桜の季節過ぎたら
大釋 空良
0.エピローグ
一月三日、三時前の東京・大手町。白息が立ち上る極寒の空気のなか、勝利チームインタビューをひと目見ようと、多くの観客が肩を寄せ合うようにして詰めかけていた。
「今年の東京箱根間往復大学駅伝競走を制しました!京浜葉大学の選手の皆様です!」
アナウンサーは、高揚した声で観客をさらに熱狂へと誘っていく。
監督を先頭に、一区から順番にランナーたちがインタビューに応じていく。そして、ついに自分の番が回ってきた。
「八区・同級生の大井選手から襷を受け取り、迫る東都大学を突き放す圧巻の走りを見せました!最終的に鶴見中継所では東都大に二分ものセーフティリードを作り、三年連続で区間賞を獲得!最高学年としてまさに八面六臂の活躍でした!京浜葉大学の"ホシ"、九区・村田星一選手です!」
アナウンサーがわざとボルテージを上げるように叫ぶと、観客席のざわめきが一気に膨れ上がった。
「ありがとうございます。」
スポーツ選手の常套句で軽く受け流すように答える。いくつかの質問が続き、そこには型にはまった返答を淡々と返した。そして最後に、全員に問いかけてきた質問が自分にも投げられた。
「村田選手にとって、走ることとはどんな存在でしょうか?」
ほんの数秒思案し、そして口が自然に動いた。
「自分にとって走りは、好きでも嫌いでもない、どうでもいい存在なので……」
言い終えた瞬間、それまで熱気を帯びていた空気が、十度を下回る東京の寒さと同じほど冷え込むのを、肌で感じた。
「七星HD・村田星一選手 引退記念特別インタビュー」と書かれた横断幕が掲げられ、ライトが眩しく照らすステージ中央で、元オリンピアンで現在はスポーツコメンテーターの塩田が軽快に質問を続けていた。
「なんで二十八で走るのやめちゃうの?今が一番脂が乗ってる時じゃん。」
肩の力が抜けたような口調だが、その奥には本気の疑問が隠れている。
「いやー。男子陸上界には四十近くまで走り続けるようなバイタリティのある方もいますけど、自分はそこまでのモチベーションはないですね。」
塩田は首を傾げ、納得できないといった顔でさらに踏み込んだ。
「えー。怪我が重なったとはいえ、三年前の世界陸上では日の丸を背負ったし、出るレースでは必ず表彰台。福岡国際マラソンでは自己ベストで日本男子十傑入り。今の日本人長距離ランナーの中でも三本の指に入る選手だよ?本当にやめちゃうの?」
「今回の怪我が決定打になりましたね。もうこれ以上、怪我に泣かされるのは御免です。それに――これは陸上を始めた頃からずっと思い続けているんですけど……」
一呼吸おいて、静かに告げる。
「自分、走ること好きじゃないんですよね。」
その瞬間、塩田の表情が引き攣り、六年前の一月、同じ質問に答えたあの日の空気が、残酷なまでに鮮明に脳裏に蘇った。
自分は、日本代表に選ばれたこともある陸上選手だった。だが、走ることが好きかと問われれば、答えはいつだってNOだ。
だからと言って、陸上そのものを否定するつもりはない。陸上がくれた仲間、経験、思い出。それらは確かに自分の人生に強い光を落としてくれた。
ただ、走ることそのものに喜びを見いだすことが、一度たりともできなかっただけだ。
自分にとって走りは強いて言えば「無関心」だ。「好きの反対は無関心」と言われるように、それは最も冷めきった距離感だろう。
学年で一番足が速かったからというなんとなくの理由で陸上の世界に足を踏み入れ、指導者から「お前は長距離の方が向いている」と言われて長距離種目へ転向し、そのまま高校・大学もスポーツ推薦でトントン拍子に進学して、そこで好成績を残したがために実業団へ入団した。
そして、実業団に入団して初めて走ったマラソンであるびわ湖毎日マラソンでは初マラソンにしてサブテンと、当時の陸上界としては驚異的な記録。世間は「マラソンの新”星”現る!」と騒ぎ立てた。更に次に出走した福岡国際マラソンでは全体三位。日本人一位の好成績を残したがために、世界陸上の男子代表に選考され、気づけば日の丸が刻まれたユニフォームを着て、異国の地を駆けていた。
陸上に対して全くを持って積極的に向き合わず、受け身に消極的に過ごしてきたにもかかわらず、陸上で食える生活が送れていたのは、強靭な精神力と類い稀なる陸上の才能があったからこそだろう。
