呪物喫茶フラクタル ―夜廻り品定め―
ソコニ
第1話「泣き面」
新宿歌舞伎町の路地裏に、看板のない喫茶店がある。
午前三時。ネオンの明滅が途絶えた頃、店の扉を押し開ける音がした。
カウンター席に座る女は、三十代半ば。氷柱(つらら)という名の店主だ。黒いエプロン、短く切り揃えた髪、化粧気のない顔。客を見上げることもなく、サイフォンでコーヒーを淹れている。
「いらっしゃい」
声は低く、抑揚がない。
入ってきたのは、二十代の女だった。紗英(さえ)と名乗った。痩せている。頬には隠しきれない青痣。目の下の隈は、ファンデーションでは消えていない。
両手で大事そうに抱えているのは、風呂敷に包まれた何かだ。
「あの……ここ、骨董品を、引き取ってくれるって」
紗英の声は震えている。
氷柱は視線を上げず、答えた。
「買い取りはしない。コーヒー一杯、三百円と交換するだけ」
「それで、いいんです」
紗英は風呂敷を解いた。
中から現れたのは、能面だった。
増女(ぞうおんな)――泣き顔の女面。目尻は下がり、口元はわずかに歪んでいる。眉は八の字。木肌は古く、亀裂が走っている。
氷柱は初めて、紗英の顔を見た。
「それが?」
「夜中に、泣くんです」
紗英は小さく言った。
「夜中に?」
「はい。午前二時、三時くらいに。すすり泣く声が聞こえるんです。最初は隣の部屋かと思ったんですけど、違って。この面が、泣いてるんです」
氷柱は面を手に取った。裏側を確認し、表面を撫でる。木の質感、塗りの剥がれ具合、重さ。
「江戸時代のものだね。本物だ」
「やっぱり……」
「誰から?」
「夫の、実家です。義母が亡くなって、遺品整理で。私が能を習ってたことがあるからって、くれて」
紗英の声が、さらに小さくなる。
「でも、この面を飾ってから、おかしくなったんです。夜、眠れなくて。泣き声が聞こえて。夫も、イライラするようになって」
「イライラ?」
「ええ。些細なことで怒鳴られるようになって。物を投げられたり、腕を掴まれたり」
氷柱は紗英の頬の痣を見た。
「それで、逃げてきた」
「……はい」
氷柱はカウンターに面を置いた。サイフォンのコーヒーが落ちきる音だけが響く。
「この面、呪いはないよ」
紗英は目を見開いた。
「でも、泣き声が――」
「泣いてるのは、あんただ」
氷柱は紗英を見据えた。
「夜中に無意識で泣いてる。自分でも気づいてないだけ」
「そんな……」
「この面は、ただの骨董品。確かに古いし、誰かが使ってた歴史はある。でも、呪いなんてない」
氷柱はコーヒーをカップに注いだ。湯気が立ち上る。
「あんたは、自分が泣いてることを認めたくなかった。だから、面のせいにした。面が泣いてるって思い込んだ」
「違います。本当に聞こえたんです――」
「聞こえたのは、あんた自身の声だ」
氷柱はカップを紗英の前に置いた。
「泣きたいなら泣けばいい。面を盾にするな」
紗英の目から、涙が零れた。
声を上げずに泣いている。肩が震えている。
「夫が……怖いんです。でも、帰らなきゃいけなくて。お金もないし、行く場所もなくて」
氷柱は何も言わなかった。コーヒーを一口飲む。
「この面があれば、言い訳ができると思ったんです。『面のせいで眠れない』って言えば、夫も納得するかなって。でも……」
紗英はコーヒーに口をつけた。苦い。砂糖もミルクもない。
「この面、引き取ってもらえますか」
「いいよ」
氷柱は立ち上がり、カウンターの奥から風呂敷を持ってきた。面を包み、棚の上に置く。
「三百円」
紗英は財布から小銭を取り出し、カウンターに置いた。
「ありがとうございました」
紗英は席を立った。
氷柱は声をかけなかった。
扉が開き、閉まる音。
カウンター席には、冷めかけたコーヒーだけが残っている。
氷柱は棚の面を見上げた。
増女の泣き顔が、じっとこちらを見ている。
「……泣くのは、あんただけじゃない」
氷柱は独り言のように呟いた。
翌朝。
氷柱が店の掃除をしていると、扉が開いた。
紗英だった。
顔には新しい痣がある。左目の下が腫れている。
「すみません。やっぱり、面を返してもらえますか」
氷柱は無言で面を取り出し、カウンターに置いた。
「お金は……」
「いらない」
紗英は面を受け取り、風呂敷に包んだ。
「あの、夫に、この面が呪われてるって言おうと思って」
「……」
「そうすれば、捨ててくれるかもしれないから」
氷柱は紗英を見た。
「それで、あんたはどうするの」
「私は……」
紗英は言葉に詰まった。
「帰るんですよね」
紗英は頷いた。
「はい」
氷柱は何も言わなかった。
紗英は面を抱え、店を出た。
氷柱は窓の外を見た。
紗英の背中が、歌舞伎町の雑踏に消えていく。
面を抱えたまま。
夫の元へ戻る、その後ろ姿を。
氷柱はカウンターに戻り、コーヒーを淹れた。
一人分だけ。
棚の上には、誰もいない。
増女は、もういない。
だが、氷柱の耳には聞こえている。
遠く、微かに。
すすり泣く声が。
第1話 了
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます