第13話 拾ったのは、天使?
【リア・視点】
最初は、ただの『痒み』だった。
何千匹もの蟻が骨の髄まで入り込んだような、あるいは皮膚の下に焼けた炭を埋め込まれて、神経をじりじりと焼かれているような感覚。
それは三日前の朝のこと。目が覚めると、被っていた毛布が妙に『短く』なっていた。
いや、毛布だけじゃない。袖がつんつるてんになり、ズボンの裾は足首の上まで吊り上がっている。視線の高ささえも……微妙に変わっていた。
姿見の前に立ち、鏡に映る少し見知らぬ自分を見た瞬間、恐怖という名の冷たい毒蛇が心臓に巻き付いた。
(育って……る?)
違う。これは人間が言うところの、緩やかな『成長』なんかじゃない。
これは『変態(メタモルフォーゼ)』だ。醜い芋虫が繭を破って蛾になるような、ぬめるオタマジャクシが手足を生やして蛙になるような、生物としての作り変えだ。
私はサキュバス。悪魔なのだ。
この爆発的な成長には、たった一つの理由しかない。私の体が『捕食』のために進化しようとしているのだ。
平らだった胸が膨らみ始め、腰のくびれはより柔らかく、艶めかしく。男の体をより強く絡め取り、より貪欲に精気を啜れるように――淫らで危険な『成体』へと、急速に作り変えられていく。
(いや……)
鏡の前で、私は自分自身を強く抱きしめた。爪が肉に食い込む。
(あんな妖艶な大人になってしまったら……もう二度と、カイ様に抱っこしてもらえない)
(『可哀想で、無害な、小さな天使』ではいられなくなってしまう)
カイ様が好きなのは、弱くて、守ってあげなきゃいけない私だ。もし私が、あの猫女みたいに強くて、それ以上に捕食者じみた怪物になってしまったら、カイ様はきっと吐き気を催すに違いない。
さらに絶望的なことが、昨日起きた。
腰――骨盤の両脇あたりから、引き裂かれるような激痛が走ったのだ。
何かが、そこから突き破って出ようとしている。
それは『腰の羽』。
悪魔の中でも、淫魔(サキュバス)だけが持つ汚らわしい器官。交合の際、獲物の体を包み込み、男を懐に閉じ込めて精気を搾り取るためだけに存在する、淫らな皮膜の翼。
動かぬ証拠だ。
カイ様が一目見れば、私が天使の混血なんかじゃなく、ただの発情した卑しい害虫だとバレてしまう。
(隠さなきゃ……死んでも隠し通さなきゃ!)
私は半狂乱で救急箱を漁り、包帯を取り出した。
一巻き、また一巻き。
腰を死ぬ気で締め上げる。頭をもたげようとする骨を、無理やり肉の中へ押し込めるように。
「ぐ……ぅぅ……っ」
痛い。骨が悲鳴を上げ、皮膚が裂ける。呼吸をするたびに、焼けた鉄線で締め上げられているようだ。
でも止められない。肉が爛れようが、骨が砕けようが、この汚らわしい部位を身体の中に封印しなければ。
そのためならと、私はあの『聖霊の滋養液(エリクサー)』さえも飲み干した。
カイ様は笑顔で、天使の身体に良い神薬だと言ってくれた。けれど私にとって、それは光属性の猛毒だった。
飲んだ瞬間、内臓が強酸で溶かされるかと思った。トイレで何度も吐いた。吐瀉物は黒い胆汁ばかりだった。
それでも嬉しかった。この激痛こそが、体内の魔性を『浄化』してくれている証だと思えたから。
それなのに……どうして?
どうして隠しきれないの?