その才能は、私にとっての呪いだった。
才能というものは、常に私に「やる理由」を与え続けた。
指導者は「君には日本一になる義務がある」と言い、チームメイトは「村田ならやってくれる」と目を輝かせ、実業団のスカウトは「会社を背負ってくれ」と頭を下げた。そして、陸上ファンたちは私の走りに歓声を上げ続けた。
誰の期待も、自分にとっては重荷でしかなかった。走ることに喜びを感じられない私が、彼らの期待に応えるたび、私自身の「無関心」がより強固なものになっていくのを感じた。
だが、ここまできて陸上を止めることはできなかった。なぜならば、自分は走ることでしか唯一、自分自身という存在を証明できなかったからに過ぎない。
結局、私は陸上という流れに乗って、ただ流されてきただけだ。それは、何の目標もなく、ただただ惰性で続けただけなのに、日本男子陸上界に大きな爪痕を残すまでの結果になった。
そして今、私はその流れから降りてやる。
二十八歳。陸上界では「まだ走れる」と言われる年齢で。
「エース区間・一区、今年も最初から先頭を譲らない走り!愛知・蓬左学院高校、鬼頭清美!」
「残り一キロで五キロを通過!速報タイムから換算しますと、このままのペースなら高校生としては驚異的な一九分〇秒台……いえ、一八分台すら見えてきます!」
「出ました!速報タイムは一八分五十五秒!一八五十五秒です!二年連続の区間賞、そして区間新記録を樹立しました、鬼頭清美!」
「都大路に新たなスターが生まれました!まさに“都大路の鬼”、鬼頭清美!」
一二月の冷たい京都の空気を切り裂くように、観客の大歓声が立ち上る。
平野神社前の中継所を揺らすそのざわめきは、波のように胸の奥まで押し寄せてきた。
それは、鬼頭清美という名前が高校駅伝界の伝説となったことを告げる、甘美で陶酔的な響きだった。
「エース区間・五区に一位で襷が渡りました!大学駅伝デビューとなります紫峰館大学、都大路の“鬼”、二年生・鬼頭清美!」
「五キロを過ぎましたが、速報タイムは一八分五三秒……伸びてきません!」
「四区で一分半以上離れていた桜修学院大学が迫ってくる!踏ん張れるか、鬼頭清美!」
「紫峰館大学、三位で六区に襷をつなぎました!鬼頭清美、期待の大学駅伝デビューでしたが、速報タイムは三十三分四十二秒……失意の大学駅伝デビューとなりました!」
十月の仙台。全力で走り切ったはずなのに、二年前の京都のような熱狂は起きない。
あの頃の「鬼頭清美」は、もうどこにもいない——周囲の反応がその事実を突きつけてきた。
ただ走ることが好きだった。それだけだった。
その単純でまっすぐな理由で陸上を始め、過酷な練習にひたむきに向き合い、気がつけば高校駅伝で栄光の座にまで辿り着いていた。
努力すれば結果はついてくる。そう信じて疑わなかったし、実際、高校まではその法則が裏切ることはなかった。
だが、大学に進んだ途端、その信念はあざ笑われるように崩れ去った。
高校時代、「都大路の鬼」と称された私は、大学ではたちまち“都大路で燃え尽きた選手”“伸び悩む元スター”と噂されるようになった。
全日本女子大学駅伝五区での三十三分四十二秒。
それは世間の期待を裏切った数字であり、同時に私自身のプライドを深く刻む烙印となった。
どれだけ科学的トレーニングに取り組んでも、どれほど自分を追い込んでも、タイムは伸びない。
むしろ、高校時代の自分が背中越しに遠くなっていく。
胸の奥で何かがゆっくりと、しかし確実に崩れていくのがわかった。
スランプ。そんな凡庸な言葉ではとても片づけられない。
私は迷い、焦り、そして溺れていった。
深夜、寮を抜け出してひとりでトラックを走った。
月明かりに照らされるレーン。そこに靴音だけが乾いたリズムで響く。
走っていないと自分が崩れ落ちてしまいそうで、止まることができなかった。
だがそれは救いではなく、むしろ破滅だった。
オーバーワークの末、左足首の疲労骨折。
長くつらいリハビリ生活が始まった。「走りたい」という願いだけでは、どうにもならない現実。
リハビリ室の窓越しに、同期の背中が軽やかにトラックを駆けていくのを、私はただ見ているしかなかった。
