鬼神と恐れられる呪われた銀狼当主の元へ生贄として送られた僕、前世知識と癒やしの力で旦那様と郷を救ったら、めちゃくちゃ過保護に溺愛されています
藤宮かすみ
第1話「鬼神の花嫁」
霧雨が静かに山肌を濡らし、木々の葉を艶やかに光らせていた。都から揺られること十日、陽向を乗せた粗末な駕籠は、鬱蒼とした森の奥深くへと進んでいく。彩峰の郷。獣人たちが暮らすというその場所は、人間にとっては禁域であり、畏怖の対象だった。
『まさか僕が、人喰い鬼の生贄になるなんて』
陽向は固く握りしめた拳の中で、小さく震えた。没落した家の借金の形として、この郷に君臨する銀狼一族の当主の元へ「花嫁」として差し出される。聞こえは良いが、実質的には死にに行くのも同然だった。噂に聞く当主は、呪いによって理性を失い、血を好む残忍な鬼神なのだという。
やがて、駕籠が地面に降ろされる鈍い衝撃と共に、外が騒がしくなった。獣のものか人のものか判然としない、野太い声が飛び交っている。意を決して陽向が自ら戸を開くと、そこにいたのは屈強な獣人たちだった。熊のように大きな男、狐のようにしなやかな女。誰もが陽向を値踏みするような、好奇と侮蔑の入り混じった視線を向けていた。
「こいつが、涯狼様の新しい花嫁か。ひょろひょろですぐにも折れそうだ」
「どうせ今度も、ひと月も持つまい。喰われるのが関の山だ」
ひそひそと交わされる会話に、陽向はぐっと唇を噛む。恐怖に足がすくむが、ここで逃げ出すことなどできはしない。案内されるがままに郷で最も大きな屋敷へと足を踏み入れた。通されたのは、がらんとした広い部屋だった。中央の囲炉裏には火が熾され、ぱちぱちと静かに爆ぜている。その奥の薄暗がりに、巨大な影があった。
影がゆっくりと動く。月明かりが差し込む窓の下に姿を現したのは、噂を体現したかのような、まさに鬼神と呼ぶにふさわしい男だった。天井に届きそうなほどの大男。分厚い胸板も、丸太のように太い腕も、鍛え上げられた鋼のようだ。着流した着物からはだけた肌には、幾筋もの古い傷跡が見える。そして何より目を引くのは、頭上にある銀色の獣の耳と、腰から伸びる狼の尾だった。
彼こそが、この郷の当主、涯狼。
涯狼は、赤い瞳で陽向を射抜くように見つめていた。その視線はあまりに鋭く、陽向は全身が凍りついたように身動きがとれない。ただ、死を覚悟するだけだった。
「…名は、何という」
不意に、低い声が響いた。地を這うような、それでいて不思議と耳に馴染む声だった。
「ひ、陽向と、言います」
絞り出した声は、情けないほどに震えていた。涯狼は何も言わず、ゆっくりと立ち上がる。一歩、また一歩と近づいてくるたびに、何とも言えない圧が陽向を押し潰しそうになる。目の前で立ち止まった涯狼は、陽向の細い顎に節くれだった指をかけた。乱暴に顔を上向かせ、じろじろと眺める。
『ああ、ここで喰われるんだ』
陽向がぎゅっと目を瞑った、その時。涯狼の大きな手が、陽向の頬にそっと触れた。予想していた暴力的な感触ではなく、戸惑うように、壊れ物を扱うかのような、恐ろしく慎重な手つきだった。
「…ひどい顔色だ。腹は、減っているか」
「え…?」
問いかけの意味が理解できず、陽向はぱちぱちと瞬きをする。涯狼は陽向の返事を待たずに踵を返し、部屋の隅にある膳を運んできた。そこには、湯気の立つ粥と素朴な漬物が乗せられている。
「喰え。話はそれからだ」
ぶっきらぼうに言って、涯狼は再び囲炉裏の奥へと戻っていく。残された陽向は、目の前の膳と、主の座る薄闇を交互に見つめるばかりだった。噂とはあまりに違う対応に、戸惑いと混乱が胸の中で渦巻いていた。人喰い鬼と恐れられる狼は、ただ静かに、孤独な影を揺らしながら囲炉裏の炎を見つめている。その横顔に深い寂しさが滲んでいることに、この時の陽向はまだ気づかなかった。
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