黴の匂いと錆の記憶
@Lemon-teea
雨
雨が街を濡らすたび、
俺は傘を差さずに歩く癖があった。
濡れた舗道は鉛のように重く、
街灯の淡く黄色い光さえも、
湿気を帯びて腐った匂いを含んでいる。
心の奥で何かが鈍く疼き、
無意識に足を向けた先は、
少し古びた、
どこか懐かしさを覚えるバーの扉だった。
ガラス越しに見える闇の中、
かすかな明かりが揺れている。
中に入ると、
空気は湿り気を帯び、
カビと埃っぽい匂いが混じっていた。
床のきしむ音と雨音が入り混じり、
外界とはまったく別の時間が流れているように感じる。
カウンターの隅に座る女性の姿は、
影の中でしか輪郭が見えない。
深い闇のような瞳がを俺の中にある「何か」を捕らえ、
心臓の奥で何かがざわついた。
言葉はほとんど交わさず、
視線だけで存在を確かめ合う。
静寂の中、胸にじんわりとした熱が広がった。
その夜から、
雨の街は二人の隠れ家のようになった。
夜ごとにバーで顔を合わせ、
時には廃屋の路地で雨を避けながら、
互いに存在を確かめる。
彼女の手が自分の指に触れると、
冷たさと甘美な疼きが同時に押し寄せる。
幸福ではない、
むしろ欠落した「何か」を埋めるような
感覚。
欲望と孤独が混ざり合う夜は、俺の胸を酷く締めつけた。
ある日から俺たちの関係は次第に影が
掛かっていく、
彼女の影は深く、時折見せる笑顔は、
どこか嘲笑にも似ていた。夜のバーでは、
他人の声も、雨音も、
俺達の世界を侵すことはできず、
しかしその閉ざされた世界は確実に毒を含んでいた。
互いに必要以上に依存し、
逃れられない引力の中で絡み合う。
ある夜、彼女は何も告げず姿を消した。
探しても見つからず、
バーの空き椅子と湿った壁だけが、
かつての温もりを思い出させる。
雨粒が肩を打つたび、
彼女の手の冷たさが指の隙間から消えていくのを感じた。
街は静かに濡れ、灯りは鈍く、
誰も救いをくれない。
俺は立ち尽くし、胸の奥の痛みを抱えたまま、
雨に溶けるように歩き出す。
濡れた靴が舗道に軋む音は、
心の奥の孤独を反響させる。振り返れば、
バーの扉は閉ざされ、
そこにあった暗い世界はもう手の届かない記憶になっていた。
雨は止むことなく、街全体をじっと濡らし続ける。温もりの残像は指先で溶け、残ったのは湿った空気と胸の痛みだけだった。
黴の匂いと錆の記憶 @Lemon-teea
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
近況ノート
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます