ブレスリア

カリアリント

第1話 星屑

 突然の出来事だった。呪いの根元からもっとも遠い唯一の安泰の地に遂に呪いが攻めてきた。果ての見えない闇の中から黒煙と共に彼らは現れた。姿形がわからなくとも、皆が戦慄した。此が呪いかと。

 統率など取る暇もなかった。逃げる場所なんてどこにもなかった。蹂躙、衝戟、その嵐。瞬きするたびに人の命が闇へと消えていった。

 私はなにもできなかった。戦う意思を言葉で連ねたところで、そんな力はないことを皆知っていた。私は守られた。私に価値など何一つとしてないのに。


 外の騒動がまるで幻聴であったかのようにぱたりと止んだ。呪いは去ったのだろうか。外はどうなっている。私はどれだけこうしていた。

 傷一つない小さな体を重苦しく持ち上げ、食料庫の冷たい地面から壁を伝いゆっくりと起き上がる。腰に携えた細長い鞘が地面を削る。埃臭い部屋に軽い足音がコツコツと響く。

「お兄様…」

かすれた声が流れ出る。戦いは終わったはずなのに、兄は迎えに来てくれない。いや、まさかそんなことはない。国一番の腕を持つ兄が負けるはずがない。お兄様。私の大事な人。私を隠してくれた人。私の誰よりも愛する人。そこにいるのでしょう?残り火のような希望を絶つまいと心で唱え続ける。

 やっとの思いで扉のノブに手が届く。扉が重い。開けたくない。呪いがまだいるかもしれない。息を潜めて生き残りを探しているのかもしれない。恐怖で手の震えが止まらない。しかし兄がいる。百戦錬磨の兄がこの扉の前にいたはずだ。歯を食いしばって全身に力を込める。木でできた扉が開くと同時に暗闇に慣れた目が光を拒む。

「お兄様!」

 そこにいるはずの兄に呼び掛ける。

 返事はない。が、そんなことは気にも留めていなかった。

 目を開けなければ。兄のもとへ行かねば。兄に伝えるのだ。私は無事だと。守ってくれてありがとうと。

 ゆっくりと目が開く。青白い光が刺さる。と同時に、目の前に広がる光景に全身が凍ったような寒気が走る。窓は割れ、壁一面には黒い何かがこびりつき、床には血と、破片と、死体の山。遠くには呪いか、それとも火事か、煙が蛇のようにうねり上がっている。しかし彼女の目には、そのどれもがどうでもよかった。目の前にある一つの胴体を覗いて。

 なんだ此は。なぜこの体は兄の鎧をまとっている。四肢は捻り切ったように四方へと飛び散り、断面からは新鮮でしっとりとした血が垂れ落ちる。頭があるはずの場所には潰れた兜と照り輝く肉塊が混ざりあった何かがあるその隙間を埋めるように更に赤黒い血が。そんな死体がなぜ、兄の鎧をまとっている。なぜ腰に兄しか持たないペンダントを身に付けている。

「な、あ、」

 違う、絶対に違う。兄が負けるはずがない。そんなことにはならない。ブレスリアの英雄がこんな一瞬でやられるわけがない。誰も信じない。

「探さないと、お兄様を、」

 息すらまともに吸えない喉から嗚咽混じりにぶつぶつと声が漏れる。なぜか涙が流れてくる。此は兄じゃない。兄はどこかにいるはずなのに。

 膝からゆっくりと体が崩れていく。血に滲むドレスなどどうでもよかった。心底どうでもよかった。今は唯、本能で確信した、兄を失くしたという事実に打ちひしがれていた。なにもできなかった自分の非力さに無性に腹が立った。なにもできなかったのではない。なにもしなかったのだ。守ってやるという言葉を待っていたのだ。戦いたい。そんな言葉は唯の建前に過ぎなかった。恐怖に怯える過去の自分を呪い殺してやりたかった。その呪いの矛先はじわじわと現在の自分へと向かってゆく。

 腰にぶら下がる光沢煌びやかな剣を抜く。軽いはずの剣がやけに重たい。

「お兄様…無力な私をお許しください…今すぐにそちらに参ります…」

 こんな命もうどうだっていい。兄を見殺しにした命など存在する価値もない。呪いを前になにもできない、力のない命に、必要とする世界も。国も。人もいない。今すぐ死のう。死んで詫びよう。私を守って死んだ人たちに。

 首に剣を押し当てる。ひんやりと冷たい刃の感触に反応する元気などとうになくなっている。一思いに首を切ってやる。しかし彼女はできない。そんな勇気などあるはずがない。身を粉にして呪いと戦う勇気のない体に、自分の命を自分で絶つことなどできるはずがないのだ。

 

 時間だけが唯流れていく。灰色の雪が屋内に降り積もっている。涙などとっくに枯れ果てた。なにも見えない。もうなにも見たくない。

 

 此は王都ブレスリア、ここで起こった悲劇のほんの一部である。そんなものは、この世界に蔓延る数多の絶望の唯一つに過ぎない。呪いはじわじわと世界を飲み込んでゆく。

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