黒赤く濁った血が包帯に滲み出し、カイ様がくれた純白のパジャマを汚していく。
カイ様の手が伸びてきて、無理やり服を捲り上げた瞬間――世界が崩落する音が聞こえた。
冷たい空気が、爛れた腰を刺す。
終わった。
あの場所……絶対に羽なんて生えてはいけない場所を、見られてしまった。
私はソファに突っ伏し、呼吸さえ忘れて、涙で滲む視界の中で待っていた。
死刑宣告を、待っていた。
(ごめんなさい……カイ様……私は嘘つきです)
(私は……吐き気がするような、怪物なんです)
【カイ・視点】
時間が、凍りついたようだった。
俺の視線は、リアの背中と腰元に釘付けになっていた。そこにあったのは、想像していた皮膚病なんかじゃない。あまりにも痛ましい受難図だった。
薄汚れて血の滲んだ包帯が、まるで拷問器具のように、彼女の今にも折れそうな胴体をこれでもかと締め上げている。
そして包帯の下には、無理やり押さえつけられた二つの突起が、苦しげに皮膚を突き破っていた。
特に腰の両脇にある一対は、暴力的な圧迫のせいで正常に伸びることができず、皮下でねじれ、鬱血し、周囲の組織を引き裂いて、無惨な血肉の惨状を晒している。
「……お前、馬鹿なのか?」
長い沈黙の後、俺の乾いた喉から絞り出されたのは、そんな言葉だった。
身の下でリアがビクリと跳ね、顔をさらに深く埋めて、瀕死の獣のような嗚咽を漏らす。
「ちが……違うの……これは……病気で……」
「黙れ。動くな」
言い訳を聞いている暇はない。一秒でも長くこの状態を続ければ、包帯が彼女の命を削っていく。
俺は棚へ走り、医療用のハサミを掴み取った。手が震えている。だが俺はそれを意志の力でねじ伏せ、冷静さを取り戻す。
「少し冷たいぞ」
「やだ……カイ様……見ないで……そこは……だめ……」
リアはまだ微弱に抵抗し、腰を手で隠そうとする。その反応は異常なほど激しく、まるでそこから生えているのが身体の一部ではなく、呪いか何かだと思っているようだ。
「動くなと言ってるんだ!」
俺は低く怒鳴った。彼女に対して本気で怒声を上げたのは、これが初めてだった。
ハサミを入れる。カチャリ、という硬質な音。
繊維が断ち切られる。
ブチッ――
拘束が解かれた瞬間、抑圧されていた圧力が一気に解放された。
限界を迎えていた皮膚がついに破れ、肩甲骨にある未形成の翼とは別に、腰の両脇から――黒くて粘液を纏った小さなものが、まるで雨後の筍のように「ボンッ」と弾け出した。
それは腰の位置に生えた、一対の小ぶりな黒い皮膜の翼だった。
⾧期の血行不良のせいで、皺くちゃに縮こまり、まるで枯れた蝙蝠の羽のようにも見える。この位置にあるそれは、確かに異様な光景だった。
「ひぃあぁっ……!!」
リアが絶望の悲鳴を上げ、両手で顔を覆い隠して石のように硬直した。
腰に生えた奇妙な翼を見て、俺も一瞬呆気にとられた。
確かに、一般的な概念で言えば、天使の翼は背中に生えるものだ。腰に生えるなんて……聞いたことがない。
だが、「聞いたことがない」からこそ、俺の脳裏にかつて神学書で読んだ一節がフラッシュバックした。
(待てよ……これ、まさか……?)
最高位の天使――熾天使(セラフィム)。
伝承によれば、彼らは六枚の翼を持つ。一対で顔を覆い、一対で飛翔し、そして残りの一対で……『足』を覆うという。
つまり、神の前での謙遜と純潔を示すために、下半身を隠す翼だ。
その翼が生える位置といえば、まさに腰ではないか!?
