第6話

 彩加が初めて利人の店のドアを開けた朝、それは彩加が独り暮らしをはじめて間もない頃のことだった。


 喫茶店の裏手にあるアパートに引っ越して、最初のうちは一人暮らしのテンポがつかめず、時間はみるみる過ぎていった。けれど慣れてしまえばひとりのこと、然程さほどかかるはずのない朝の時間をつぶしきれず、早くに家を出てしまった。


 少しだけ散歩してみようと軽い気持ちでいたものの、遠回りをするにも限界を感じて、あまりに早い時間に学校に行くのも嫌で、もう一度アパートに戻ろうかと思いかけた時、灯りのともったこの店を見つけたのだと言う。


「朝、早く起きる習慣が抜けなくって」


 遠くから通っていた頃と同じ時間に目が覚めてしまうと言って薄く笑う。利人が黙って聞いていると、またポツリポツリと続ける。


 彩加が物心ついた頃、既に父はいなかった。父がどうしていないのか、彩加は知らない。


「いつも、おかあさんと、ふたりきりだった」


 それを知りたいと思ったことは、確かにあったはずなのに……、


「でも、おかあさんが結婚して、私の名前も変わったの」


 今はもう、言葉にすることも出来ない。


 小さなアパートから綺麗な一軒家に引っ越したのは、彩加が小学六年の時。


 木の香りが漂う真新しい家には、優しそうなお父さんと可愛らしい妹。今までテレビの画面でしか見ることのなかった日常の何気ない挨拶や、家族の食卓。それはきっと幸せな場面のはずだった。


 けれど、彩加はどうしてもその暖かな場所に馴染なじめずにいた。


「私、男の人が苦手みたい」


 ポツンと言って、諦めたように笑う。


 彩加にとって、「おとうさん」という存在は、とても遠い人だった。もちろんその言葉に、憧れはあった。でも、突然見も知らない人を「父」だと言われても、どう接していいのかわからなかった。


 先生とも、見知らぬ他人とも違う「父」という存在に、思考はつまづくばかりで、ギクシャクとした雰囲気はそのまま、苦手意識へと繋がっていった。


「それを言われた僕は、なんか頷けない」


 彩加の少しだけかげった表情が、話し始めたことを悔やんでいるようにも見えて、利人はわざとしゅんと肩を落して見せる。彩加の声音が、少しずつ弱くなって、今にも話を途切れさせてしまいそうで、そうはさせたくなくて悪戯いたずらっぽく問いかける。


「だって、それってさ、僕のことも苦手ってことでしょ?」


 ハッとしたように顔を上げる彩加に、安堵あんどを誘うように笑いかける。


「こうして話してるの、無理してる?」

「無理なんかしてない」

「僕も一端いっぱしの男のつもりだけど?」


 困ったような瞳をして、小首を傾げる。


「マスターのことは、苦手って思ったことないよ。なんでだろ? しゃべり方……かな?」


「僕が女顔おんながお、だからじゃない?」


 きょとんと瞬く彩加に、情けなさそうな顔で続ける。


「昔っからよく言われたからね。大学の文化祭の時には女装までさせられたんだよ」


 彩加の口がパクンと開いて、驚いているのがわかる。


「もちろん最初は嫌々だったよ。でもね、これがやってみるとちょっと面白くってさ、調子にのってたら、知らない男に告白されちゃったんだよ。あれはさすがにまいったね」


 おどけた調子で話す利人に、硬かった彩加の頬が、ゆるやかに綻んでいく。

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