第24話 『偽善者』

【カイ・視点】

 ここが、同じ日本だというのか?

 タクシーを降り、その地面に靴底が触れた瞬間、俺の脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。

 鼻をつくのは、表現しがたい異臭だ。下水の泥、安っぽい食用油が焦げた煙、そして無数の生物が密集して発酵したような体臭――それらが混ざり合った、いわゆる「貧困」の臭い。

 店長から送られてきた位置情報は、この複雑に入り組んだ建築群の深部を指していた。繁栄する都市から忘れ去られた盲腸、通称「老朽住宅密集地」。

 俺は思わずため息をついた。数日前から音信不通になっているあのバカ猫(ミャ)のことが心配でなければ、こんな場所には一生足を踏み入れなかっただろう。

 頭上を覆う電線と、腫瘍のようにビルに寄生した違法建築のトタン屋根。

 そんな混沌とした景観とは対照的に、この街には奇妙な「秩序」があった。

 数ブロックごとにフル装備の警官が巡回し、路地裏には装甲車すら停まっている。それは治安維持というより、まるで害虫駆除のための「封鎖」のようだった。

「おい! 身分証を出せと言ってるんだ、聞こえないのか!」

 威圧的で、氷のように冷たい怒声が思考を断ち切った。

 すぐ先の検問所だ。身長二メートルを超える巨躯のミノタウロス(牛頭族)の警官が、四角い顔を歪め、痩せこけたラビットマン(兎人族)の少年を見下ろしている。

 それはチンピラの恐喝ではない。もっと息苦しい、システム化された暴力だった。

「け、警官さん……本当にただの配達で……身分証は忘れちゃって……」

「『特別治安維持法』に基づき、身分証を持たない徘徊者はすべて潜在的脅威とみなす」

 ミノタウロスは無表情に告げると、丸太のような腕を伸ばし、雛鳥でも扱うように少年の首を掴んで壁に叩きつけた。

「法執行官として、我々にはリスクを排除する義務がある」

 周囲を行き交う亜人たちは、誰一人として足を止めない。ただ俯き、視線を逸らし、それが日常の風景の一部であるかのように通り過ぎていく。

 俺は生唾を飲み込んだ。関わりたくはない。だが、この迷路のような道で目的地に辿り着くには、誰かに聞くしかなかった。

 意を決して、俺は彼に近づいた。

「あの……お仕事中、すみません」

 声をかけると、ミノタウロスは猛然と振り返った。充血した牛の瞳には、さきほどの暴虐な色がまだ残っていた。

「公務執行中だ、一般人は下が——」

 しかし。

 彼の視線が俺の顔を捉え――俺が「純血の人間」であるという身体的特徴と、この場に不釣り合いな上等な服を見て取った、その瞬間。

 凶神のような表情が嘘のように消え去り、そこには「実直」そのものの顔が張り付いた。

 彼は即座に少年の首から手を離し(少年は無様に地面に落ちて逃げ去った)、背筋をピンと伸ばして、俺に手本のような敬礼を送ってきたのだ。

「これはこれは、市民の方でしたか。こんにちは」

 その声は低く、頼もしさすら感じさせる磁気を帯びていた。さきほどの暴君と同一人物だとは信じられないほどだ。

「現在、この地区では治安浄化活動を行っております。少々騒がしくて申し訳ありません。お客様の安全のため、あまり警戒区域には立ち入らないようお勧めします」

 なんと完璧で、模範的な警官だろうか。

 その瞬間、俺の中に湧き上がったのは、浅ましい優越感と――それ以上に苦い、背筋が凍るような寒気だった。

 この世界において、暴力は「彼ら」のためにあり、微笑みと秩序は俺たち「人間」のためにだけ用意されているのだ。

「道を尋ねたいんですが……この辺りで、ワーキャット(猫人族)が多く住んでいるエリアはありますか?」

 俺は胸の悪寒を押し殺して尋ねた。

「ワーキャットですか?」ミノタウロスはポーカーフェイスを崩さずに首を振った。「残念ながら存じ上げません。ここは雑多な種族が混住しておりまして、種族ごとの区分けなどないのです。我々の任務は違法滞在者や禁制品の摘発であり、国勢調査ではありませんので」

