鎮めの曲

三角海域

鎮めの曲

 一月一日。新年の賑わいの気配もない、ひどく静かな港町に、黒崎広治は降り立った。

 電車とバスをいくつも乗り継いでようやく辿り着いたその町は、大きく円を描くように海を取り囲んでいる。その地形のせいだろうか、ここへ来るまで肌を刺していた冬の冷たい風が、嘘のように吹き込んでこない。

 現実から切り離された場所に迷い込んだようだ、と黒崎は思う。波音だけが規則正しく打ち寄せるこの静寂は、どこか現実離れしていて、不気味ですらあった。

 大きなアルミケースを両手に提げ、黒崎はゆるやかな坂道を海へ向かって降りていく。

 ケースの中には、高性能のマイク、レコーダー、ケーブル、風防、そして解析用の小さな端末が収まっている。家を売ってまで揃えた機材だ。正気の沙汰じゃないと散々言われたが、黒崎にとっては家よりも音の方が、よほど価値のあるものだった。

 今日までに世界各地を巡り、噂話のように語られる不思議な歌や音楽を録音してきた。だが、ここに来た理由はただ一つ。この土地にだけ伝わるという「鎮めの曲」を、どうしても記録に残すためだ。


 海に一番近い民宿の引き戸を開けると、畳の匂いと、弱く焚かれた石油ストーブの匂いが、ゆるやかに混じり合って鼻腔をくすぐった。炬燵にうずくまっていた初老の男が、驚いたように顔を上げる。

「予約していた黒崎です」

「ああ……東京の」

 男は帳面を引き寄せ、日付と名前の欄を細い鉛筆でたどるようにして、たどたどしく書き込んだ。

「どのくらいのご滞在で?」

「春が来るまで」

 ペン先が、帳面の上でぴたりと止まる。

「……それはまた、曖昧な」

「私にも、正確な日は分からないんです。その時が来るまでは、ここにいなければならない」

 男は目を細め、炬燵の縁に置いた手に力を込めた。何かを知っている――そう言いたげな様子だったが、結局、口は固く閉ざされたままだった。


 荷物を部屋に運び込むと、黒崎はすぐに浜へ降りた。

 目的の物は、噂に聞いたとおり、波打ち際に静かに佇んでいた。

 古いピアノ。

 本来ならば、塩気と湿気に晒され続けるこんな場所に置いておけるような楽器ではない。それなのに、そのピアノは塗装の艶まで保たれており、ひび割れも錆も見当たらない。時間だけが、そこを避けて通っているかのようだ。

 さらに不可解なのは、寄せてくる波が、ピアノの手前で必ず力を失って引いていくことだった。目には見えない境界線が、そこに引かれているみたいに。

 黒崎はピアノにそっと近づく。鍵盤へと伸ばした指先が、そこでふいに止まった。

(勝手に触れるべきじゃない)

 訪問者として礼を欠いてはならない。そう思い直し、代わりに耳を澄ませる。

 波と風の音が、驚くほどくっきりと聞こえる。この土地の異様な静けさが、あらゆる雑音を押し流してくれているのだろう。不気味だと感じていた静寂が、今は少しだけ、悪くないもののように思えた。


 黒崎は元々、ピアニストとして活動していた。ジャンルに収まりきらない独特の演奏を好み、「音楽界の異端児」として、しばしば話題にされた。

 そのおかげで金はそれなりに稼げたが、注目を浴びるにつれ、黒崎が「音を生物学的に捉えている」といった発言だけが切り取られ、「スピってる」とネットで消費されるようになった。やがて、メディアでもそうした発言ばかりを求められるようになり、黒崎の中で何かがすっと冷めた。

