第10話 異香立ち込めるマンション
【カイ・視点】
「ほら、ここが俺の家だ。大したもてなしはできないが、座る場所くらいはあるぞ」
俺は両手に提げたずっしりと重い『戦利品』――コンビニの廃棄弁当が詰まった袋を二つ、玄関のフローリングに置いた。
背後では、ミャがまるで新しい縄張りに連れてこられた猫のように、キョロキョロと首を伸ばし、しきりに鼻をヒクつかせている。
「ここがカイ君の住む高級マンションかニャ……うわぁ、空気の匂いまでアタシの犬小屋とは値段が違う気がするニャ!」
「馬鹿言え。空気がタダなのはどこも一緒だ」
俺は苦笑しながら靴を脱ぐ。その拍子に、視線がふとシューズボックスの隅に向けられた。
そこには、目立たないように置かれた黒いフォトフレームがある。被写体は若い夫婦で、どこかの海岸をバックに屈託のない笑顔を浮かべている。
俺の両親だ。
一瞬、俺の顔に張り付いていた気怠げな笑みが強張る。
(父さん、母さん。また『部外者』を連れ込んじまったよ……ただの残飯処理係の同僚だけど、少し賑やかになる分には許してくれるよな?)
眼底を鉛のように重い感情が過ったが、それは一秒も続かなかった。俺は深く息を吸い込み、いつもの能天気な仮面を被り直す。
「上がってくれ。スリッパはそこだ」
振り返ると、ミャが玄関先でガチガチに固まっていた。尻尾までピンと一直線に伸びているそれは、完全に警戒モードに入った猫科動物の姿だった。
「どうした? 俺がそんなに怖いか?」
「な、何でもないニャ! 誰があんたなんか怖がるかニャ!」
ミャは尻尾を踏まれたように反論したが、その視線は泳いでいるし、まだ周囲の匂いを嗅ぎまわっている。
「ただ独身男の部屋っていうのは……その、どうせ散らかってるだろうから、心の準備をしてただけだニャ! き、緊張してるわけじゃないからな!」
俺は思わず吹き出しそうになった。店ではあんなにガサツなのに、プライベートな空間に入ると急に淑やかぶるのか。顔まで赤くなっているじゃないか。
「あのさ、カイ君。ちょっと洗面所借りていいかニャ? さっき袋持った時に油がついちゃって、ベタベタして気持ち悪いんだニャ」
「ああ、廊下の突き当たりを左だ」
【ミャ・視点】
許可を得るや否や、ミャは逃げるように洗面所へと飛び込み、パタンとドアを閉めた。
閉ざされた狭い空間で、栗色のショートヘアの猫人族(ワーキャット)の少女は、ドアに背を預けて荒い息を吐き出した。
「ふぅ……死ぬかと思った……マジで死ぬかと思ったニャ……」
恥ずかしいからではない。断じて違う。
「静かすぎるし、カイ君のやつ、普段は間の抜けた顔してるくせに、住処(すみか)はこんなに圧迫感があるのかニャ……」
この玄関に足を踏み入れた瞬間から、彼女の野生の勘がガンガンと警鐘を鳴らし続けていたのだ。
空気中に漂う、形容しがたい甘い香り。
それは森の奥に咲く毒々しい色のキノコや、あるいは洞窟の深淵に潜む巨大な捕食者を連想させるものだった。
理性ではありえないと分かっていても、蜘蛛の巣に絡め取られたような粘着質な不快感が、全身の毛穴を収縮させる。
「あのバカ店員……まさか本当に、ヤバい『何か』に取り憑かれてるんじゃニャいか?」
ミャは熱くなった頬をパンパンと叩き、逆立った尻尾の毛を落ち着かせようとしながら、必死に自己弁護の言葉を呟く。
「勘違いするなよ、ミャ! アタシはただ、長期的な『飯ヅル』の心配をしてるだけだニャ! こいつが倒れたら、誰が廃棄弁当を残してくれるってんだ? そう、それだけだニャ! 別にこいつの部屋に興味があるとかじゃ絶対ないニャ……」
説得力皆無の自己暗示をかけながら、彼女は洗面台へと向かった。
その時、彼女の視線が棚の一角に釘付けになった。
無機質な男物の洗面用具の中に、場違いなピンク色のボトルが一つ。
それは……衣料用柔軟剤だった。
「これは……?」
ミャは鼻をヒクつかせ、何かに操られるように手を伸ばし、そのボトルを手に取った。
「フン、どうせ女の置き土産……じゃなくて、買い間違えたやつだろニャ! 消費期限が切れてないかチェックしてやるニャ!」
蓋を開け、恐る恐る鼻を近づける。
瞬間。
コンビニで彼女を恐怖のどん底に突き落としていた、あの『甘ったるい香り』が鼻腔を直撃した。
柑橘系、そして濃厚なローズの香り。
「……ッ!」
ミャは硬直した。
――確かに、似ている。
けれど、ボトルの中身はもっと化学的で、平板な匂いだ。カイの身体から漂っていた、まるで意思を持って脳髄に侵入してくるような、あの生々しい妖艶さは感じられない。
だが、その微細な違いを認めてしまえば、カイの部屋に『未知の怪物』がいることを認めることになる。
そんな恐ろしい可能性、考えることすら拒絶したい。
「な、なんだぁ……やっぱりただの柔軟剤だったのかニャ!」
彼女は一瞬で決断した。この『無理のある理屈』を信じ込むことにしたのだ。
「アタシってばバカすぎだろ……とんでもない事件かと思って損したニャ」
鏡に映る、恐怖で瞳孔が収縮していた自分の顔を見て、ミャは脱力したように息を吐いた。
恥ずかしさで赤面しながら、ボトルを棚に戻す。
「ケッ。男のくせにこんな乙女チックな匂いさせやがって、キモいんだよカイ君……ま、でも柔軟剤ってことは、悪い女も化け物もいないってことだニャ」
憑き物が落ちたように、少女の心は軽くなり、垂れていた尻尾も再び上を向いた。
「よし、危険がないならさっさとお茶飲んで帰るニャ。あんなバカと長居してたまるか!」
彼女はツンとした顔を作り、顔を洗ってから勢いよくドアを開けた。
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