理性的に考えれば、目の前の黒い膜翼はどう見ても天使の羽毛より蝙蝠に近い。だが、この子は「混血」だ。混血なら、多少見た目がイレギュラーでも不思議ではないはずだ。
俺は幼い頃、隣に住んでいたパンダ人(パンダフォーク)の幼馴染を思い出した。
リンリンというその少女は、生まれた時はハムスターサイズで、ピンク色で毛もなく、風が吹けば死にそうなほど弱々しかった。
だがある夏、彼女は風船を膨らませるように一ヶ月で身長が三十センチも伸び、体重は五倍になり、あっという間に「ハムスター」からプロパンガスを片手で運べる「巨熊美女」へと進化したのだ。
亜人の遺伝子とは、それほどまでに狂暴で理不尽なものだ。
パンダがネズミから熊になるなら、「天使の混血」であるリアに、羞恥を隠すための腰羽が生えたって、生物学的には完全にアリだろう……たぶん。
それが何であれ、今はどうでもいい。
(こんな大事な器官を、この馬鹿な子は腫瘍か何かだと思って締め上げていたのか?)
赤く腫れ上がった傷口を見て、俺の心臓は誰かに強く握り潰されたように痛んだ。
「……痛むか?」
俺はため息をつき、ハサミを放り投げると、自然と声が優しくなった。
リアは答えず、ただ小さく震えている。
俺は手を伸ばし、傷口を避けながら、解放されたばかりの腰の小さな羽にそっと触れた。ひやりとしていて、上質な革のように柔らかい感触だった。
「ひっ……!」
リアは電流に打たれたように跳ね、腰をビクつかせた。恐る恐る振り返ったその瞳は涙で溢れ、今にも壊れそうだった。
「カイ様……あの……これ……」彼女は支離滅裂に、蒼白な唇を震わせる。「違うの……場所が……おかしいの……これは怪物の……切り落とすから……だから……」
「切ってどうする」
俺は呆れたように彼女の言葉を遮り、消毒用の綿球を手に取った。
「位置が少し変わってるのは認めるが、こいつは『良いもの』だぞ」
「……え?」
リアの涙が睫毛に留まったまま、動きが止まる。
「これは『羞恥隠しの羽』だろ? 本には書いてあったぞ。最高位の天使だけが、最初にこの羽を生やすってな」
俺は半端な神学知識をそれっぽく並べ立て、これ以上ないほど断定的な口調で言った。
「今は皺くちゃで蝙蝠みたいに見えるが、それはお前が栄養を与えなかったからだ。隣のパンダ族の姉ちゃんだって、昔は毛のないネズミみたいだったが、大きくなったら立派になっただろ?」
俺は彼女の額を、指先でピンと弾いた。
「どこに生えようが、どんな形だろうが、それはお前の体の一部だ。それを締め上げて壊して、どうやって背中の立派な翼を生やすつもりだ?」
リアはポカンと口を開け、まるで異星人の言葉を聞くような顔をしていた。
最高位? 羞恥隠し?
そのオッドアイの中で、絶望の厚い氷がパキパキと音を立てて砕け散り、代わりに信じられないものを見るような――まるで奇跡を目撃したかのような光が宿り始める。
「ほん……とう、ですか?」
「ああ。俺が嘘をつくかよ」
俺は笑って、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「だから、もう二度と隠すな。次に尻尾が生えようが、三つ目の目が開こうが、自分を傷つけることだけは許さん。お前がどんな姿になるかより、お前が血を流しているのを見るほうが、俺はずっと怖いんだ。分かったか?」
その瞬間、リアの瞳というダムが決壊した。
彼女は腰の痛みも忘れて俺の胸に飛び込み、死に物狂いで、全力で俺の首にしがみついてきた。
「うわぁあああああああああんッ!!」
彼女は本物の子供のように、声を上げて泣きじゃくった。
俺は苦笑しながら彼女を受け止め、その華奢な背中と――腰に生えた、少し奇妙だが俺には可愛く見える翼を、優しく叩いてやった。
これが、いわゆる『成長痛』ってやつだろう。
少々過程は悲惨だったが、この子はきっと、立派な天使になるに違いない。
【カイ・視点:深夜の書斎】
時計の針は午前三時を回っていた。