 彼は一呼吸置き、事務的な口調で付け加えた。

「最近は上層部の意向で、より『幸福で清潔な都市』を目指しております。我々も命令に従い、街の『シミ』を掃除しているに過ぎません。もしペットや使用人をお探しなら、正規の斡旋所に行かれるのが賢明かと」

 まただ。“掃除”。“清潔”。

 その単語に心臓が嫌な音を立てる。

 莉亚(リア)……あの子を連れてこなくて正解だった。もし彼女がこんな「正義」を振りかざす警官に捕まりでもしたら、どんな目に遭うか想像もつかない。

 ミャはどうだ? あのバカ猫は騒がしいが、真っ当なコンビニ店員だ。「シミ」扱いされることはないはずだ。……たぶん。

 警官に礼を言い、俺は再びコンクリートの森を彷徨った。

 うるさい。汚い。

 GPSの示す範囲には来たが、積み木を乱暴に重ねたような違法建築の山には、まともな番地すら存在しない。

「……クソッ、どっちに行けばいいんだ」

 歩き回るうちに昼は過ぎ、空腹が限界を訴え始めた。

 俺は仕方なく、比較的マシに見える小さな定食屋に入った。

「いらっしゃい! お兄さん、上の地区(山の手)の人だろ? 珍しいねぇ」

 人間の店主が愛想よくテーブルを拭き、頼んだラーメンを持ってきた。丼の中には、隣の席でオーク(豚頭族)が食べているものより倍はあろうかという分厚いチャーシューが載っていた。

 隣のオークがちらりとこちらを見た。その目に怒りはなく、あるのは諦めと、慣れきった羨望だけ。

 俺は箸を止めた。余分に盛られた肉が、喉に詰まりそうだった。

 階級格差。教科書で読んだ四文字が、これほど生々しく俺の食卓に並べられたことはない。

 俺は逃げるようにかき込み、代金を置いて店を出た。

 帰り道、気分の悪さは増すばかりだった。

 ふと、通りがかりの薄汚れた質屋のショーウィンドウが目に入った。

埃を被ったガラスの向こうには、生活が破綻した者たちの残骸が山積みになっている。弦の切れたギター、偽物の金時計、古雑誌の束、そして乱雑に放り込まれた古着の山。

その中に、どこかの店の制服らしきシャツが混ざっていた気がしたが、酷くよれて変色し、原型も留めていない。ただのボロ雑巾にしか見えなかった。

(こんなゴミまで金に換えなきゃならないのか……ここの住人は本当に貧しいんだな)