無力感と置いていかれる悔しさ。
今でも、その瞬間の心の痛みが不意に蘇ることがある。
それでも、走ることだけはやめなかった。
高校時代の栄光に縋って、今年の春から女子陸上の名門・メートクへ入社することになった。
地元・名古屋の名門企業。家族は総立ちで喜んだ。
だが私に与えられたのは、専属選手ではない。午後まで職場で働き、夕方から練習する兼業選手。Bチームの立場だった。
悔しくないはずがない。
屈辱を感じないわけがない。
それでも、私はへこたれない。
走ることは、私の人生そのものだから。
スランプと怪我で炎は一度消えかけても、心の奥にはいつも「走りたい」という渇望が残り続ける。
死ぬまで走っていたい。
死ぬまでトラックに立っていたい。
その熱だけが、今の私を前へと押し出す唯一の燃料だ。
来年のニューイヤー駅伝を走って現役を引退する。その発表を行った数日後のことだった。登録されていない番号から突然電話が鳴った。受話器越しに名乗ったのは、女子陸上界をけん引する強豪・メートク女子陸上部の関係者だという人物だった。要件はただ一つ。
「名古屋に来てほしい。詳しいことは名古屋で話す。」
あまりにも唐突な呼び出しだった。疑心暗鬼にならないはずがない。しかし、どこか胸の奥がざわついた。それは不安ではなく、長年封じ込めていた“未練”が騒ぎ始めたようなざわめきだった。
所属する実業団の拠点がある東京から新幹線に飛び乗り、名古屋駅へ降り立つ。指定された住所に向かうと、そこには練習拠点として知られるメートク女子陸上部のクラブハウスがそびえていた。二階建ての近代的な建物。ガラス張りの玄関は夜でも淡く光を放ち、静かな威圧感があった。
警備員に事情を説明すると驚くほどスムーズに中へ通され、応接間へと案内された。そこは落ち着いた照明に包まれ、革張りのソファと低いテーブルが配置された重厚な空間だった。
数分後、ノックの音が静寂を破る。
ゆっくりと開いた扉の向こうに立っていたのは女子陸上界の名伯楽と称される、メートク女子陸上部監督の有賀だった。
有賀は私の正面に腰を下ろし、しばし無言でこちらを観察する。その視線に圧迫感はない。むしろ、私という人間の“奥”を見ようとしているようだった。
そして静寂を切り裂くように、有賀は淡々と、しかしはっきりと告げた。
「大井翔君。来年四月から、うちのチームでコーチをしてくれないか?」
思いもよらない言葉に、胸の鼓動が跳ね上がった。
「……コーチ、にですか?」
「そうだ。」
突然の申し出に、なぜ自分が、と疑問が渦巻いた。大学時代、たしかに箱根駅伝三連覇を経験した。だが、それは“勝者の一員”だっただけで、貢献度は限りなく低い。特に四年時の最後の走りは、チームの足を引っ張るようなものだった。それでも優勝の美酒を味わえたのは同期に不世出の天才・村田星一がいたからだろう。
自分が名選手だったことなど一度もない。
実業団に入ってからも目立った成績は残せず、伸び悩み続けた。そして二十六歳という若さで、自ら限界を悟って引退を決めたのだ。
「お気持ちは嬉しいですが……自分なんかより適任の方がたくさんいると思います。それに、来年度から所属している実業団の本社に入社が決まっていて……」
やんわりと断ろうとした。しかし、有賀は一切引こうとしなかった。
「君は、走ることに未練があるだろう? その気持ちを整理するためにも、うちでコーチングをしてみないか。」
その言葉は、胸の奥に隠していた弱さを射抜いた。
“タイムが伸びない”という現実から逃げるように辞めたが、心の奥ではまだ陸上にしがみついていた。
「……自分のように実績のない人間が指導者になっても、いいのでしょうか」
問いかけると、有賀は即答した。
「君の熱血漢ぶりは、大学時代から陸上界で評判だったよ。その“熱さ”は、実績を超える武器だ。私はそう思っている。」
熱血漢。そんな自覚はなかった。ただ“才能がないからやるしかない”と自分を追い込み続けただけだ。しかし、有賀の目は、その裏にある純粋な情熱まで見抜いていた。次の言葉が、胸を震わせた。
「指導者になって、君の中でまだ燃え続けている火種を、将来ある選手たちに託してみないか?」
