第3話 静寂の契り

「……」


 男を無慈悲に喰らった、針山とでも形容すべきおびただしい数の牙。

しかしその凶牙が、ジークスの血肉を貪る事は決して無かった。


「何故だ? 何故俺を助けた? 何故俺を喰わない?」


「……」


 やはり返答は静寂であった。小鳥のさえずりが鬱陶うっとうしく感じる程の、不気味なまでに閑静な空気が一帯を埋める。


「答えてくれ。」


「……」


 おぞましい風体を誇るその悪魔は、無念そうに己の喉を指差した。


「まさか、『答えない』んじゃない……『答えられない』のか!?」


「……」


 誰もが畏怖の感情を抱くであろう、恐怖そのものを体現するかの様な悪魔の姿。

しかしジークスの瞳には、慈愛と哀愁混じりの儚き者が映っていた。


「すまない……無茶な頼みだったな。だが俺は、どうにかしてアンタと話したい。アンタが一体何者なのか、どうにかして知りたい……」


 天使、悪魔、人間。遥か昔、彼らは互いに手を取り合っていた。

だがある日、土地を巡る争いによって尊い平和が砕け散り、互いを忌み嫌う様になった。


 宙に放たれた林檎リンゴは地に落ちる。韋駄天ですら光には追い付けない。

今やこの世界において、かの三種族に生じた歪みはそれらと同程度の常識と化したのだ。


 それ故に人間を救う悪魔など、紛う事なき異端イレギュラーの極み。

けれども異端である事が、必ずしも過ちとは限らない。


 少なくともジークスの心は、眼前の悪魔が世の常に背いて正義を貫く、常識破りで高潔な存在だと確信していた。


「……」


 ジークスの意思に応えるべく、かの悪魔は筆談を試みた。

自らが葬った男の鮮血をインク代わりに、整った文字を布へと刻んでゆく。が、しかし。


「俺は今、人生で一番後悔してる。ロクな教育を受けた試しも無ければ、文字の読み書きすらマトモに出来ねェ。最低限の暮らしなんてモンで妥協した俺は馬鹿だった。」


 この世に生を授かってから早や十数年。幸せを享受する暇も無く、『生存』の為に生きる人生。他の若者がペンを握る中、ガラス片を武器代わりに鍛錬へと励む人生。


 ジークスは現在に至るまで、苦痛に溢れた茨の道を辿って来た。

いや、辿らざるを得なかった。そして今、彼は決起する。


「だから決めたぜ……俺は此処から這い上がるッ! 最低限を通り越して、悔いのねェ人生を歩んでみせる! だから再会を果たしたその時は、アンタの名前を教えてくれ!」


 決して一筋縄では行かない、茨をも凌駕りょうがする剣山の道。

その先に待ち構える栄光を目指して、彼は千里の道に第一の足跡を付けた。


「……」


 悪魔はジークスに右手を差し出して、静寂なる握手を交わした。

言葉こそ無けれど、今この瞬間、確かに彼らの心は燃えたぎっている。


「最後にアンタへと送らせて貰う……最大限の感謝と尊敬をッ! またいつの日かッ!」


 悪魔は満足気に手を振りながら、ジークスの元を去って行った。

漆黒に染まった悪魔の鱗は、如何なる宝石よりも美しい輝きを放っていた。

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