第8話 薬、欲求、そして快楽、その末路は、どの時代、どの世界でも起こることは同じなのでしたとさ
気づいたときには、もうパーティ会場の外へ出ていた。
煌びやかなシャンデリアの光も、笑い声も、音楽も、全部、頭の中から霧がかかったように遠ざかっていく。
「……どうして、私は……」
自分の足で歩いているのに、どこへ向かっているのか分からなかった。
誰かの静止の声が聞こえた。でも、止まれなかった。
ただ、確かに覚えているのは、第四皇子レオンハルトが、私の視界に入ったあの瞬間。
──あぁ、あの男を、殺したい。
呼吸が止まる。
「え」
私は今、何を考えていた?何を望んでいた?
あの皇子が嫌いだとか、そんなこと、考えたこともなかった。
景品扱いされたときも、国の為ならば仕方ないと、内心どこかで諦めていた。
でも、違ったのだ。私が、戦ってでもあの男を受け入れたくなかったのは…
ただ、嫉妬していたのだ。自分よりも美しく、強く、権力があり、才能があり、優れているあの男が。
憎い、羨ましい、妬ましい、殺してしまいたい。
自分の黒い感情が、自分の耳にこびりつくように囁いて消えない。
(勝てなければ拒絶できない…?勝たなければ自由になれない…?)
そんなのは、ただの言い訳だった。
目の前に現れた現実は、想像よりももっと単純で、もっと重くて、もっと圧倒的で、もっと残酷だった。
高貴な理由など、高潔な理由などない。
ただ、自分という至宝を、他人に奪われるのが嫌だったのだ。
「怖い……怖い……」
子供みたいに震える声が、夜風の中へ溶けていく。
私は走っていた。
気づけば靴音が石畳を打ち、ドレスの裾が乱れ、入り組んだ城下町の路地を駆け抜けていた。
すれ違う人の顔はもう見えない。
街灯の明かりも、夜空の星も、意識の片隅へ追いやられる。
ただ逃げた。
後ろを振り返ることもできず、胸が痛いほど鼓動が跳ね上がり、足はもつれそうなのに止まらない。
(どこへ……行けば……)
行く宛なんて、あるはずがなかった。
なのに。
気づけば私は、帝国の城下町を抜け、街道を進み、いつの間にか愚者の森の入口に差し掛かっていた。
(どうして……ここに……)
森の木々がざわめき、夜風が頬を撫でた。
心の奥底で、微かに声が響く。
――帰りたい。
帰る場所なんて、帝国にはないのに。
私の家は王国にあるのに。こんな森に、私の居場所なんてないのに。
なのに、足が向かう方向はただ一つ。
気づけば頭がぼんやりしてきて、足元がふらつく。
いや、それ以上に、自分の感情が、願いが、欲求が、全てが悍ましくて、恐ろしくて…
それでも、足だけが動いた。
「……ぁ……っ」
木々を抜けた先に、見覚えのある小さな灯りが見えた。
ふらりと、一歩。
また一歩。
月明かりの下、森の外れに佇む小さな建物。
あるはずのない、あっていいはずのない宿。
そんな幻のような宿の玄関の前に座り込み、震える指先で扉を引っ掻くように叩いた。
「……だれか……っ、お願い……」
声にならない声。
誰か?中にいるのが誰かなどわかっているはずなのに。
肩が震え、涙が頬を伝い落ちる。
扉の向こうから、足音がした。
私は、堪え切れず小さく嗚咽を漏らす。
「アルト……さん……」
その名前だけが、今の私を繋ぎ止める唯一の糸だった。
扉がわずかに開き、暖かな灯りが夜気の冷たさを押し返す。
「……エリシアさん?」
アルトが目を瞬かせる。
驚きよりも、困惑よりも、先に浮かんだのは心配という形をした表情だった。
その一瞬が、胸に刺さった。
「……っ」
込み上げる息を堪えきれず、私はその場で崩れ落ちるように項垂れた。
視界が歪む。震える手は汗ばみ、冷たく、縋るように伸びる。
「……お願い…します…中に……」
「分かった。入って」
アルトは迷わず腕を伸ばし、私の肩を支えて中へ招き入れた。
暖炉の火がぱちぱちと小さく鳴り、室内は外とは比べ物にならないほど暖かい。
椅子に座らせてもらうと、ようやく呼吸が戻り始めた。
「……何が、ありました?」
その声は優しい。
だからこそ、胸が痛むほど苦しかった。
「……わ、私……私、怖くて……」
喉が強張る。涙が勝手に零れる。
「逃げてきたんです……どうしても……耐えられなくて……っ」