 社会が作り上げるイメージというものに、心底うんざりしたのだ。

 そこから逃れるように旅に出た先々で出会った、土地ごとのさまざまな音楽は、黒崎の心を確かに癒やしてくれた。

 どこにも定住せず、旅をしながら音を探して生きる。そう決めて、黒崎は家を売った。

 音は「聞く」ものではない。「観察する」ものなのだ。評価も批評も、向けられる期待も、黒崎にとっては意味がない。


 町にやってきて二日目の朝。ぐっすり眠ったおかげで、長旅の疲れはおおかた抜けていた。

 浜へ降り、風向きと湿度を記録する。マイクを海に向け、砂地に立て、岩の上に置き、角度を変えながら音を収集していく。収録した波形を小さな画面に呼び出し、グラフを眺めながら耳でも再確認する。

 波形には乱れがまったくない。音は常に均一だった。「似ている」というレベルではなく、ほとんど同一の波の音が、延々と繰り返されている。

「面白い」

 黒崎は思わず、独りごちた。

 この土地には、やはり何かがある――そう確信せざるを得なかった。


 町全体を俯瞰したくなり、黒崎は見晴台へ向かった。高台には、町とは違って冬の鋭い風が吹きつけており、すぐに体の芯まで冷えきってしまう。

 来る途中で見かけた茶屋のことを思い出し、黒崎はそこへ引き返した。

 暖簾をくぐると、湯気の向こうにひとりの女性が立っていた。肩までの黒髪はきちんとまとめられ、白い指が鉄瓶の蓋を静かに押さえている。涼やかな目元は、どこか人の内側をすり抜けていくような、澄んだ静けさを湛えていた。

「いらっしゃいませ」

 低く澄んだ声が店内に広がる。黒崎は席に腰を下ろし、番茶を頼んだ。湯呑みを包んだ指先に、じんわりと温度が戻ってくるのを感じる。

「旅の方ですか?」

「ええ。しばらく滞在します」

「珍しいですね。この町、海しか見るものがありませんよ? ピアノがあるから、最初だけはおもしろいかもしれませんけど」

「そんなことはありません。今日は、いい音が録れました」

「音、ですか?」

「はい。ここの波音は相当に珍しい。あまりに均一で、かえって複雑な響きになっている」

 黒崎がそう語ると、女性はふと窓の外へ視線をやり、ぽつりと言った。

「風が強い日は、もっと複雑になります……そういう場所なんです、あそこは」

「え?」

「まるで、何かが底の方で共鳴しているみたいに」

 湯呑みを持つ手から、するりと力が抜けるのを黒崎は感じた。この感覚の言い当て方――彼女は理論ではなく、場所そのものの響きに、触れている。

「音楽を学んだ経験が?」

「いえ。習ったことはありません」

 女性は、少しだけ口元を緩めて微笑んだ。


 それから黒崎は、茶屋に足繁く通うようになった。女性の名は静佳といい、海辺の屋敷に暮らしているのだと教えてくれた。

 黒崎は録音したデータを持ち込み、静佳に聴かせる。彼女は専門用語を一切使わない。「この日の波は冷たい」とか「なんだか怒っているみたい」といった具合に、感覚的でありながら、的確な言葉だけをそっと置いていく。その表現の確かさに、黒崎は次第に魅了されていった。

「音楽って、何でしょうね」

 ある日、黒崎がそう問うと、立ち上る湯気を目で追いながら、静佳は少し考えてから答えた。

「誰かの心を映すもの……でしょうか」

「誰かの?」

「演奏する人の。聴く人の。そして、場所の」

 静佳の瞳が、窓の外の海の色を映して揺れていた。波はただの物理現象ではない。土地が積み重ねてきた長い時間――喜びや恐れや祈りの層が、音に滲み出る。

 いい表現だ、と黒崎は思った。


 月が変わると同時に、町の空気がわずかにきしみを帯びた。

 住人たちは声を潜めて何かを囁き合い、静佳の茶屋も、日によっては暖簾が出なくなった。

 ある日の午後、黒崎が茶屋の戸を開けると、見慣れない老人がひとり、座していた。上等そうな和服をきっちりと着こなし、背筋は真っ直ぐ。静かにしているのに、妙な迫力がある。

