第12話 息を奪う煙、息を選ぶ声

 黒煙の壁を抜けた瞬間、世界がねじれた。


 熱と油と、焼けた樹脂の匂い。

 目を刺す刺激。

 耳の奥で、太鼓の低音だけが妙にくっきりと響いている。


(まだ……上だ)


 レオナルドは、数段飛び上がるように階段を駆け上がり、平らな石床に飛び出した。


 そこは、煙で囲まれた小さな世界だった。


 中央に、巨大な香炉。

 その四方を、黒衣の神官たちが取り囲んでいる。

 白と黒の顔料で塗られた顔は、煙に溶けて輪郭が曖昧だ。


 香炉の前の石台――供儀台には、ひとりの巫女が縛り付けられていた。


「……コアトリ」


 イツィルの声が、布越しに震える。


 若い巫女は、額の白い線を涙でにじませながら、必死に息をしていた。

 胸が浅く速く上下し、口元からは、黒い煙に混じった咳がこぼれている。


 その喉元の少し上。

 石刃の先が、静かに止まっていた。


 刃を握るのは、シワコアトルの側近の神官。

 彼の背後には、長衣に翡翠の首飾りをまとったシワコアトル大神官が立っている。

 黒い顔料に塗られたその顔は、笑ってはいないのに、どこか愉悦の影を浮かべていた。


「間に合ったかどうか、ぎりぎりのところだな」


 シワコアトルは、煙の向こうからレオを見た。


 声は落ち着いている。

 だが、その落ち着きは、刃を握る者の余裕だった。


「やめろ」


 レオナルドは言った。

 自分の声が、思っていたより低く、荒く響く。


「その子は病んでいない。

 病んでいるのは、お前の頭と、この煙だ」


 周囲の神官たちがざわめく。

 石床の上で、衣擦れの音が円を描いた。


 イツィルが、レオの横へ一歩出る。


 布で覆われた口元から、祈りの節が漏れた。


「この煙は、神々の風に乗っていません」


 彼女は、香炉の上の層を指差す。


「Copalli(コパル)は白くない。

 Picietl(ピシエトル)は多すぎて、油で重くされている。

 風は神殿の上から吹いているのに、この煙は下へ落ちている。……これは神の煙ではなく、“閉じ込める煙”です」


 シワコアトルの目が細くなった。


「黙れ、巫女」


「黙りません」


 イツィルは、ほんのわずか顎を上げた。

 その仕草は、怖れを押し殺したというより、怖れと一緒に前へ出たような、ぎりぎりの強さだった。


「私は煙を読む者です。

 あなたがどんな神の名を唱えようと、

 この煙が“息を奪うための煙”だという事実は変わりません」


 刃を持つ神官の指が、微かに震えた。


 だが、シワコアトルは一歩も退かない。

 声はむしろ、さらに静かになった。


「巫女は器だ。

 目で見るのではない。

 ただ、神々の言葉を通し、黙って捧げられる器だ」


 彼は石刃の柄に触れ、わざとらしくゆっくりと押し下げた。


「病んだ器は、神々に返さねばならぬ。

 この巫女は、異国の医師と交わり、煙を乱した。

 だから、ここで一度――」


「病んでいるのはその理屈だと言っている!」


 レオの怒鳴り声が、黒煙を割った。


 自分でも驚くほど、喉の奥が燃えるように熱い。


「疫病で苦しむ者たちを“神への供物”と呼び、

 息をしている巫女を“病んだ器”と呼ぶ。

 そんなものは医学ではなく、祈りですらなく、

 ただの怠慢だ」


 神官たちの目が、一斉に異国の医師へ向いた。


 彼らの中には、昨夜、レオが戦士を助ける場面を見た者もいる。

 病区画で子どもたちの胸に耳を当てていた姿を見た者もいる。

 その記憶と、今の怒声が、煙の中で複雑に交差した。


「異国の言葉に惑わされるな」


 シワコアトルは、輪の中心で低く言った。


「こいつは神々の煙を恐れている。

 だから、薬とやらで我らを縛り、

 やがてこの都を異国の神に売り渡すつもりだ」


 その言葉に、数人の神官がうなずきかける。

 黒煙の中で、不安はたやすく恐怖へ変わる。


 イツィルは、レオの袖を軽く引いた。


(レオ、吸いすぎると……)


