5月31日 エルネスト家1

 ――十日後


 今日は朝から落ち着かない。

 リュシエンヌに婚約破棄を申し込まれたあの日、あれから十日が過ぎた。

 この十日間、あの紙に書かれていたことすべてが……そう、全てが起こってしまった。


 20日、朝からオリバー先生の頬が腫れていた。翌日歯医者に行くため、授業を変更すると連絡があったときは、ダンスの先生に驚かれるほどミスをした。

 鳩もそうだ。特に暑くもない日だったのに、突然ミゲルが窓を開けたのだ。

 それと同時に鳩が教室に入り込み、マリアは今までに見たことないほど取り乱し、なぜか司書まで泣いてしまった……。

 セレーネの絵が教会に飾られるという話は、パーヴァリ家とつながりがある母親から聞かされた。


 本当にリュシの言うとおりに事件が起こっていく。

 あの日渡された一枚の便箋。

 まるで、予言の書を持っている気分だった。


 チョコレート店へ向かう二人には、言われたとおり声を掛けなかった。これは我慢したというより、何を話していいかわからなくなりそうだから自然とそうなった。

 そして昨日、父からの呼び出しがあった。


『明日から「アレシア・カトラン」という賓客がこの国に滞在する。カトラン子爵の親戚ということになっているが、実際にはドゥロール国のアレシア・ロランジュ王女だ。わが国王妃の縁者であり、姓が同じなために偽名を使っている。もちろん彼女が王女ということは極秘だ。何かあれば手助けをしてほしいと頼まれた。6月に王立図書館を訪れるので、お前が案内を務めるように』


 一瞬、目の前が真っ暗になるほど驚いた。王女だって!? とんでもない話だ。

 リュシエンヌはここまで教えてくれなかった……いや、内密と言われていたから、俺は敢えて話さなかったのか? 自分のことなのにわからない。


 ルドウィクは部屋の時計を確認する。

 リュシエンヌとの約束の時間が近づいていた。

 廊下へ出ると、お茶の準備を終えた侍女たちが、客間からワゴンを運んでいるところだった。

 バターの甘い香りがここまで漂っている。


 今日はリュシエンヌの好きなパイだ、この香りは間違いない。きっと喜ぶはずだ。だが、胸が苦しくてたまらない……。

 この十日間の答え合わせは完璧だった。

 彼女は人生をやり直している――しかも、すべて俺のせいで。


「坊ちゃま、どうなさいましたか」


 目の前から突然声が聞こえ、ルドウィクはハッとした。

 心配そうに顔を覗き込むヨハンがそこにいた。


「すまないヨハン。あまりに良い香りで、つい考え事をしていたよ」

「そうでしょう! 今日はわたくしが腕によりをかけて林檎のコンポートを仕込みましたから。坊ちゃまも小さい頃からお好きな、あれを作りましたよ」

「あの林檎パイか! 最高だ、きっとリュシエンヌも喜ぶよ」

「ありがとうございます」


 ヨハンは目の周りに優しそうな皺を寄せて微笑み、頭を下げて廊下を進んでいく。

 玄関ホールへ向かう姿勢の良い背中を見つめていると、見計らったように来訪を告げる鐘が鳴った。

 ヨハンが扉を開く前に、ルドウィクは柱の陰へ移動する。


 あれから何度かリュシエンヌと顔を合わせているが、便箋に書かれたことが現実になるにつれ会話が少なくなってしまった。

 幼馴染のセレーネからも、喧嘩でもしたのかと心配されたほどだ。


 玄関ホールから、ヨハンとリュシエンヌの楽しそうな声が聞こえてきた。そっと覗くと、御者が一礼をして屋敷から出ていくところだった。

 付添いの侍女がいない、彼女は本当に一人で来ていた。

 リュシエンヌは、本当に婚約破棄を望んでいるのだろうか……。


 確かに彼女の言うことはすべて起こってしまった、彼女からするとということだろう。

 だが、絶対に俺は繰り返さない。

 なぜ他の人を好きになったのか、なぜリュシエンヌを非難したのか……それは、まったくわからない。

 それでも、神に誓って言える。

 俺は彼女のことを愛している!

 この気持ちをはっきりと告げ、婚約破棄したいなんて考えを直してもらうつもりだ。

 

 ルドウィクは思い切って、玄関ホールへ足を踏み出した。


「あれ?」


 すでにホールには誰もおらず、廊下の向こうから、客間の扉が閉まる音が聞こえてきた。

 いそいで客間へ向かうと、ちょうど出てきたばかりのヨハンと目が合った。


「坊ちゃま、良いところに。リュシエンヌ様がお見えです」

「ありがとうヨハン。えーっと、話が長くなるかもしれないから、こちらが呼ぶまでは執務室で休んでいてくれ」

「かしこまりました」

 

 大きく頷きながら、ヨハンは出てきたばかりの客間の扉をノックした。


「はい」


 少し緊張したようなリュシエンヌの声が聞こえる。

 ヨハンは扉を開き、意味ありげに口の端をあげて微笑んだ。

 ルドウィクが客間へ入ると同時に、「ごゆっくりなさってくださいませ」と、ささやくように言いながら扉を閉めた。

 

 あっヨハン、違う、あれは絶対に勘違いをしている。

 そんなに甘い状況ではないってのに……。


 小さくため息をついて振り返ると、深々とカーテシーをするリュシエンヌの姿がそこにあった。


「ルド、ごきげんよう」

「ありがとう……えー、今日は顔色がいいみたいだね……うん」


 俺は何を言ってるんだ、こんなの馬鹿みたいじゃないか。

 そう思った瞬間、目の前のリュシエンヌが吹き出した。


「もうルドったら。たまに顔を合わせてもそんな感じなんだもん。セレーネが凄く心配してたわ。今日会うって話したら『別れ話じゃないよね!?』って泣きそうな顔してたのよ」

「だって、話しづらくなってしまって」

「そうよね。全部、起こってしまった……でしょ?」

「ああ、君があの便箋に書いたとおりになった……」

「うん、じゃあこれ」


 まるで待ち構えていたかのように、リュシエンヌは十日前と同じ、折りたたまれた便箋を差し出した。

 そのまま彼女の目線は、テーブルの上へと移動する。

 そこには、ヨハンが用意してくれた林檎のパイや、温かいお茶が既にサーブされていた。


 慌ててリュシエンヌに席に着くよう促すと、彼女は嬉しそうに椅子に座った。

 ルドウィクも正面の席に座り、便箋を開く前に紅茶で喉を潤す。

 リュシエンヌの手は、早くもナイフとフォークを持っていた。


 さて、今度は何が書いてあるんだろう……。

 どうか、おかしなことではありませんように。

 

 ルドウィクは祈りながら、急いで便箋を開いた。


  ――――――――――――――――――――――――――――――


   アレシア・カトラン

   ドゥロール国の王女、本当の名前はアレシア・ロランジュ

   お忍びでこの国に滞在

   夕日のようなオレンジの赤毛に緑色の瞳の持ち主

   ルドウィク・エルネストと恋に落ちる


  ――――――――――――――――――――――――――――――


「なっ‼」


 そこには、アレシアの名前フルネームはもちろんこと、父から誰にも口外するなと言われた素性まで書いてあった。容姿は知らないが、きっとリュシエンヌの書いているとおりなのだろう。


「あってるよね?」

「うん間違いない……でも最後の一行は違う!」

「違わないわ……だって私……」


 リュシエンヌは、林檎のパイに入れようとしたナイフをそっと置き、ナプキンで口の端をぬぐった。

 声が微かに震えている。


「だって、私は全部知ってるもの!」

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