「あなたが、最近この店によく来るという余所の方ですか?」

 老人の声は低く響いた。

 黒崎が返す言葉を探していると、老人は顎で静佳を示した。

「彼女は、血筋で定められた大役を控えている」

 その一言で、黒崎は悟る。

 静佳が、「鎮めの曲」の奏者なのだ。

「余所者が近づくべきではない。儀式を邪魔しないでいただきたい」

 老人はそれだけ告げると、湯にも手を付けずに立ち上がった。戸が閉まる。乾いた音の余韻だけが、やけに長く残った。


 その日を境に、町の空気ははっきりと変わった。

 黒崎が浜を歩けば、漁師たちは作業の手を止め、無言のまま視線だけを向けてくる。民宿の主人も、必要最低限の言葉しか交わさなくなった。茶屋の暖簾は、その日を最後に一度も姿を見せない。

 圧力――それは目に見えないが、確実に黒崎を取り巻いていた。余所者として、観測者として、この町の「外側」に立つ者に向けられた、静かな圧力。

 何かが、近づいている。


 それから数日後の夕暮れ時、黒崎が浜を歩いていると、静佳が一人で海を見ていた。

 白い息が、薄闇に溶けていく。黒崎は少し離れた場所に立ち止まった。声をかけるべきか迷ったが、静佳の方から気づいて振り返った。

「黒崎さん」

 静かな声だった。黒崎は近づき、彼女の隣に立った。

「あなたに、謝らなければと思っていました」

「謝る?」

「私が何者か、最初から言うべきでした」

 静佳は波打ち際のピアノを見つめていた。

「でも、あなたと音の話をする時間が、とても心地よくて。誰かと対等に音について語れるなんて、初めてだったから」

「対等に、ですか」

「ええ。この町の人たちは、私を特別な存在として扱います。子供の頃からずっと。だから、友達もいなかった」

 そう話す静佳の声に、寂しいという感情はないように思えた。

「でも、それが私の役目ですから」

 黒崎は、録音機材を持つ手を握り直した。

「その役目について、あなたはどう思っているんですか?」

「どう、ですか」

 静佳は少し考えるように、空を見上げた。

「代々引き継いできた役目。私はその系譜の一部です。私個人がどう思うかは、関係ない」

「でも、あなた自身は」

「怖くないと言えば嘘になります」

 静佳は初めて、黒崎を真っ直ぐに見た。

「でも、この町を、この海を守るのは私の役目。それは生まれた時から決まっていたこと。だから、迷いはありません」

 その目に、揺らぎはなかった。

「黒崎さんは、音を記録することで、何を残そうとしているんですか」

「……真実、でしょうか」

「真実?」

「その土地にしかないもの、その瞬間にしかないもの。ただの記録ではなくて、確かなものとしてそこに残るもの。それを記録することで、いつか消えてしまうものを留めておきたい」

