第07話 泥棒猫の匂い

【カイ・視点】

 午前二時。

 都市の喧騒がようやく眠りにつき、静寂が支配するこの時間帯、コンビニエンスストアという場所はまるで深海にある潜水艦のようだ。

 店内を照らす白い蛍光灯のハム音と、業務用冷蔵ケースが発する低周波の振動音だけが、鼓膜を揺らしている。

 俺、カイは、陳列棚の前でしゃがみ込み、新しく納品された金槍魚(ツナ)マヨネーズのおにぎりを、消費期限の古い順に手前に並べ替える作業に没頭していた。

 単純で、生産性がなく、けれど妙に精神が落ち着く作業だ。

 ここが亜人と人間が共存する社会だと言っても、深夜のコンビニバイトのやることは変わらない。

 ふと、背後の自動ドアが開いたわけでもないのに、空気が動いた気がした。

 柑橘系の、爽やかで少し鼻にツンとくる香りが漂ってくる。

「カ~イ君! またおにぎりと睨めっこしてるのかニャ?」

 予感と同時に、背中にドサッという重量感がのしかかってきた。

 遠慮もデリカシーも皆無のその衝撃に、俺は思わず前のめりになりそうになる。

「……おい、重いぞミャ。それに、今は勤務中だ」

 俺はため息混じりに背後の「荷物」に声をかけた。

 俺の背中にコアラのようにへばりついているのは、夜勤の相方である猫人族(ワーキャット)のミャだ。

 栗色のウェーブがかった髪から、ひょっこりと飛び出した猫耳。制服のスカートの下からは、長い尻尾が楽しげに左右に揺れているのが気配でわかる。

 彼女はこの店の看板娘であり、種族特有の陽気さと、そして何より――「パーソナルスペース」という概念が欠落していることで有名だった。

「いいじゃんいいじゃん! どうせ客なんて来ないんだし、アタシにもカイ君のエネルギーを吸わせてくれよニャ~」

 ミャは悪びれる様子もなく、俺の首元に顎を乗せてくる。

 耳元で聞こえる「ニャ」という語尾は、媚びているわけではなく、彼女の種族特有の訛りのようなものだ。

 首筋に、彼女の湿った鼻先が触れる。

 彼女から発せられるのは、生命力に溢れた健康的な雌の匂いだ。今の俺の家にある、あの守ってあげたくなるような儚いミルクの香りとは対極にある、野生のバイタリティ。

「んん? なんか今日のカイ君、甘い匂いがするニャ……。もしかして牛乳風呂にでも入った?」

 ミャは俺の肩口に顔を埋め、スンスンと鼻を鳴らした。

 動物的な本能なのか、彼女は俺の変化――というより、家に住み着いた新たな同居人の気配に敏感に反応しているようだ。

「変な勘ぐりをするな。ただの柔軟剤だ」

「え~? 怪しいニャあ。どれどれ、もうちょっと詳しく鑑定してやるニャ」

 ミャはふざけた調子で、俺の襟元に深く鼻を近づけ、肺いっぱいに空気を吸い込もうとした。

 その、瞬間だった。

 バチッ!!

