最終話 灯のあとで

 春の風が、町を包んでいた。

 港に並ぶ船の帆がゆっくり揺れている。

 遠くの山の桜は、まだ淡い花を残していた。


 〈灯〉の前の通りには、小さな鉢植えが並んでいる。

 ラベンダー、ローズマリー、ミント――。

 その香りが風に乗って、通りすがる人の袖をくすぐる。


 カフェの扉を開けると、カラン、と軽い鈴の音がした。

 昼の店内は明るく、テーブルに光がやわらかく落ちている。

 紗月はエプロンを結びながら、カウンターに立った。


 「おはようございます」

 陸が、いつもの笑顔で声をかけてくる。

 その手には、焼き立てのマフィンのトレイ。

 ほんのり甘い香りが店いっぱいに広がった。


 「今日のは、オレンジピール入り?」

 「はい。紗月さんが仕入れてきたやつ、使ってみました」

 「ふふ、香りが春らしいわ」


 湊がいなくなって一年。

 町の人たちは少しずつ〈灯〉に戻ってきた。

 港で働く漁師、学校帰りの子どもたち、

 時々、観光客も立ち寄るようになった。


 “帰る場所”という言葉が、ようやく形を持ち始めていた。


 紗月は、窓の外の海を見た。

 穏やかな水面に、昼の月がかすかに浮かんでいる。

 「夜じゃなくても、見えるのね」とつぶやくと、

 陸が「え?」と笑って首をかしげた。


 「月ですよ」

 「本当だ。昼の月って、少し寂しくて、でもきれいですね」

 「ええ。まるで、灯が消えたあとみたいに」


 陸は少しだけ考えて、それから頷いた。

 「灯が消えたあとにも、ちゃんと温もりが残る。

  きっと、そういう意味なんですね」


 紗月は小さく笑った。

 「あなた、ほんとうに湊に似てきたわ」

 「えっ、それは光栄なんですか?」

 「もちろん」


 ふたりの笑い声が、店の中にやわらかく広がった。

 カウンターの上には、春の花を活けた小瓶がある。

 薄いピンクの花びらが、日差しに透けて揺れていた。


 「そういえば、湊さんのノート、まだここにありますよ」

 陸が棚の奥から古びた手帳を取り出した。

 表紙はすっかり手になじんで、角が丸くなっている。


 紗月は受け取り、そっと開いた。

 そこには、最後のページに一行だけ、新しい文字が書かれていた。


 ――「月がきれいな夜は、きっと誰かが笑っている」


 それは、いつの間にか陸が書き足した言葉だった。

 紗月は黙って微笑んだ。

 何も言わなくても、意味はちゃんと伝わる。

 その優しさが、まるで春の陽だまりのようだった。


 「ねえ、陸くん」

 「はい」

 「今夜、月が見えるかしら」

 「たぶん、きれいに見えますよ。満月です」

 「じゃあ、今夜は早めに灯を消しましょう」

 「……はい」


 紗月は、窓の外の光を見つめながら、ゆっくりと呼吸した。

 遠くで船の汽笛が鳴る。

 風が花の香りを運び、カップの中のコーヒーがやわらかく揺れた。


 あの日から、たくさんの夜を越えてきた。

 それでも、この場所で笑っていられる。

 ――それだけで、きっと十分なのだ。


 月がきれいな夜には、灯を消す。

 それはもう、湊だけの言葉ではなくなった。

 今では〈灯〉の約束になっている。


 誰かが笑うたびに、

 その笑顔が月明かりのように、静かに店を照らす。


 ――灯のあとで、

 新しい光は、たしかにここにあった。

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月がきれいな夜でした aiko3 @aiko3

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