたアスファルトが、足の裏で嫌な感触を返す。
走りながら、頭のどこかで思う。
(また転ぶかもしれない)
でも、それで誰かの未来が、ほんの少しマシになるのなら。
「どいて!」
女子の肩をつかんで横に引き寄せた瞬間、上からドン、と重い衝撃が降ってきた。
木の看板が斜めに落ち、端が私の肩に直撃する。
その勢いで、私は派手に転んだ。
「神崎!」
誰かの叫び声。
鋭い痛みが肩から走り、視界が一瞬白くなる。
けれど、さっき引き寄せた女子は、すぐそばで尻もちをついただけで済んでいた。
腕に薄く擦り傷がついているくらいだ。
「だ、大丈夫!?」
「いっ……たぁ……」
反射的にそう言いながら、私は空を見上げる。
さっきまで曇っていた空は、もうすっかり群青色になっていた。
◇
保健室のベッドで、氷嚢を肩に当てながら天井を見ていると、カーテンの向こうから声がした。
「入るぞ」
担任の声だ。
「神崎、大丈夫か」
「骨は折れてないって言われました。打撲と、ちょっと捻ったくらい」
さっきまでの騒ぎが嘘のように、保健室は静かだ。
向かいのベッドから、小さな気配がする。
「あの……神崎」
カーテンが少しだけ開いて、さっきの女子が顔を出した。
頬が少し赤い。
「さっきは、ごめん。……じゃなくて、ありがとう」
「ごめんとありがとう、どっち」
「どっちも!」
勢いよく言われて、思わず笑ってしまう。
「私、全然気づいてなくて……。危ないところだったのに、神崎が引っ張ってくれて。“神崎といると不幸になる”とか、勝手に言ってたの、本当ごめん」
ああ、と胸のどこかが軽くなる音がした。
噂話の中心にいた子が、自分から謝りに来るなんて、思ってもみなかった。
「別に。……まあ、ちょっとは傷ついてましたけど」
「やっぱり……」
「でも、いいやって思えたから、今は大丈夫」
私は、自分の左手首を指でつついた。
「これ、ずっと“呪い印”って呼ばれてきたけど、もう別の名前にすることにしたから」
女子が目を瞬く。
「べ、別の名前?」
「“ちょっと損な守り印”」
保健室の空気が、一瞬止まった。
「なにそれ」
「自分でもダサいと思うけどね。でも、“呪い”って呼ばれるよりはマシ」
私は笑いながら続けた。
「全部この印のせいにするのはもうやめる。転ぶのはたぶん私がドジだからだし。でも、今日みたいに、“いてよかった”ってことが一回でもあるなら、その分くらいは、守りって呼んでもいいかなって」
女子はしばらく黙って私を見ていたが、やがて小さく笑った。
「……それ、いいね」
意外な返事だった。
「ダサかわいいけど、いいと思う。今日、あんたがいなかったら、私が下敷きになってたかもだし」
「でしょ。だから、“ちょっと損な”くらいがちょうどいい」
自分で言って、自分で吹き出してしまう。
担任が、呆れたような、でも安心したような顔で頭をかいた。
「……まあ、なんにせよ、大事に至らなくてよかった。神崎、お前はもう今日は帰れ。家の人にも電話しておくから」
「はい」
保健室を出るとき、女子がもう一度こちらを見てぺこりと頭を下げた。
「ありがとう、“守り印”」
「うん」
胸のどこかが、じんわり温かくなった。
◇
家に帰ると、母さんは玄関まで飛び出してきた。
「凛! 大丈夫!? 先生から電話もらって、心臓止まるかと思った……!」
「止まってたら今ここにいないよ」
そう言いながら、私は靴を脱ぐ。
「ちょっと転んで、ちょっと看板に殴られただけだから」
「その“ちょっと”が信用ならないって、何度も……」
途中まで怒りかけて、母さんはふと口をつぐんだ。
「……でも、助けたんだってね」
「うん。たまたま見えただけだけど」
母さんは私の肩に視線を落とし、包帯の上からそっと触れた。
「そういうときだけ、“守り印の子”って呼ばせて」
私は少し考えてから、首をかしげる。
「“守り印”じゃなくて、“ちょっと損な守り印”ね」
「そこ譲らないのね……」
二人で笑った。
◇
その夜、ベッドに寝転びながら、私はスマホの画面をぼんやり眺めていた。
無意識に、地図アプリを開いてトボク村を表示する。
小さな緑色の山と、細い道。祠のあたりにピンを立ててみる。
(おばあちゃん)
胸の中で、そっと呼びかける。
守り印。受け皿。選び直しの目印。
たぶんこれからも、私は何度も転ぶし、何度も落ち込むし、そのたびに「やっぱ損だな」とか思うのだろう。
それでも――。
(この印を、“呪い”って呼び続けるのは、もうやめるね)
心の中でそう言ってみる。
答えなんて、どこからも返ってこない。
でも、左手首の模様が、ほんのわずかにあたたかくなったような気がした。
◇
数日後。
また雨の日が来た。
校門の前。アスファルトの上に、細かい水たまりがいくつも並んでいる。
一歩踏み出すたび、靴底がぴちゃ、と音を立てた。
(雨の日のアスファルトは、ほんの少しだけ意地悪だ)
そう思うのは、きっとこれからも変わらない。
きっとまた転ぶし、きっとまた膝に絆創膏が増える。
でも、今はそこに、もうひと言だけつけ足すことができる。
(――でも、その意地悪さに、ちょっとだけ助けられる誰かがいるのかもしれない)
私は包帯越しに左手首を押さえ、小さく笑った。
「よし、“ちょっと損な守り印”、今日もよろしく」
雨の中、一歩を踏み出す。
たとえまた転んだとしても。
昨日までの私とは、違う気持ちで立ち上がれるはずだと信じながら。
幸せな呪いの解き方 日月 間 @Hazama_Tachimori
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