 静かな店内に、見えない火花が散ったような錯覚が走る。

「ふ、ぎゃあッ!?」

 背中で、空気が凍りついたような悲鳴が上がった。

 次の瞬間、俺の肩を両手で激しく突き飛ばすような反動があり、背中の重みが消え失せた。

 ガシャン、と雑誌コーナーのラックが揺れる音がする。

「痛(い)ッ……!」

「おいおい、どうしたんだよ急に。大声出して」

 俺は手に持っていたおにぎりをカゴに戻し、呆気にとられて振り返った。

 そこには、信じられない光景があった。

 ミャが、三メートルほど後方まで飛び退き、腰を抜かしたようにへたり込んでいたのだ。

 栗色の髪の毛が逆立ち、頭頂部の猫耳はこれ以上ないほど後ろに倒れて頭に張り付いている。いわゆる「イカ耳」状態だ。

 その瞳孔は針のように細く収縮し、俺の肩のあたりの空間を、まるで透明な化け物でも見るような目で凝視している。

「ミャ? ゴキブリでもいたか?」

 俺がのんきに尋ねると、ミャはハッとして我に返ったようだった。

 彼女は自分の身体を抱くようにして震え、荒い呼吸を繰り返している。

「な……なん、だ……今の……?」

 ミャの声は掠れていた。

「今、カイ君の匂いを嗅いだら……なんか、凄(すげ)えのが……」

「凄いのって何だよ」

「わかんないニャ! わかんないけど、鼻の奥が焼けるみたいに熱くなって、背筋に氷水をぶち込まれたみたいな……!」

 彼女は混乱した様子で、何度も自分の鼻を擦っている。

 その怯え方は尋常ではなかった。まるで、食物連鎖の頂点に立つ捕食者に、無防備な喉元を晒してしまった小動物のような――本能的な拒絶反応。

 だが、俺を見るミャの目は、次第に困惑へと変わっていった。

 目の前にいるのは、いつもの覇気のない、凡人のカイだ。魔力のかけらも感じさせない、ただの人間。

 そんな男から、あんな死神のような威圧感が放たれるはずがない。

「……静電気、かニャ?」

 ミャはおずおずと立ち上がり、スカートの埃を払った。

「そうだよ、きっとそうだニャ! カイ君の服、安物の化学繊維だから! バチッてなったんだニャ!」

 彼女は自分に言い聞かせるように、早口でまくし立てた。

 明らかに無理のある理屈だったが、恐怖を認めるよりはマシだという心理が働いたのだろう。

「まったく、人騒がせな奴だな」

「う、うるさいニャ! アタシの自慢の毛並みがチリチリになったらどうしてくれるんだ!」

 ミャはそう悪態をついたが、その足取りは明らかに俺から距離を取ろうとしていた。

 いつもなら隙あらばサボって話しかけてくる彼女が、今日はカウンターの奥へとそそくさと退避していく。

「レジ番してるから! 品出し全部任せたニャ!」

 逃げるように去っていく彼女の背中には、隠しきれない動揺が張り付いていた。

 俺は首を傾げながら、再びおにぎりの棚に向き直った。

 やはり、季節の変わり目は猫も情緒不安定になるのだろうか。

 まさか自分の背中に、家に置いてきたはずの「天使」が残した、見えない刻印(マーキング)が焼き付いているなどとは、夢にも思わずに。

 午前四時。

 東の空が白む前の、一番深く、冷たい闇の時間。

 俺は重い足取りでマンションの階段を上り、自宅のドアを開けた。

 電子ロックが解除される「ピロリ」という無機質な音が、深夜の廊下に響く。

 中に入ると、外気とは違う、ほんのりと温かい空気が肌を包んだ。

 パタパタ、パタパタ。

 靴を脱いでいると、廊下の奥から、フローリングを素足で叩く軽い足音が近づいてきた。

「……カイ、さま?」

 リビングのドアから顔を覗かせたのは、白い毛糸の塊だった。

 リアだ。

 俺が数日前に買い与えた、純白のニットのセーターを着ている。

 サイズ選びを間違えて少し大きすぎたその服は、彼女の華奢な体をすっぽりと覆い隠していた。長い袖からは指先がちょこんと覗く程度で、裾は太ももの半分まで届いている。

 まるで彼氏の服を借りた彼女のような、あるいは綿毛に包まれた妖精のような姿だ。

 彼女は眠い目をこすりながら、とぼとぼと廊下を歩いてくる。銀色の髪には寝癖がついていて、ぴょこんと跳ねていた。

「起きてたのか? まだ寝てていいのに」

 俺が苦笑して言うと、リアはフルフルと首を横に振った。

「ううん……カイ様の、帰ってくる音がしたから……」

 言葉の端々に、とろりとした眠気が混じっている。どうやら、俺の足音を聞きつけて、慌ててベッドから這い出してきたらしい。

 わざわざ出迎えなんてしなくていいのに、と思いつつも、その健気さに胸の奥が温かくなる。

「おかえりなさい……」

 リアは俺の目の前まで来ると、安心しきったように目を細め、身体を預けるようにふらりと倒れ込んできた。

 俺は慌てて彼女を受け止める体勢をとる。

 温かい抱擁。

 そのはずだった。

 ピタリ。

 俺の胸板に鼻先が触れる直前。

 リアの動きが、不自然に停止した。

 まるで映像が一時停止したかのように、彼女の身体が硬直する。

「……?」

 スウッ、と小さく鼻を鳴らす音が聞こえた。

 次の瞬間。

 リアの顔から、眠気がごっそりと抜け落ちた。

 半開きだった瞼がカッと見開かれ、オッドアイの瞳孔が、カメラのシャッターのように鋭く収縮する。

 彼女の視線は、俺の顔ではなく、俺の「左肩」――そう、さっきまでコンビニでミャが顎を乗せていた場所に、釘付けになっていた。

【リア・視点】

 臭い。

 鼻腔を突き刺すような、強烈な異臭。

 柑橘系の制汗剤の匂い。埃っぽいコンビニの匂い。

 そして何より――圧倒的に鼻につく、「雌(メス)」の匂い。

 それも、ただの人間じゃない。獣の混じった、野卑で、精力的で、健康な……「猫」の匂いだ。

 リアの頭の中で、警報が鳴り響いた。

 寝ぼけていた脳みそが、氷水をぶっかけられたように覚醒する。

 (……誰?)

