最後の魔王を名乗った勇者

雨宮 徹

第1話

 魔王城の心臓部、玉座の間。



 アルカは呼吸を整えた。全身を覆う鎧は魔物の血と泥に塗れ、その手には聖剣が鈍く輝いている。この剣は、五年前、彼が勇者として旅立った日に、神殿で賜った聖なる証だった。



 魔王の四天王との激戦で、仲間たちはこの城のどこかで散った。彼らの犠牲を無駄にはできない。アルカの胸には、この旅の終結と、世界の平和を取り戻すというただ一つの使命だけが宿っていた。



 玉座の奥、巨大な黒曜石の上に座す魔王ガゼル。



 アルカの想像していた悪の権化、獰猛な怪物の姿ではない。痩せこけ、むしろ疲れ果てたようにも見える一人の男が、そこにいた。しかし、その瞳に宿る魔力と、彼から放たれる抑えきれない邪悪な気配が、彼が間違いなく世界を脅かす存在であることを証明していた。



「ついに、ここに来たか。新しい勇者よ」



 ガゼルがゆっくりと立ち上がった。その声には力強さよりも、どこか深い諦念が滲んでいる。



「ガゼル、魔王の座から降りろ! お前の邪悪な支配を、ここで終わらせる!」



 アルカは聖剣『クラウソラス』を構え、玉座へ向かって駆け出した。世界を救ったという伝説の勇者が、いかなる理由であれ魔王に堕ちたとしても、彼を討伐することがアルカの正義だった。



 激しい剣戟が玉座の間を揺らす。聖剣と、ガゼルの魔力を纏った黒い長剣が衝突するたび、閃光と爆音が響き渡った。



 魔王は強かった。驚くほどに正確で、美しい剣筋。それは、数多の魔物を打ち破ってきたアルカの剣技すら凌駕していた。かつて世界を救った最強の剣士だったという伝説が、冗談ではないことを痛感させる。



 だが、アルカは諦めなかった。仲間の魂が、剣を持つ腕を支えている気がした。



 隙を見て、アルカは全身の魔力を聖剣に注ぎ込んだ。聖剣の光が、ガゼルの魔力を打ち破り、その黒い剣を弾き飛ばす。



「勝った……!」



 アルカの聖剣は、迷いなく魔王の胸部を深く貫いた。



 魔王ガゼルは、崩れ落ちなかった。その口から、止めどなく吐き出される血は、禍々しい黒に近い赤で、床の石畳を焦がしながら広がる。



「やった……アルカ!」



 遠くから、唯一生き残っていた治癒士のセシルが、安堵と歓喜に満ちた声をあげた。



 しかし、アルカの勝利の歓喜は、魔王が放った最後の言葉によって、氷の塊のように凍結した。



「よくぞ、やった……勇者アルカ。お前は、この世界に最大の悪をもたらした」



「何を言っている! 俺たちは世界を救ったんだ」アルカは剣を握りしめたまま、全身の力を振り絞って怒鳴り返した。



 ガゼルは血を吐きながら、哀れな笑みを浮かべた。その眼差しは、勝利者ではなく、悲劇の担い手を見るようだった。



「救った? 違う。お前は、私の運命を引き継いだだけだ」



 魔王の体が激しく痙攣した。黒い血は、聖剣を伝い、アルカの足元へと勢いよく滴り、飛び散る。熱い鉄のような血飛沫が、聖剣の光を打ち消し、アルカの肌に焼き付いた。



「この血は、呪いだ。私がかつて浴びた血と同じ。そう、私は元勇者であり……歴代の魔王は、すべてお前たち勇者だったのだ」



 聖なる力に満ちていたはずの体が、急激な冷気と異質な熱に襲われる。アルカの視界が歪んだ。



「お前が浴びたのは、私の血ではない……呪いそのものだ。真の悪から世界を永続的に守るため、初代の魔王、最強の剣士と呼ばれたアシュラが、自らの体に世界の呪いを封じ込めた。この血は、その封印を維持するための必要悪の結晶だ」



 ガゼルは、最後の一滴の力を振り絞るように、震える声で告げた。



「勇者が魔王を倒す。その際に血を浴びる。そして自らも魔王になる。そうすることで、真の悪はアシュラの血の連鎖の中に封じられ続ける。そして今、お前がその連鎖の新たな担い手だ」



「やめろ……嘘だ!」アルカは剣を引き抜こうとしたが、血飛沫を浴びた手足は、すでに自身の意志を無視して痙攣し始めていた。



 ガゼルは、そのまま静かに息絶えた。



「さあ、アルカ。次の魔王はお前だ。永遠に続くこの連鎖を、お前は……どう、する……」



 玉座の間を満たすのは、新しい魔力の胎動だった。アルカの全身から、聖剣の光を打ち消す、おぞましい闇の魔力が発現し始めていた。



 彼は、自分が正義の剣で世界を救ったのではないことを悟った。自分は、ただ悪の連鎖を次の世代へと繋いだ、新たな魔王に成り代わっただけだと。

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