アルトは黙って私の言葉を待ってくれる。その沈黙が心地よくて、私は自分でも驚くほど素直に言葉をこぼした。
「……第四皇子が……私の視界に入った瞬間……」
息が震える。思い出すだけで、胸が小さく跳ねた。
アルトさんは、私の事情など知るはずもないのに。
こんなところから話したところで、理解できないだろう。それでも、止まらなかった。
「私は……嫉妬で、死すら望んで……」
震える声で吐き出す。
ずっと見ないふりをしていた黒い感情。
「美しくて、強くて、才能があって、認められていて……だから……嫌で……あの男に……奪われるのが……」
支離滅裂な単語をつなぎ合わせただけの私の言葉も、アルトはゆっくりと視線を落とし、聞いていた。
その目に否定も軽蔑もなくて、逆に胸が痛い。
「……最低……ですよね……?」
あぁ、やっぱり、最低だ。この言葉も、最低だと言う同意ではなく、そんなことないという優しい否定を望んでいるのだから。
「最低なんかじゃない」
アルトさんは、私が望むように、静かに首を振った。
「人間なら誰だって持ってるさ。嫉妬なんて、誰でもあるもんだよ」
そうだ。そんなことわかっている。それでも、聞き返す。
「そう、ですか…?」
「あぁ、君は弱くない。最低なんかじゃない。醜くない」
アルトさんの声を、言葉を聞いていると、間違っていない気すらしてくる。
「……それに、君は、本当はよく分かっているんだろ?」
「え……?」
「怖かったのは皇子じゃない。自分の本心だ」
アルトの声が少しだけ低くなった。
「本心がわからないんだろう。自分が本当は、ただの醜い欲望で生きていると思えてならないんだろう。でも、それは違う」
暖炉の音がやけに遠く聞こえる。
「誰かに奪われたくない。勝ちたい。自由になりたい――それが、君の本当の望みだ」
自分で否定したそれを、まるで彼はそれが本当に私の望みであると言うように告げる。
そう言われれば、そうかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに違いない。
「……エリシアさん」
「……な、ん……?」
アルトさんは私の手を静かに包んだ。
温かいのに、どこか冷たく感じる指先。
「君が望むなら――俺は“力”を与える」
夜の空気が凍りついた気がした。
アルトは続ける。
「話を聞く限り、皇子に勝てないと心のどこかで悟ったのだろう。でも……もし勝てる力があると言ったら?」
息が止まる。
「勝って、縛るもの全部を叩き壊したいと思わないか?」
思わないわけが、なかった。
胸の奥の黒い欲望が、静かに形を成していく。
「もちろん、何の代償もなしじゃない。これから先、俺のために動いてくれるなら」
囁きは悪魔そのものだった。
「君に“本当の力”をあげるよ、エリシア」
そう名前を呼ばれた心臓が、ゆっくりと早鐘を打ち始める。
敬称もなく、そう名前を呼ばれたのは、家族を除いて二人目だった。
一人は、レオンハルト第四皇子。でも、彼に呼ばれるよりずっと…胸が高鳴った。
いや、それよりもだ。力?そんな都合よく強くなれる力があるはずがない。怪しい。おかしい。未だ残る理性が、やめろと私の手を握る。
「選ぶのは君だ。皇子に怯えて逃げ続けるか…俺と組んで、世界をねじ伏せるか」
そんな理性を握り潰すように、彼の手は私の手を強く握る。
「どうする?俺の……エリシア」
その声が耳に甘く絡みつく。
拒めないように、逃げられないように。
私は――息を飲んだ。
そして。
震える唇で、そっと答えた。
「……力が……ほしいです……」
私の手は、彼ではなく、理性を、振り払う。
その瞬間。
「契約成立だね。それじゃあ、俺の望みを聞いてくれる?俺の望みはただ一つ…─────────────。わかった?」
「…はい。それを、アルト様が望むのならば」
エリシアは気づかなかった。アルトの微笑みが、静かに深く――どこか妖しく、形を変えたことに。
──────────────────
付け入る隙を見せるやつが悪い。By主人公
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