第1話 墓場の一日
「どっちだ? どっちのネズミを選ぶべきなんだ?」
この世には舌が拒んだ料理を
親も住居も、何もかも失った青年ジークス。彼は紛れも無く後者である。
「空腹に
左右どちらを選ぼうが、彼の胃袋は
しかし、ジークスは機敏な手つきでネズミを仕留め、今日の晩餐とした。
「これで良い。最低限だ。最低限の行動こそが、生き残る為のベストな一手。いくら腹が空いていようと、二匹とも狙うなんて賭けはしねェ。このイカれた世界じゃ、無駄な欲を出した奴から死んでいく……」
ジークスが陰鬱な日々を過ごす地は、『
お役御免となった錆鉄の武器。誰の口にも届かずに朽ち果てた食糧。
そして極め付きは……誰からも救済を授かる事無く、死神を如何なる時でも己の隣に
世界から見放されたあらゆる存在が、此処で孤独なる死を迎えるのだ。
しかし、その宿命に牙を剥く者が一人。即ちジークスその人である。
「食事、睡眠……生きる為の最低限をこなす事だ。そうすれば、いつかは好機が訪れる。それまでの辛抱だ、リスクの海には飛び込まねェ。」
ジークスはゴミ山に寝そべって、安息の対極に位置する夜を過ごした。
背中を切り裂くガラスの破片ですら、彼にとっては取るに足らない日常茶飯事であった。
「ッッ!? 何だ、この感覚は……!?」
目覚めの朝日がジークスを照らす。だが太陽の情熱的な煌めきとは裏腹に、背筋が凍る様な違和感に襲われた。生物としての本能が、ジークスに未知の脅威を訴えている。
「チッ、起きたか。」
ジークスの背後に
獣牙に負けず劣らずの鋭利さを誇る、白銀に艶めくナイフを構えている。
「何者だオマエ?」
ジークスは警戒の二文字を全身に纏い、何処の馬の骨かも分からぬ男を睨み付けた。
藍色に煌めく彼の
不意打ちの一閃が放たれるその
「正義の味方だよ。お前の臓器引っこ抜いて、闇市で売り捌くだろ? そしたら病人の命が晴れて救われる。そういう誇らしい仕事をしてるのさ。」
眼前の青年は
彼の飄々とした余裕さは、そういった傲慢由来なのだろう。
だが彼が葬らんと企むその青年は、生の為ならば猛獣すら噛み殺す窮鼠である。
「そうか成程、金の亡者ってヤツか。」
皮肉を飛ばすジークスの瞳。ソレは警戒、つまり防御の
男を如何にして打破するか? 今はそれだけを模索している。即ち攻撃体制への移行。
「馬鹿な奴らはそうやって、すぐに罵声を浴びせるよな。全く、困っちまう……」
男の脳内を埋め尽くす物。油断、慢心、加えて軽蔑。ルビを振るなら『隙』である。
ジークスはそれらに感謝の一礼を送った。そして今、死闘の火蓋が切られる。
「グアッ!!」
男が苦笑を浮かべた刹那。彼が心の底から侮っていたその青年は、瞬き一回すら許さぬ速度でガラス片を拾い上げ、男の首に振り
「先手必勝だぜ。下衆野郎には容赦しねェぞ俺は!」
無論、ガラスに柄など付いてはいない。彼自身の手をも紅に染める、諸刃の剣である。
「ク、クソがッ! 青二歳の癖してェ! 大人様に楯突くんじゃねェよ!」
轟々たる獣の咆哮が、血生臭い空気を乱雑に掻き混ぜる。
「馬鹿はすぐ罵倒するんじゃなかったか?」
高を括りに括っていた窮鼠に歯形を刻まれ、動揺の色を浮かべる男。
彼の隙を更に引き出すべく、ジークスは嘲笑の眼差しを突き刺す。
「んなモン言った覚えねェよマヌケがッ! 都合良い脳ミソしやがってよォ!」
鋼鉄の小刀は荒々しい憤怒を帯びて、一心不乱に踊り狂う凶刃と化した。
怒りに身を任せた男のナイフ捌きは型破り、いや荒唐無稽な物であった。
「腹がガラ空きだぜ。喰らいやがれッ!」
「アガッ!! 舐めやがってガキ……」
型を破る。一概に最善手とは断言し難い、吉にも凶にも転びうる行為。
戦の師を持たぬジークスは、戦闘における定石の型を修めてはいない。
故に型から外れた
敵の晒した隙に喰らい付き、渾身の一撃を浴びせる。決して闇雲な手を打たない。
慎重かつ大胆なそれらの方針が、ジークスの命を今日に至るまで繋いできた。
けれども、争いに身を投じた者は傷を負う
「くたばれェェッ!」
男は苦痛を
彼の動きは依然として隙ばかり。が、しかし。
「なッ!?」
真に警戒すべきは、左の手であった。
左のポケットから引き抜かれた、艶やかに煌めく白銀の小刀。穢れ一つ無いその刃が、たった今血の味を覚えたのだ。
「油断したな? 油断したよなァ?」
「クソッ……」
チャンスは一度、決まれば致命。
あの男は。単なる力任せではなく、奇襲の瞬間を今か今かと
自らの顔に泥を塗ったジークスに、一泡吹かせてやろうと念入りに策を練っていた。
「さてと、終わりにするか。さよならだお馬鹿さん。」
男はカツカツと
歯を剥き出して敗者の有様を嘲笑いながら、これ見よがしに刃先を輝かせる。
けれども、勝利のファンファーレはまだ鳴っていない。
「なぁ。俺は賭けが大ッ嫌いだぜ。わざわざ対価を払って負けるなんざゴメンだからな……だがッ! 賭ける以外に道は無いのなら! 俺は俺の全てを賭けるッ!」
ジークスは、決して自分からはリスクを犯さない人間だ。
僅かな
しかし、いざという時には己を信じ抜き、全身全霊を注ぐ人間だ。
「来いよ。帰り討ちにしてやる。」
「その言葉、テメェにそのまま返してやるぜ。早く掛かってきな。」
「チッ、大口叩いてんじゃねェよ!」
怒りを焚き付けられた男は、ナイフの一刺しをジークスに放った。
「クッ!」
「な、何ィ!?」
確かに、確かに刺さった。ジークスの血飛沫が、ゴミ塗れの地面を真紅に染め上げる。
だがジークスは、自ら刺さりに行ったのだ。生を司る心臓を守る為に。
そして……男のナイフを奪う為に。
「貰ったァ!」
ジークスは男の手を振り
「喰らいなッ!」
「アガァァッ! このクソがァ! ゴミ箱にブチ込まれた腐れ食いカスがァァ!」
「手間掛けさせやがって……」
既に勝負は終結した。だがジークスは、依然としてナイフを構えたまま。
「まさかお前、人を殺すのか? そんなマネが許されると思ってるのか?」
今となっては、この男が袋の
全身を小刻みに震わせ、心の底から怯えの表情を見せている。
「正義の味方だったら、きっと首を横に振るだろうな。だが、俺はソイツらと違って聖人君子じゃない。悪に慈悲は要らねェ……俺の心は今! 殺しを『許可』しているッ!」
「アギァァッッ! ア、ア……」
苦痛に溢れた
生温かい屍が、ジークスの眼前に横たわっていた。
「ハァ、ハァ……」
体力の大半を消耗した所為で、ジークスは苦しげに息を荒らげている。
黒ずんだ壁に
「君、大丈夫?」
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