 カイ様は、仕事に行っていたはずだ。

 なのに、どうしてこんな濃厚な匂いがついているの?

 すれ違っただけじゃない。これは、長時間、身体を密着させていないと移らない匂いだ。抱きついた? 背負った? それとも……?

 リアの背筋に、冷たいものが走る。

 それは嫉妬などという生易しいものではなく、もっと根源的な「生存への恐怖」だった。

 匂いから想像できる相手の姿。

 きっと、私みたいにガリガリじゃない。傷だらけでもない。

 明るくて、元気で、カイ様の隣に立っても恥ずかしくない、普通の女の子。

 (……新しい、ペット?)

 その思考が浮かんだ瞬間、リアの足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。

 カイ様は、私に飽きたのかもしれない。

 だって私は、面倒くさい。我儘だし、嘘つきだし、本当は汚い魅魔(サキュバス)だ。

 優しくて立派なカイ様には、私みたいな「不良品」よりも、あの匂いの持ち主のような「正規品」の方が似合うに決まっている。

 (嫌だ……)

 白いセーターの袖口を、内側からギュッと握りしめる。

 (捨てられたくない。あの冷たい雨の中に戻りたくない)

 (この服も、この温かい部屋も、カイ様の優しい手も……全部、あの子に取られちゃうの?)

 恐怖で胃液が逆流しそうになる。

 追い出さなきゃ。

 この匂いを消さなきゃ。

 カイ様は私のものだって、印をつけ直さなきゃ。

 でも、怒ってはいけない。問いただしてもいけない。そんなことをすれば「面倒な女」だと思われて、処分が早まるだけだ。

 私は、天使。聞き分けの良い、可愛い天使でいなくちゃいけない。

 リアは震える唇を噛み締め、必死に表情を作った。

 泣き出しそうな、寂しがり屋の子供の顔を。

「……カイ様」

「ん? どうした、リア? 怖い夢でも見たか?」

 カイ様の声は、残酷なほど優しい。その優しさが、今は逆に怖かった。

「……寂しい、です」

 リアは蚊の鳴くような声で呟いた。

「今日……カイ様に会えなくて、ずっと寂しかったから……ここが、空っぽになったみたいで」

 自分の胸のあたりを、小さな手で押さえる。

 嘘じゃない。不安で、胸が張り裂けそうだ。

 リアは爪先立ちになり、ふらつく足取りでカイ様の懐に飛び込んだ。

 ドムッ。

 今までで一番強く、頭突きをするような勢いで。

 狙う場所は一つ。あの、忌々しい猫の匂いがする左肩だ。

「ちょ、リア? 危ないぞ」

「動きません。……動かないでください」

 リアは低い声で懇願した。

 白いニットの萌え袖から指を出し、カイ様の背中の生地を鷲掴みにする。

 そして、顔を押し付けた。

 グリ、グリ、グリ。

 額を、頬を、鼻先を。

 まるで汚れた黒板を消しゴムで擦るように、執拗に、暴力的に擦り付ける。

 (消えろ。消えろ。消えろ)

 (あっちに行け泥棒猫。ここは私の場所だ。この人は私の獲物だ)

 (私の匂いになれ。私の匂いだけで満たされろ)

 心の中で呪詛を吐き出しながら、表面上は甘えるように喉を鳴らす。

 銀色の髪が乱れるのも構わず、リアは一心不乱に「上書き」を続けた。

 自分の持てる全ての匂い――ミルクのような体臭、シャンプーの香り、そして微かに漏れ出る魅魔の甘いフェロモンを、カイ様の繊維の奥まで染み込ませていく。

 しばらくして、鼻をつく柑橘臭が薄れ、自分の匂いが充満したのを確認すると、リアはようやく動きを止めた。

 顔を上げる。

 摩擦で赤くなったおでこ。乱れた髪。潤んだ瞳。

 リアは、とろりとした安堵の表情でカイ様を見上げた。

「……充填、完了です」

 へにゃりと笑う。それは勝利宣言であり、同時に、捨てられないための必死の媚態でもあった。

「お、おう……? 随分と甘えん坊だな、今日は」

 カイ様は状況が飲み込めない様子で、それでも優しく、乱れたリアの髪を撫でてくれた。

「よしよし。寂しい思いをさせて悪かったな」

 大きな手が頭を撫でる感触に、リアは背筋がゾクゾクするほどの快感を覚えた。

 ああ、この手だ。

 この温もりがあれば、私は生きていける。

 リアはもう一度、今度は安心して、自分の匂いだけになったその胸に深く顔を埋めた。

 (絶対に渡さない)

 (誰が来ても、何度でも、私が上書きしてやるんだから)

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