俺は足を止めることもなく、その「名もなきゴミ」からすぐに興味を失って視線を外した。

それが誰の物だったのかなんて、考える由もなかった。

 ようやく、GPSが示す区画の中心に辿り着いた。

 そこは巨大な蜂の巣のような集合住宅だった。何百もの窓が密着し、生活音が騒音となって降り注いでいる。

 探す? こんな場所で? 砂浜でコンタクトレンズを探すようなものだ。

 俺の堪忍袋の緒が切れた。これ以上うろつくのは御免だ。原始的だが、一番早い方法を使わせてもらおう。

「ミャーーーーッ!!」

 俺はビルの谷間に向かって、腹の底から叫んだ。

「おい! ミャ! いるなら返事をしろーーッ!」

 声が反響する。

 一瞬の静寂の後、頭上の窓がバンッ!と開き、ランニングシャツ姿の犬人族(コボルト)のオッサンが顔を出した。

「うるせえぞコラァ! 何時だと思ってやがる!」

「すみません! ここにミャっていう猫人族の女の子はいませんか!?」

「ああん? ここには何十匹も猫がいるんだよ! どいつのことだ!」

 オッサンは痰を吐き捨て、思い出したように下の階のベランダを指差した。

「ああ、あの騒がしい野良猫のことなら、ここ数日見てねえよ! 借金踏み倒して夜逃げでもしたんじゃねえか? とにかくここで喚くな、迷惑なんだよ!」

 バンッ! 窓が叩きつけられるように閉まる。

 俺は呆然と立ち尽くした。

「数日見てない……夜逃げ……?」

 あのオッサンの態度は最悪だったが、情報は得られた。ミャは確かに不在だ。しかも、数日前から。

 その時、ポケットのスマホが震えた。

 ショートメールだ。差出人は――【暴力猫・ミャ】。

『ごめんカイ君! 最近スマホ見てなくて! 今、母ちゃんの病気で隣町のデカイ病院に来てるんだニャ! しばらく付き添いで帰れないかも。店長によろしく言っといてニャ!』

 画面の文字を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れ、どっと力が抜けた。

「なんだよ……隣町の病院かよ……」

 隣人の言う「数日見てない」という情報とも合致する。借金取りに追われてるなんてのは、あのオッサンの偏見だろう。

 文面もいつもの軽い調子だ。店長も「拉致された」だの「失踪」だの大騒ぎしやがって、人騒がせな。母親の看病なら仕方ないじゃないか。

「ふぅ……帰るか」

 彼女が無事だと分かり、俺の中に残っていた義務感は消滅した。これ以上、この息苦しい場所に留まる理由はない。

 思考は自然と、家で待つ「天使」へと切り替わった。

 そうだ、せっかく都心に出てきたんだ。銀行で金をおろして、そのままデパートへ行こう。

 この前ショーウィンドウで見かけた、高級子供服ブランドの純白のワンピース。レースとフリルがふんだんにあしらわれたあの一着は、きっとリアによく似合う。

 値段は俺の給料の半分くらいするが、今のリアは成長期ですぐ服が着られなくなる。少しくらい奮発して、いい物を着せてやりたい。

「あのフリルに、エナメルの靴を合わせて……絶対可愛いぞ」

 俺はリアがくるくると回って喜ぶ姿を妄想し、頬を緩ませながら角を曲がった。

 しかし。

 俺の足は、唐突に縫い止められたように動かなくなった。

 路地裏のゴミ捨て場。

 そこに、数人の子供たちがうずくまっていた。

 犬人族の子供だ。一番上の子でも、まだ五、六歳だろうか。

 彼らが身に纏っているのは「服」とは呼べない、ただのボロ布だった。あちこち破れ、泥にまみれ、痩せこけた肋骨が浮き出ている。

 彼らは今、ゴミ箱から漁ってきたカビだらけのパンの切れ端を、奪い合うように分け合っていた。

 俺の足音に気づき、子供たちが一斉に顔を上げる。

 その瞳。

 濁って、光を失い、けれど飢餓感だけが異様にギラついている瞳。

 彼らの視線が、俺を射抜く。

 俺の、一点の汚れもないブランド物のジャケットを。

 泥などついたこともない、高いスニーカーを。

 物乞いをするわけでも、襲ってくるわけでもない。

 ただ、じっと見つめてくる。

 その視線は、俺の脳内にあった「リアに数万円のドレスを着せて愛でる」という甘美な妄想を、鋭利な刃物のように切り裂いた。

 吐き気がした。

 俺は何を考えていたんだ?

 財布を出して恵んでやるか? 偽善者め。ここにはこんな子供が何百人もいるんだぞ。俺の小遣い程度の金で、何が変わる?

 顔が熱い。誰かに平手打ちされたように熱い。

 ここは地獄だ。

 そして俺は、地獄のふちから安全圏を覗き込み、家で飼っているペットの首輪の値段を自慢しているだけの……薄汚い特権階級だ。

「…………」

 俺は財布を出さなかった。

 声もかけなかった。

 俺はただ、俯き、子供たちの視線から逃げるように歩調を速めた。

 早歩きはすぐに小走りになり、やがて無様な逃走へと変わった。

 後ろを振り返ることはできなかった。

 俺は背中に突き刺さる無言の糾弾から逃れるように、一目散に駅へと駆け込んだ。

 煌びやかで、嘘で塗り固められた、けれど今の俺にはどうしても必要な「安全な世界」へと。

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