第8話「引き裂かれる心」
長老たちの画策は、陰湿な嫌がらせだけでは終わらなかった。彼らは次に、郷全体に噂を流し始めたのだ。
「あの人間が来てから、山の獣が里に下りてくるようになった」
「先日、子供が病にかかったのも、あのオメガの不浄な気のせいだ」
根も葉もない噂は、しかし、閉鎖的な郷の中では恐ろしい速さで広まっていった。元々、人間に対して良い感情を持っていなかった獣人たちは、その噂を簡単に信じ込んだ。長老たちを恐れる気持ちも手伝って、陽向を見る目は、日に日に冷たいものへと変わっていく。
かつて陽向の料理を「美味しい」と笑顔で食べていた者たちも、今では彼を避けるように道を譲り、背後でひそひそと悪口を言い合う始末だった。陽向は、まるで目に見えない壁で、郷から隔絶されてしまったようだった。
唯一、涯狼だけは変わらず陽向のそばにいた。彼は噂を流した者たちを厳しく罰し、陽向を侮辱する者には容赦なく牙を剥いた。
「陽向は俺の客だ。いや…俺の、番となる者だ。彼を傷つけることは、俺を傷つけることと同じだと知れ!」
涯狼の宣言に、獣人たちは恐れをなして黙り込む。しかし、それは力で押さえつけているに過ぎなかった。彼らの心の中にある陽向への不信感や敵意が、消えてなくなったわけではない。むしろ、涯狼が陽向を庇えば庇うほど、彼らの嫉妬や反感は、より深く根を張っていくようだった。
陽向は、そんな状況に心を痛めていた。自分のせいで、涯狼が郷の者たちと対立している。自分の存在が、この郷の和を乱している。その事実が、重く陽向の心にのしかかった。
「涯狼さん…もう、やめてください。僕のことは、放っておいていいんです」
ある夜、陽向は耐えきれずにそう言った。涯狼は、傷ついたような顔で陽向を見つめる。
「…何を言う。お前を一人になど、できるわけがないだろう」
「でも、このままでは涯狼さんの立場が…!あなたが、皆から孤立してしまう」
「構わん。俺は、ずっと一人だった。だが、今はもう一人ではない。お前がいる」
涯狼の言葉は、陽向にとって何よりも嬉しかった。けれど、同時に、彼の優しさが辛かった。
そんな中、追い打ちをかけるように、事件が起きた。長老の一人である玄武の孫が、高熱を出して倒れたのだ。医者にも原因が分からず、何日も昏睡状態が続いているという。すると、長老たちはこれを好機と捉えた。
「これは、あの人間がもたらした呪いに違いない!」
玄武は、怒りと悲しみに我を忘れ、獣人たちを引き連れて陽向の離れへと押しかけてきた。
「貴様のせいで、私の孫が!この呪われた人間め、今すぐこの郷から出ていけ!」
石が投げられ、離れの障子が破られる。獣人たちの怒声が、陽向を責め立てる。陽向は、部屋の隅で小さくなって震えることしかできなかった。
そこへ、騒ぎを聞きつけた涯狼が駆けつけた。彼は、陽向の前に立ちはだかり、怒りに満ちた獣人たちを睨みつける。その体からは、殺気にも似た凄まじい威圧感が放たれていた。
「…誰の許しを得て、俺の番に手を上げようとしている」
地を這うような低い声に、獣人たちがひるむ。しかし、孫のことで冷静さを失っている玄武だけは、引き下がらなかった。
「どけ、涯狼様!その人間こそが、我ら一族に災いをもたらす元凶なのだ!そいつを追い出さねば、この郷は滅びるぞ!」
「黙れ!陽向を害する者は、たとえ長老であろうと俺が許さん!」
当主と長老の、一触即発の睨み合い。郷の者たちは、固唾を飲んでその様子を見守っていた。陽向は、自分のために涯狼が孤立を深めていくのを、ただ見ていることしかできなかった。心が、引き裂かれるように痛かった。
このままでは、涯狼が当主の座を追われるかもしれない。最悪の場合、郷が二つに割れてしまう。自分の存在が、愛する人を、彼が守るべき郷を、壊してしまう。その恐怖が、陽向の心を支配し始めていた。
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