雨は上がり、窓の外の世界は死のような静寂に包まれている。
俺はリアの部屋を忍び足で出た。泣き疲れて深い眠りに落ちた彼女を確認し、書斎へと籠もる。
「ふぅ……」
ドアを閉めた瞬間、俺の顔に張り付いていた安堵の笑みは消え失せた。
デスクライトを点ける。薄暗い光が机の上に積まれた分厚い書物を照らし出す。それは先日、リアに隠れて街一番の書店まで足を運び、買い込んできた専門書だ。
普段は漫画しか読まない俺が、数千円もはたいて買ったハードカバーの山。
『亜人種生理学大全』、『神聖法典・天使篇』、『異界生物図鑑』……。
俺はページをめくり続けた。指先が紙を擦る乾いた音だけが響く。
「……ない」
「ここにも、ない」
最後の一冊を閉じ、俺は眉間に深い皺を刻んだ。
『腰に翼が生える』なんて記述は、どこにも存在しない。
さっき俺がリアに語った『熾天使の羞恥隠しの翼』なんて話は、彼女の自傷を止めるためにその場ででっち上げた、大半が優しい出まかせだ。
確かに六翼の天使の記述はあるが、あれをリアの背中にある生物的で、蝙蝠じみた黒い膜翼と結びつけるのは、あまりにも無理がある。
それに、問題は翼だけじゃない。
以前、ミャが家に来た時の反応を思い出す。
あの向こう見ずで、チンピラ相手にも啖呵を切る野良猫のような女が、リアの匂いを嗅いだ途端、天敵に出会ったかのような恐怖の表情を浮かべていた。
加えて、リアの爆発的な成長速度。そして彼女自身が抱く、自分の身体的特徴に対する病的なまでの恐怖……。
すべてのピースが、一つの結論を指し示している。
リアは、恐らくただの『天使の混血』なんかじゃない。
だが、俺の背筋を本当に凍らせたのは、リアの正体そのものではなかった。
この社会における情報の『空白』だ。
正規ルートで手に入るあらゆる書物を調べたが、奇妙な現象にぶち当たった。『魔族』や『悪魔』、あるいは『高危険指定異種』に関する記述が、まるで人為的に抹消されているかのように少ないのだ。
たまに単語が出てきても、曖昧に誤魔化されているか、黒塗りにされているか、ページが切り取られている。
まるで……人類に『それら』の詳細を知られたくない誰かがいるかのように。
「半分、隠されている……のか?」
俺は本を閉じ、机を指で叩いた。瞳の奥に冷たい光が宿る。
この裏には、俺が触れてはいけないタブーが潜んでいるのかもしれない。
だが、すぐに脳裏に浮かんだのは、さっき泣きじゃくりながら俺にしがみついてきたリアの姿だった。腰を血だらけにして、必死に自分を否定しようとしていた、あの愚かな子供。
彼女が何者でも構わない。
天使だろうが、この世界から名前を消された禁忌の怪物だろうが。
「……それがどうしたって言うんだ」
俺は低く呟き、何の成果もなかった専門書を脇へ追いやった。
俺が知っているのは、彼女が俺のそばにいるために、自分の体を傷だらけにするほど健気で不器用な子供だということだけだ。
それだけで十分だ。
もしこの世界が彼女を異物として排除しようとするなら……俺はどんな手を使ってでも、俺のやり方で彼女を隠し通してみせる。
たとえ、あの荒唐無稽な嘘で塗り固めてでも。
漫画の山の隅から、毒々しい色の雑誌が顔を覗かせていた。
以前、暇つぶしに路上の屋台で買った三流オカルト誌『深淵の怪物』シリーズ。
雑誌はいつの間にか開かれ、『サキュバス(魅魔)』を紹介するページで止まっていた。
三流画家の悪意に満ちた想像力が爆発している。
描かれているのは、窒息しそうなほどの美貌と、捻じれた山羊の角、そして……捕食欲に満ちた、凶悪で妖艶な瞳を持つ雌の怪物。彼女は人間の男に跨り、その精気を骨の髄まで啜ろうとしている。
その姿は強大で、美しく、そして身の毛もよだつほど恐ろしい。
あのおどおどとしたリアの瞳とは、似ても似つかない。
……だが、ふとした瞬間に見せる光が、奇妙に重なって見えるのは気のせいだろうか。
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