「素敵ですね」

 静佳は微笑んだ。それは今まで見せたことのない、どこか達観したような笑みだった。

「でも、音は消えるものなのではないでしょうか。鳴って、響いて、消える。それが音の本質なのでは」

 黒崎は答えられなかった。

「私の弾く曲も、そうです。記録されるためのものではない。その瞬間に、その場所で、鳴らされるべきもの。それが終われば、消える」

 風が強くなり、静佳の髪が揺れた。

「もうすぐ、その時が来ます」

「分かるんですか」

「ええ。波の音が教えてくれます」

 静佳は砂浜を歩き出した。黒崎はその背中を見送った。彼女は振り返らなかった。

 黒崎は、初めて自分の行為の意味を問われた気がした。記録すること。残すこと。それは本当に、音楽にとって必要なことなのだろうか。


 二月も終わりに近づいた、ある夕刻のこと。

 民宿に戻ろうとすると、主人が玄関で待っていた。

「少し、お話が」

 炬燵を挟んで向かい合って座る。主人は湯呑みに茶を注ぎ、しばらく湯気を眺めてから、ゆっくりと口を開いた。

「あなたは、何のためにここへ?」

「鎮めの曲を、記録するため」

「……やはり」

 主人は目を閉じ、小さく息を吐いた。

「それは、叶わぬ願いです」

「なぜ?」

「あの曲は、記録するためのものではない。この土地と、血筋と、そして――」

 主人はそこで言葉を切り、窓の外の海に目を向ける。

「沖の、〈あれ〉を鎮めるためのもの」

 主人は黒崎を真っ直ぐに見据えた。

「ピアノが見える部屋に、移りますか?」

「よろしいんですか?」

「ええ。その日が来たら、部屋から演奏を見ることができます。ただし」

 主人の声が、一段低くなった。

「何が起きても、決して外に出てはいけない。あの子の邪魔だけは、絶対にしてはならない」


 翌日、黒崎は一階の海側の部屋へ移った。

 窓を開ければ、波打ち際のピアノが真正面に見える。黒崎は機材を設置し、角度を調整し、録音の準備を丹念に整えた。

 そして、待った。

 一日が過ぎ、二日が過ぎる。

 町は日ごとに静かになっていった。ただ波だけが、規則正しく寄せては返す。

 黒崎は部屋で、これまでに録音してきたデータをあらためて聞き返していた。世界各地で採集した音楽たち。祈りの歌、祭りの太鼓、葬送の笛。そこからは土地そのものの――いや、土地のさらに奥底に沈んでいる「何か」の声がするように思える。

 静佳は、その声を外の世界へ届ける役目を負っているのだろうか。

 血筋で定められた、と老人は言った。選択の余地など、初めから与えられていなかったのだ。彼女が音楽を習わなかったのも、もしかすると意図的だったのかもしれない。技術ではなく、生まれつきの感性だけで音を捉えさせるために。


 その日、古びたサイレンが鳴った。

 低く、長く、町全体を貫くような音。黒崎は思わず窓辺へ駆け寄る。

 路地から、人影が一つ、また一つと消えていく。家々の明かりが、灯っては消え、やがてすべての光が失われた。

 町は完全な闇に沈み、月だけが、冷たい光で海面を照らしている。

 黒崎は録音機材のスイッチを入れた。ヘッドフォンを装着し、レベルメーターを確認する。自分の心臓の鼓動が、やけに大きく耳に響いた。

 時刻は午後十一時を回っていた。

 波の音が、変わった。

 均一だった音の中に、かすかな揺らぎが生まれている。ヘッドフォン越しに聞こえてくるそれは、まるで見えない何かが、こちらへ歩み寄ってくる足音のように思えた。


 そして、静佳が現れた。

 白い着物姿で砂浜を歩いてくる。月明かりに縁取られた横顔は、どこか別人のように見えた。感情が消えている。いや、感情というより、個としての「静佳」という輪郭そのものが、薄れているように見える。

 その後ろには、二人の老婆が寄り添うように付き添っていた。介添人なのだろう。

 静佳はピアノの前に立った。

 黒崎は、息を呑んだまま身じろぎもできない。


 沖の闇が、蠢いた。

 黒崎の目には、それがはっきりと見えた。海の向こう側の暗闇が、まるで巨大な生き物のように膨らみ、うねり、波とはまったく異なるリズムでゆっくりと形を変えている。

 ヘッドフォンから、低い音が聞こえてきた。波の音ではない。もっと深く、地の底から染み上がってくるようなもの。

 静佳が、鍵盤に手を置いた。


 最初の音が、鳴った。

 それはこの世のものとは思えない音だった。

 和音でも不協和でもない。

そもそも「振動」という概念で処理していいのかどうかさえ怪しい、奇妙な重さを伴った響きだった。黒崎の脳は、それを既知の理論に当てはめようと必死に働くが、理解は追いつかない。