 彼女の目がそう告げていた。


 レオは息を吐き、革袋に触れた。


 まだ、わずかに残っている。


 ヴィネガーと香草と海水の混合液。

 これだけで毒煙全部を打ち消すことはできない。

 だが、局所的に薄めることはできる。


「……コアトリから離れろ」


 レオは、石刃の神官を睨んだ。


「それとも、お前の肺で試してみるか? この煙を」


 神官が一歩引いた、その瞬間――


 太鼓が鳴り方を変えた。


 ドン。

 間。

 ドン、ドンドン。


 低音と高音の組み合わせ。

 夜の儀礼で使われるパターンではない。


 レオには意味が分からない。

 だが、クァウティクから教わった“合図”の話が、頭の片隅に蘇る。


(堤道を囲むリズム……)


 イツィルもそれに気づいたのか、瞳を見開いた。


「クァウティク……?」


 階段の下から、槍と盾の打ち鳴らされる音が近づいていた。

 神殿を囲むように、金属と木の響きが重なっていく。


「何だ、この音は」


 一人の神官が、落ち着かない声で言う。


 シワコアトルは、眉ひとつ動かさなかった。


「反逆の足音だ。

 戦士どもが神域を穢そうとしている」


 彼は香炉の縁に手を伸ばした。


 黒く濁った粉。

 Picietlと油を混ぜたものだ。


「ならばこそ、この儀礼を急がねばならぬ。

 巫女を捧げ、神々の怒りを鎮める。

 さもなくば、この都は疫病と反逆と異国の毒に呑まれる」


 石刃が、再びコアトリの喉へ向かう。


 レオは考えるより先に、身体を動かしていた。


 革袋から液体の瓶を取り出し、栓を歯で引き抜く。

 そのまま、香炉の炎と刃を握る神官の間に飛び込んだ。


「やめ――」


 誰かの叫びが聞こえたが、もう遅い。


 レオは、瓶の中身を、神官の足元と香炉の縁へ一気にぶちまけた。


 酸っぱい匂いが、黒煙の中に弾ける。

 樹脂と油が濡れ、炎が一瞬しゅっと弱まった。


 神官が驚いて後ずさる。

 刃先が逸れ、コアトリの喉から離れる。


「何を――!」


 シワコアトルが怒鳴る。


「毒だろうと何だろうと、お前たちの煙よりはマシだ」


 レオナルドは、咳き込みながら笑った。


「神々の名を借りた窒息より、

 ただの酸っぱい臭いのほうが、まだ人を生かす」


 黒煙の層の一部が薄くなった。

 そこから、外の空がわずかに覗く。


 灰色の天蓋と、遠くの湖。

 そして――王宮の屋根。


 その手前で、なにかが動いた。


 翡翠と金の光。

 羽根飾りの輪郭。


(……まさか)


 イツィルが息を呑んだのと、

 黒煙の隙間からその姿が現れたのは、ほとんど同時だった。


 トラトアニ――王がそこにいた。


 昨日の儀礼と同じく、

 青と緑の羽根飾りを肩にまとい、

 胸に金と貝殻を光らせている。


 だが、顔にはもう幻視の酩酊はなかった。

 煙の刺激で潤んだ目の奥に、はっきりとした意志が宿っている。


「王……」


 シワコアトルの声が、初めて揺れた。


「どうしてここに」


「神々の声を聞きに来た」


 王はゆっくりと、香炉の前まで歩み出た。

 周囲の神官たちがひざまずこうとするが、彼は手を上げて制した。


「昨夜、私は煙の中でふたつの未来を見た。

 お前たちが混ぜた草と、巫女の祈りと、

 異国の医師の言葉の中でな」


 王の視線が、レオとイツィルを順にかすめる。


「ひとつは、神官の望む未来だった。

 血と供儀と戦と、

 その果てにやって来る白い服と鉄の影」


 湖の向こうで見た幻視。

 痘瘡と鉄と火に塗りつぶされる都の光景が、

 レオの脳裏にも蘇る。


「もうひとつは――」


 王は香炉の縁に手を置いた。

 まだ熱い石の感触が、手のひらを焦がす。


「煙と薬と祈りで、

 少しだけ滅びを遠ざけようとする者たちがいる未来だ。

 戦士と交易人と巫女と医師と、病に苦しむ者たちが、

 神々に縋るだけではなく、自分たちの息を選ぼうとする未来だ」


 シワコアトルの顔から、ゆっくりと笑みが消えていく。


「王よ。

 それは幻視に過ぎません。

 神々は、血を求めておられる。

 疫病は怒りのしるし。

 怒りを鎮めるには――」


「巫女の喉を裂くのか?」


 王の声が、鋭く空気を切った。


 コアトリが、縛られたまま小さく身を縮める。

 その肩が、布の下で震えている。


「それとも、病人の肺を煙で塞ぐのか?