会社員として安定した将来が待っている。それが安全な道なのはわかっていた。だが同時に、それは心の奥の炎を完全に消してしまう道でもあった。
反対に、コーチとして陸上に残るということは炎を再び灯す。いや、より大きく燃やすチャンスだった。
ゆっくりと顔を上げ、決意の言葉を口にした。
「……分かりました。コーチ就任の話、お受けします。」
外では名古屋の夏の陽炎が揺れ、熱気が肌を刺していた。
しかしその暑さ以上に燃える熱が胸の奥に広がっていた。
こうして私は、選手としての「走る人生」を終える代わりに、誰かの「走る未来」をつくる道を選んだのだった。
「ラスト一キロ、全力で行くぞ! 三分三十秒を切れるように踏ん張れ!」
大井コーチの声が夜のタータントラックに響く。その声には、選手の限界を引き出そうとする強い意思があった。
METOKUの文字が入った練習着を着る私たちBチームのメンバーは、その指示に応え、さらにペースを上げた。乳酸が溜まり始め、脚が鉛のように重い。ビルドアップ走の終盤が最もきついことは分かっているが、体は言うことを聞かない。
先頭の選手に食らいつこうとギアを上げる。しかしじわじわと距離が開く。その背中は、自分の不甲斐なさを否応なく突きつける。
「東! 何とか食らいつけ!」
村田コーチの声が飛ぶ。だが、体は悲鳴を上げていた。呼吸は焼けるように熱く、視界が揺らぐ。
「残り四百! 一秒を削り出せ!」
大井コーチの檄に皆が応えるように加速していく。私は必死にピッチを上げようとするが、差はむしろ広がっていくばかりだった。
そして悔しさだけを抱えたまま、フィニッシュラインを通過した。
地面に手をつき、荒い呼吸を繰り返す。汗が夜風に冷やされ、震えが走る。先頭を走った選手はすでに涼しい顔でクールダウンを始めていた。その顔には疲労が見られるものの、ともに充足感も見られた。
しばらくして、有賀監督がAチームの練習からこちらにやってくる。
「今日の練習は終わり。クールダウンしたらすぐ寮に戻るよう。」
皆が疲労の表情を浮かべながらもシャワールームのあるクラブハウスへ向かう。だが私は、その流れに加わらなかった。
こんな走りで、帰れるわけがない。
チームで一番実力のない自分がのうのうと戻っていいはずがない。
そう思い、誰もいなくなったトラックへ戻る。
腕時計をランニングモードに切り替え、重い体を再び動かす。
追いつきたい。Aチームに。いや、自分の理想の背中に。
しかし体は限界だった。ペースは上がらず、十周目に差しかかった瞬間、足がもつれた。膝が落ち、手がアスファルトを叩く。
「……くそ……」
情けなさと悔しさが一気に込み上げる。立ち上がろうと気合を入れたその刹那。
「礼! 走るのをやめて!」
鋭い声に振り向くと、同い年で友人の清美がこちらへ駆け寄っていた。その背後には、村田コーチと大井コーチ。二人の表情は厳しく、しかしどこか痛ましげだった。
「何をしているんだ!」
大井コーチの一喝に言葉を失う。そして、清美は私のそばにしゃがみ込む。
「もう限界超えてるよ。ほら、足……震えてる。」
言われて初めて、自分の膝が勝手に震えているのに気づいた。呼吸も制御できない。
「……でも、Aチームに上がるには、これくらいやらなきゃ……」
弱々しく漏らすと、清美は眉を寄せた。
「私も昔そうだった。でもね、それは努力じゃなくて、ただの自滅だよ。」
その声には、自分の経験から来る切実さが滲んでいた。
村田コーチが静かに近づき、片膝をついて目線を合わせる。
「東。君の努力は否定しない。気持ちも素晴らしい。だが、体が“止まれ”と言っているのに走るのは、努力じゃない。“暴走”だ。」
大井コーチも無言でうなずく。そして、村田コーチは真っすぐな眼差しで言葉を続けた。
「才能があるからこそ、正しい努力が必要なんだ。」
さらに、静かだが確かな声で言う。
「焦るな。君の才能は、努力を裏切らない。」
その瞬間、張り詰めていた何かが音を立てて崩れた。
頬を伝う涙を止められなかった。
この人についていけば、必ず前へ進める。そう、心の底から思えた。
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