灰色のメルヘンに色がつくまで

鶺鴒はる

第零章 幸福という名の誤答

第壹話 灰色の物語

空は薄暗く、太陽の存在さえ疑いたくなるほど陰鬱だった。


廃れた公園──家には居場所がない僕にとって、ここだけが”縄場”だった。


僕はベンチに腰掛け、肺の奥に溜まっていた鬱屈を、排気ガスみたいに吐き出そうとした。


「……もう夜なのか。帰るか。」


帰る。


この動詞は、僕にとって“刑罰”とほぼ同義だ。正直に言えば、家の中に、一瞬たりとも静けさはない。


扉を開けると、いつもの騒音が押し寄せた。いや、騒音なんて可愛い表現だ。

あれはまるで、まるで国家間での、一方的な戦争が、僕の家の中で再現されているようなものだ。


「なんでいつもそうなのよ!今回も“あの人”のため?!」

「どうして私を一度も見てくれないの!」


母の声は、ガラスが砕けるようにリビングに散った。


正直、僕はその声が大嫌いだ。

デシベルだけなら、飛行機のエンジンに匹敵するんじゃないかと思う。


母の感情の奔流を浴びても、父はいつものように沈黙。まるで脳の感情処理回路が抜け落ちているかのように沈黙したまま、静かに家を出ていった。


背中は、すべての枷を卸ろしたかのように軽かった。


──その日を最後に、父は二度と帰らなかった。


そして気づけば、もう数日経った。


「おはよ――晴人!」


常人離れした勢いで肩を叩き、太陽みたいに熱い声で話しかけてくるやつは、僕の知り合いでは一人しかいない。


竹川廣平。


運動神経は抜群で、爽快な性格、そして妙に気が利く。


簡単に言うなら──“完璧な人”。


少なくとも、以前の僕はそう思っていた。


「今日も相変わらず輝いてるな。お前のポジティブ放射はもう生物災害レベルだろ。」


そして、こいつは僕の皮肉がまったく通じないらしく、それでもにこりと微笑んでいた。


この男の唯一致命的な欠点──それは優しすぎることだ。


優しすぎて鬱陶しい。


いや──違う。違うんだ。ただ僕が、彼に嫉妬しているだけだ。

あの、何でも人を優しく受け止めてしまう性格に。

自分には持ち合わせていないものを、平然と持っているその在り方に。


毎日、自分の気持ちを全部見透かされるような気がする。

何かある度に、必ず真っ先に駆け寄ってくる。


問いはいつも核心を突き、嫌になるほど正確だ。

でも、僕が本気で怒る直前には、まるで予知しているかのように、絶妙なタイミングで引く。


本当に、面倒で、どうしようもないやつだ。


思えば、僕とこいつは知り合ってまだ半年なのに、何年も積み上げた友情みたいに距離を詰めてくる。


こいつ、一般的な友達関係の“発酵期間”ってやつが存在しないじゃないのか。煩わしい。


さらに面倒なのは──嫌いになれないこと。

この「嫌いになれない」という感覚、嫌悪より気持ち悪い。


「そういえばさ、昨日……なにかあったよね?」


「ちょっと悲しそうだったし。」


まただ。また見透かされた。


あの眼はまるで……探知レーダーでも積んでるんじゃないか。昨日食ったお弁当の中身まで解析できるんじゃないかと疑うレベルだ。


「なんでも分かってるみたいに言うなよ。」


「それに僕は別に悲しんでないし。その目、顔じゃなくて心臓についてるのか?息苦しい。」


「んー、それはつまり“なにかあった”ってことだよな?」


廣平は鋭い目で僕を射抜いた。その一瞬で、僕の逃げ道はすべて閉じた。籠の中の鳥さながら──いや、もうただの敗者だ。見事なチェックメイト。


「……分かったよ。言えばいいんだろ。」


「親が先日、協議離婚した。」


家は、法的に真っ二つに裂けた。


口にした瞬間、こんな簡単に言っていい話じゃなかったのかもしれないと思った。でも、実際には隠すほどのことでもない。


そもそも、二人が離婚する前から、僕はもうあの家にいなかった。


廣平の瞳に小さな波紋が広がったが、次の瞬間にはいつもの表情に戻っていた。


「そっか、そっか……まぁ、なんとなく予想はしてたけどな。」「で、これからどうするつもり?」


これから?


「……」


その言葉を反芻する。ぐるぐる回る。答えはもちろん出ない。

何をどうしたらいいのか、まったく見当がつかない。


そして、僕が黙り込むと、廣平は不思議なくらい追ってこなかった。

ありがたいような、少し物足りないような

──いや、たぶんどっちでもいい。


夕陽の温かい光が窓から差し込み、教室の空気を淡く染める。

下校のチャイムが鳴り、数分後には教室に僕ひとりだけ。

誰もいない席の間を歩くと、妙に静かで、少しだけ世界が遠く感じられた。


そんな空気の中に、ふと──青色が混じった気がした。

青春なんて単語、僕には関係ないはずなのに。

少なくとも、萬年帰宅部の僕とは無縁の色のはずなのに。


それでも、確かに一瞬だけ見えた気がした。


「……帰るか。」


黄昏の道には、僕の影だけが伸びては縮んだ。


社会的に“友人”と呼べるのは、廣平ただ一人だけ。認めたくはないけれど、否定もできない──いや、どうやら僕は本当に、一人だけなんだ。


僕は歩く。


家へ。


家と呼んでいいのかも分からない場所へ。


家は壊れた。でも結局のところ──僕には最初から帰る場所なんてなかったんだ。


この先、僕はどうすればいいんだろう。

少なくとも──僕自身には、まったくわからなかった。

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