 神々のためと言いながら、

 お前たちが守っているのは“神官自身の秩序”ではないのか」


 煙が、ひときわ大きく揺れた。


 太鼓の音が、階段の下で変化する。

 ドン、ドン、ドン――三度の連打。

 そのあとに続く長い間。


 戦士たちが、神域の外周を完全に囲んだ合図だった。


「神域は囲まれています、大神官」


 王は静かに告げた。


「堤道は戦士クァウティクの指揮下にある。

 水門はマチョトルとヨロトルが握っている。

 市場は閉じられ、

 今この瞬間、病区画に焚かれている“黒い煙”も、

 戦士と医師によって薄められている」


 シワコアトルの目が見開かれる。


「誰の許しで……!」


「この都の主としての、私の許しだ」


 王ははっきりと言った。


 その言葉が、石床に落ちる。

 響きはゆっくりと広がり、黒煙の層を揺らした。


「神官に与えていた“煙の権利”を、ここに取り上げる。

 香炉と草と火は、もうお前たちだけのものではない」


 神官たちに動揺が走る。

 それは信仰よりも、権力を失うことへの恐怖だった。


「王よ、それは――」


 シワコアトルが杖を振り上げる。


「神々への反逆です!」


「違う」


 そう言ったのは、イツィルだった。


 彼女はコアトリの縛めに手を添えたまま、顔を上げる。


「それは、“人間の責任を取り戻す”ことです。

 神々は煙の向こうから見ているだけ。

 誰を殺し、誰を生かすか決めてきたのは、いつも私たちでした」


 彼女の声は震えていたが、その震えは恐怖のせいだけではない。

 悔しさと、長い年月の重さと、自分自身への怒りが入り混じった震えだった。


「私は巫女として、

 あなたたち神官に従って、煙を焚いてきました。

 祈りの言葉を間違えないように、

 息の数を数えながら」


 彼女は香炉を見る。


「でも、昨夜、病区画で痘瘡の子どもの息を聞いたとき、

 その子の胸の上で揺れていたのは、

 神々の意志ではなく、“人間の選んだ煙”だと気づきました」


 シワコアトルの眉間が深く寄る。


「イツィル――」


 レオナルドは、布越しにその名を呼んだ。


(言い切れるのか……ここで)


 イツィルは頷くように、ほんの少しだけ目を閉じた。

 そして、コアトリの縛めを握る手に力を込める。


「だから私は、巫女として選びます」


 黒煙の中で、彼女の瞳だけがはっきりと光った。


「この都の煙は、神官ではなく、

 王と、戦士と、交易人と、病に苦しむ者と、

 そして、異国の医師と、巫女とで決めるべきだと」


 沈黙が落ちた。


 太鼓の音さえ、一瞬止まったように感じられる。

 実際には鳴り続けているのだろうが、耳は今、別の音を求めていた。


「……聞いたか、シワコアトル」


 王がゆっくりと大神官に向き直る。


「巫女は器ではない。

 お前たちが勝手にそう決めつけていただけだ」


 シワコアトルの顔から、血の気が引いていく。


「王よ。

 それは秩序の破壊です。

 神々はお怒りになり――」


「神々が怒る前に、私は怒っている」


 王の声は低かった。


「病区画で“浄化の煙”と称して、

 病人と看病人の息を奪ったと聞いたときからな」


 レオナルドは、胸の奥で何かが緩むのを感じた。


(テクスカリ……伝えてくれたか)


 交易人が王宮へ運んだ報せ。

 クァウティクの伝令。

 彼らの言葉が、今、王の口から戻っている。


「シワコアトル」


 王は、香炉の前に立つ大神官の名を呼ぶ。


「お前に問う。

 この煙は、神々のための煙か?

 それとも、お前自身の恐れと支配欲のための煙か?」


 シワコアトルは、初めて言葉に詰まった。


 黒い顔料に塗られたその顔から、

 “確信”と呼べるものがわずかに剥がれ落ちていく。


 代わりに浮かび上がったのは、

 長年積み上げてきた秩序を失うことへの純粋な恐怖だった。


「私は……

 私は、この都を守ってきた。

 神々の怒りを鎮めるために」


「その結果が、これか」


 王は香炉を指差した。


 黒く濁った煙。

 痰のように重く、肺に貼りつく臭い。

 そして、その煙に咳き込みながら縛られている巫女。


「ならば、これ以上守らなくていい」


 その言葉は、宣告だった。


 シワコアトルが杖を握りしめる。


「王……あなたは、神々に見放される」


「それでも構わぬ」


 王の目は、まっすぐに大神官を見ていた。


「神々に見放されても、

 私はこの都を、人間として見捨てない」


 その瞬間、階段の上部に影が現れた。


「御前にて、命を受けた!」


 クァウティクだ。


 ジャガー戦士の鎧は、黒煙でくすんでいる。

だが、その目は炎のように鋭い。


「戦士隊、神域を完全包囲!