 ヘッドフォンのレベルメーターが激しく振れている。だが、聞こえてくる音は歪んでいない。

 静佳の指が、鍵盤の上を滑る。

 波の音と溶け合い、沖の闇と共鳴し、部屋の空気ごと震えているように感じられた。

 沖の闇が、音に反応している。

 膨らみ、収縮し、波打つ。音に合わせて、形を変えさせられているようにさえ見えた。

 恐怖はあった。喉の奥が強張るほどの恐怖が。だが、黒崎は機材から目を離さなかった。観測者として、記録者として、この瞬間を取り逃すわけにはいかない。


 演奏は続く。

 どれほどの時間が経ったのか、黒崎には分からなくなっていた。一分かもしれないし、一時間かもしれない。

 静佳の指は、一度も休むことなく動き続ける。白い着物が月光を反射し、彼女自身が淡く発光しているかのように見えた。


 そして、クライマックスが訪れた。

 最も高い音と、最も低い音が、同時に鳴る。

 空間が、ぐにゃりとひしゃげた。そんな錯覚を、黒崎ははっきりと覚えた。

 沖の闇が、音に吸い込まれていく。うねりが収まり、膨らみが縮み、やがて海は何事もなかったかのように、ただの海へと戻っていく。

 静佳の手が、鍵盤から離れた。

 次の瞬間、彼女は糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。介添人たちが駆け寄り、両側から支えるようにして彼女を抱き起こす。

 三人の姿が、ゆっくりと闇の中に溶けていった。

 黒崎は、ただ窓の前に立ち尽くしていた。

 波の音だけがまた規則正しく響いている。まるで、何事もなかったかのように。


 夜が明けた。

 黒崎はあれから一睡もしていなかった。窓辺に座り込んだまま、ずっと海を見つめていた。

 朝日が海を照らし始める。ピアノは相変わらず波打ち際にあり、何も変わっていないように見えた。

 黒崎は機材の電源を落とし、ヘッドフォンを外した。

 それから、荷物をまとめ始めた。

 アルミケースに機材を収め、わずかな私物を鞄に入れる。民宿の主人には、玄関に置き手紙を残した。宿代は多めに置いていった。

 誰にも会わずに、町を出る。

 それが、黒崎にできる唯一の礼儀だと思った。

 バス停には、誰もいなかった。

 始発のバスを待つ間、黒崎は町を振り返った。静かな家並み。煙突から立ち上る朝の煙。どこかで鶏が鳴いている。

 普通の、穏やかな朝だった。

 昨夜のことが夢だったような気さえする。

 バスが来た。黒崎は乗り込み、最後部の席に座った。

 バスが動き出す。窓の外の景色が流れていく。

 黒崎はアルミケースを膝に置き、そっと蓋を開けた。録音機材の小さなディスプレイに、昨夜のデータファイルが表示されている。

 再生ボタンに指をかける。

 躊躇があった。

 だが、黒崎は押した。

 ヘッドフォンから聞こえてきたのは、激しいノイズだった。

 ホワイトノイズ、ハウリング、電気的な歪み。その奥に、かすかに波の音が聞こえる。だが、あの音――静佳が奏でた、この世のものとは思えない音楽は、どこにも記録されていなかった。

 黒崎は音量を上げ、周波数を変え、フィルターをかけてみた。だが、結果は同じだった。

 何も残っていない。

 深い、深い溜息が漏れた。

 落胆。

 それは確かにあった。

 だが、不思議なことに怒りも絶望も湧いてこなかった。代わりに訪れたのは、妙な安堵感だった。

 ああ、そうか。

 静佳の言葉が、脳裏に蘇る。

「音は消えるものなのではないでしょうか。鳴って、響いて、消える。それが音の本質なのでは」

 あの曲は、記録されるためのものではなかった。その瞬間に、その場所で、鳴らされるべきもの。それが終われば、消える。

 黒崎はそれを目撃することを許された。

 それだけで十分だったのかもしれない。

 バスは山道を登り、峠を越えた。

 町はもう見えない。

 耳の奥には、まだあの音が残っていた。

 不協和音とも、美しい和音とも言えない、何か別の次元の響き。波の音と混じり合い、空間全体を震わせたあの音楽。

 静佳が血筋と共に受け継いできたもの。

 あの土地が、何百年も守り続けてきたもの。

 それは、外部から記録されることを拒む。    

 バスの窓に額を預け、黒崎は静かに目を閉じた。

 耳の奥で、今も音が鳴っている。

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