狂乱の夢:元知と大猫の警告

十兵衛

元知と大猫の警告


狂乱の夢:元知と大猫の警告



寛文七年(1667年)五月二十二日 夜半


水野元知は、城内の自室で寝汗をかき、激しくうなされていた。

数日前から、元知の頭の中には**「世が朽ちる」という声が響き続けていた。彼は藩主としての責務、幕府への忠誠、そして自らの血筋に伝わるという得体の知れない不安に押し潰されかけていた。特に、父・元綱の代から続く安中城下の隠された秘密**を知って以来、その不安は狂気に変わりつつあった。

その夜、嵐が安中城を叩き、窓は激しく鳴動していた。

元知は、夢の底へと落ちていった。


霧の夢路と黄金の瞳


気がつくと、元知は深い霧の中に立っていた。周囲は、雷鳴や雨の音を吸い込んだような異常な静寂に包まれている。

そして、霧の奥から、地を這うような足音が近づいてきた。

元知は、その足音と同時に、自分が極めて高い場所、まるで天空の岩場に立っているかのような感覚に襲われた。下を見下ろすと、厚い霧が海のように広がり、その中に安中城の小さすぎる影が見え隠れしていた。

「お前は、何を探している?」

その声は、低く、しかし驚くほど澄んでいた。

霧を割って現れたのは、家屋ほどの大きさを持つ巨大な猫だった。毛並みは濡れて黒光りし、その黄金色の瞳は、元知の魂の奥底まで射抜いていた。

元知は、恐怖を通り越し、凄まじい威厳を感じた。彼は、この巨大な猫こそが、安中を、ひいては己の**血筋を呪う「何か」**の化身であると直感した。

「貴様は…我に何を問う!」元知は、武士の意地で、震える声に力を込めた。


大猫の宣告


巨大な猫は、ゆっくりと前足を上げ、その爪先を、霧の中に浮かぶ安中城の影へと向けた。

「お前は、偽りの土台の上に立っている。その城、その石垣、その権威、すべては朽ちる。」

猫の声は、元知の頭の中で直接響いた。

「お前が探しているのは、崩壊の兆しか。それとも、逃れる道か」

元知の喉が詰まった。彼は知っていた。安中城の石垣の下に、幕府の転覆に関わる先祖の秘密が埋まっていることを。彼はそれを掘り起こし、真実を明らかにする勇気を探していた。

「私は…私は、真実を探している! 一族の、この世の真実を!」

猫は、その巨大な顔を元知に近づけた。その息は、嵐の夜の冷たい空気そのものだった。

「真実は、お前自身だ。 お前の内にある狂気こそが、この世の真実。お前は、すべてを壊すために選ばれた」

猫は、安中城の影を指し示すのを止め、その前足で、元知の胸を軽く突いた。

「さあ、壊せ。 天を突き、地を揺らす大音響で、偽りの世を終わらせよ。さもなくば、お前の家名も、魂も、跡形もなく霧散する」


乱心の朝


元知の体が、激しい痛みと共に跳ね上がった。

彼は、現実の自室で目を覚ました。外は、嵐がまだ収まらない。

心臓は早鐘を打ち、全身が冷たい汗に濡れていた。しかし、彼の瞳は、もはや迷っていなかった。

「壊せ…すべてを壊せ…」

巨大な猫の黄金の瞳と、**「偽りの世を終わらせよ」**という声が、彼の理性を完全に焼き尽くした。

水野元知は、刀に手をかけた。

寛文七年(1667年)五月二十三日 ―― 彼の「乱心」の一日が、ここから始まった。

それは、巨大な猫という神の化身に**「狂気」**という役目を与えられた、藩主の悲劇的な運命の幕開けであった。そして、彼の家名と安中藩は、彼の暴挙により、跡形もなく霧散することとなるのです。

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