 神官の私兵は武装解除させた!」


 シワコアトルの側にいた数人の神官が、反射的に後ずさる。


 彼らの中には、まだ本気で神々だけを恐れている者もいる。

 だが今、彼らがより強く恐れているのは、

 **“神々抜きで決断する王”**の姿だった。


「シワコアトル大神官」


 王は言う。


「杖を置け。

 香炉から手を離せ。

 それが、神々とこの都に対する最後の務めだ」


 長い沈黙が落ちた。


 黒煙の揺れさえ、息をひそめたように見える。


 やがて――


 シワコアトルは、杖から手を離した。


 指の先がわずかに震えている。

 そこには、怒りとも悔しさともつかない色が浮かんでいた。


「……王よ」


 彼は低く言った。


「今日、あなたは神々ではなく、

 巫女と異国の医師と商人と戦士の声を選んだ。

 その選びが、あなた自身を焼く日が来る」


「そのときは、その煙も自分で吸おう」


 王は淡々と答えた。


「それが、息を選ぶ者の責任だ」


 クァウティクが合図を送る。

 戦士たちが二人、三人と上へ上がってきて、

 シワコアトルの腕に手を添えた。


 大神官は抵抗しなかった。

 ただ、香炉を一度振り返り、

 黒煙の柱を見上げた。


(神々は、何も言わなかった)


 その沈黙を、彼は最後まで信仰と呼ぼうとした。

 だが、足を取られて膝をつきかけたとき、

 その信仰は、ただの“慣れ親しんだ空虚”に変わっていた。


 シワコアトルが連れ出されていく。


 その背中を見送りながら、

 レオナルドは無意識に大きく息を吐いた。


 黒煙と酸っぱい匂いが混ざった空気。

 胸の奥が焼けるように痛い。

 それでも――まだ息ができる。


「レオ」


 イツィルが、コアトリの縄を解きながら振り向いた。


 巫女の肌は冷え、唇はうっすら紫がかっている。

 それでも胸は上下している。

 彼女は目を瞬かせ、イツィルとレオを交互に見た。


「わ、私は……」


「まだ神に食べられてないよ」


 レオは膝をつき、軽く笑った。


「息をしてる。それだけで十分だ」


 コアトリの目から、大粒の涙がこぼれた。


「……怖かった」


「俺もだ」


 レオは素直に言った。


「でも、怖いまま選んだほうが、

 あとで後悔するとしても、自分の煙だと思える」


 王が、香炉の前に立つ。


「レオナルド・スピノーラ」


 名を呼ばれ、レオは顔を上げた。


「はい」


「この煙を、変えられるか?」


 王の問いは、短く、重かった。


(ここで“できない”と言えば楽だ。

 医学の限界だと肩をすくめて、

 港町に帰ってしまえばいい)


 そんな思いが、一瞬だけ頭をかすめる。


 だが、そのすぐあとに浮かんだのは、

 病区画で布を口に当てながら必死に息をしていた子どもたちの顔だった。


 イツィルの、あの言葉も。


(人を生かす煙を選ぶ者になりたい)


 レオは立ち上がった。


「全部は変えられません」


 正直に言う。


「疫病は消せない。

 痘瘡はもう湖の風と一緒に広がっている。

 異国の船から持ち込まれた病は、

 この都の煙だけでは止めきれない」


 王もイツィルも、黙って聞いている。


「でも――」


 レオは続けた。


「この黒い層を薄くすることはできます。

 Picietlの量を減らす。

 油を混ぜるのをやめる。

 病区画には、浄化ではなく“息を通す”ための煙を焚く。

 祈りの節を、息を合わせるために使う」


 彼は香炉の中を覗き込んだ。


 樹脂と葉と、黒い粉。

 そこに、昨日の儀礼で見たTeonanácatlやOloliúquiの残りも置かれている。


「戦の前に吸う煙と、

 病人の枕元に置く煙と、

 王が未来を見るための煙は、全部同じではいけない」


 イツィルが、小さく頷いた。


「祈りの言葉も変えます」


 彼女は言う。


「今までの祈りは、

 “神々に聞いてもらうため”の言葉でした。

 これからは――」


 イツィルは、香炉の前で膝をつく。

 Copalliの樹脂を少しだけ掬い取り、

 Picietlの束から葉を数枚抜いた。


「息を揃えるための祈りにします。

 病床の子どもの呼吸と、

 看病する母の呼吸と、

 戦士の呼吸と、

 王の呼吸と、

 異国の医師の呼吸を」


 レオナルドは、思わず笑った。


「それはもう、神の煙というより、

 ただの呼吸の練習じゃないか」


「いいではありませんか」


 イツィルの目が笑う。


「神々が笑うなら、きっとそれも好むでしょう。

 人間が自分の息を数えることを」


 王が、静かに告げる。


「巫女イツィル。

 お前に命じる」


 イツィルは顔を上げた。


「はい、王よ」


「この都の“新しい煙”を作れ。

 神官のためではなく、

 病に苦しむ者と、戦士と、交易人と、

 この都に生きる者たちのために」


 その視線が、レオへと移る。


「異国の医師よ。

 お前にも命じる」


「……何でしょう」


「この都の“新しい息”を教えろ。

 病の広がり方と、

 手の洗い方と、

 布の濡らし方と、

 死の見取り方と、

 生の繋ぎ方を」


 レオナルドは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。


 それは、祖国の港では決して求められなかった種類の役目だった。


「……高くつきますよ」


 わざと軽く言ってみせる。


「ジェノヴァの銀行家より、俺の時間は高い」


「払うものが必要なら、交易人から取ろう」


 王は、ほんのわずか口元を緩めた。


「ただし――

 誰が何を払ったかは、この都の煙が覚えているだろう」


 階段の下から、太鼓の新しいリズムが響き始める。


 ドン、ドン、ドン。

 間を置いて、ドン。


 戦いの合図ではない。

 反乱の合図でもない。


 新しい儀礼の始まりを告げる音だった。


 イツィルは、香炉に新しい火を入れた。


 Copalliの白。

 少量のPicietl。

 そこに、ごくわずかにTeonanácatlを砕いて加える。


 幻視を呼ぶほどではなく、

 ただ、心の輪郭を少し柔らかくする程度に。


 白い煙が、黒い層を押し上げていく。


 重い油の匂いが薄まり、

 酸っぱいヴィネガーの残り香と混ざり合い、

 やがて、どこか懐かしい土と木の匂いに落ち着いていく。


「レオ」


 イツィルが、布を外して小さく笑った。


「さっきあなたが投げ捨てた阿片の瓶も、

 湖のどこかで、こうして薄まっているのでしょうか」


「さあな」


 レオナルドは肩をすくめる。


「でも、あれで誰かが少しでも楽になるなら、

 もったいないことをしたかもしれない」


「楽になるのは……ロドリゴ卿や、影の商務院ではないですか?」


「それは困るな」


 レオは笑いながら、香炉の煙を見上げた。


 白い層が、黒の上に重なっていく。

 完璧には覆い隠せない。

 ところどころに灰色の筋は残る。


(それでも――)


 昨日と比べれば、空は少しだけ明るかった。


 神々がどう思うかは分からない。

 ただ、この都に生きる人々の肺に入る空気は、

 少しだけ、楽になっているはずだ。


「さあ」


 イツィルが、コアトリの肩を支えながら言った。


「病区画へ行きましょう」


「まだ行くのか」


「まだ、あの子たちの息を数えていません」


 イツィルの瞳には、もうさっきまでの震えはなかった。

 代わりにあるのは、疲れと、固い意志と、ほんの少しの誇りだった。


「夜の煙巫女は、

 煙を“見送る”だけではありません。

 これからは、“帰ってきた息”も見届けなくては」


「……付き合うよ」


 レオナルドは答えた。


「医者は患者から逃げられない」


「巫女も、煙から逃げられません」


 二人は、戦士たちと一緒に階段を降り始めた。


 黒煙の層を割って、

 新しい白い煙が、その後を追いかける。


 テノチティトランの上で、

 一つのクーデターが終わり、

 一つの儀礼が生まれようとしていた。


 それがこの都を救うのか、

 滅びを少しだけ先延ばしにするだけなのかは、

 まだ誰にも分からない。


 ただひとつ確かなのは――


 この日から、

 この湖の都の煙は、

 もう神官だけのものではなくなった、ということだった。



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