10 最低の男

 人生の転機はいつ訪れるか分からない。



 賢人が休職してから1か月近くが経ち、彼が来週から消化器外科のローテーションで復職するというタイミングで私は賢人の下宿を訪れて彼に料理を作ってあげていた。


「ほら、綺麗にできたよ。ありあわせの材料で作ったからあまり豪華じゃなくてごめんね」

「そんなこと全然気にしなくていいよ、こんなふわふわのオムライスを彼女に作って貰えるなんて僕は幸せだ。いただきまーす」


 私が料理サイトの指南動画を見て練習したデミグラスオムライスを食卓にいる賢人に差し出すと賢人は私が隣の椅子に座るのも待たずにオムライスをスプーンで食べ始めて、私はよほどお腹が空いていたらしい賢人の姿を見てかわいいと思った。


 食卓といってもワンルームアパートの賢人の下宿にはノートパソコン置き場を兼ねた勉強机一つしかなくて、普段はあまり自炊していないという賢人の話を聞いた私は調理道具ごと彼の下宿に持参して料理を作った。


 外食にかかるお金を少しでも節約したいというのが正直な事情だったけど、ささやかな手料理で賢人が喜んでくれたことには私も素直に喜んでいた。



「最近は何か辛いことはなかった? 来週から消化器外科でちゃんと復職できそう?」

「うん、手術に出るのはちょっと不安だけど大学時代の部活の先輩がレジデントにいるからあんまりアウェイ感はないと思う。実はちょっと前に部活の同窓会にも行ってきたんだよ」

「へえー、山岳部の? それはまた楽しそう」


 湖南医科大学の学生だった頃の賢人は山岳部に所属していて、学生時代は長期休暇に部活仲間と登山に行った話を賢人からよく聞かされていた。


 近年の大学の医学部医学科では野球部やラグビー部のような集団球技の運動部や柔道部や剣道部のような武道系の運動部よりもスキー部やゴルフ部、自転車部といったレジャー系の運動部の人気が高い傾向にあり、賢人が所属していた山岳部もその一つだった。



 レジャー系の部活は部費が1年間で数十万円以上かかるのが当たり前なので貧乏な私にとっては元々選択肢になかったけど、医学生のみならず看護学生や他大学の学生とも合同で楽しく山に登るという登山部の活動は私もうらやましく思っていた。



「僕は休職中の身だからちょっと肩身が狭かったけど、部活仲間から復職しても頑張れって励まして貰えたよ。だから僕も期待に応えようと思って」

「そんなに肩肘張っちゃだめ。賢人は皆の期待に答えるために仕事してるんじゃなくて一人前のお医者さんになるための研修を受けてるんだから。……今日は時間ある?」

「いや、今日はちょっと疲れてるからそういうことはいいよ。みっちゃんも来週から循環器内科で忙しいと思うからどうかゆっくり休んで」

「ありがとう。私はいつだって大丈夫だから心配しないでね」


 それから賢人と一緒に調理器具や食器を廊下にある狭い台所で洗い、持ってきた調理器具を袋に片付けると私は賢人とお別れのキスをしてから彼の下宿を後にした。


 賢人がどうか消化器外科の研修で無事に復職できますようにと祈りながら、私はその翌週から循環器内科の研修医になった。




 循環器内科の仕事は楽しかった。冬場に入って心不全や心筋梗塞の患者さんが一気に増えて、日勤も当直も目が回るような忙しさだったけど何度も心臓カテーテルの介助をして沢山残業もできた。


 賢人からは消化器外科の仕事は楽しくやれているとラインで連絡が入って、私は嬉しい気持ちで循環器内科研修の最初の1週間を過ごした。



 忙しい日々の中でもクリスマスの前に1度は賢人とデートしたいなと考えていると、ある日の仕事終わりに賢人から電話がかかってきた。


 今日は定時を過ぎても心臓カテーテルが何件か続いていたので今は既に20時を回っていて、もしかするとまた賢人の身に何かあったのかも知れないと思ってロッカールームで着替え中だった私は慌てて電話に出た。



「もしもし光瑠です! どうかしたの!?」

『あの、館山先輩の彼女さんのお電話でよろしかったでしょうか。私、館山先輩と同じ済生会如月病院で働いている看護師の有村ありむらといいます』

「有村さんって……もしかして賢人の山岳部の後輩だった有村さん?」

『ええ、そうです。ちょっと館山先輩の身に大変なことが起こって……本人のスマホを借りて電話させて頂きました。突然すみません』

「あ、ありがとう。賢人は大丈夫なの?」


 有村さんという名前の看護師さんには聞き覚えがあって、賢人より1学年下の看護学生でお互い山岳部員で在学中から親しかったという女の子の話は以前に聞いていた。


 医学部医学科は6年制、看護学科は4年制なので1学年下でも就職は賢人より1年早い計算になるし、賢人と同じ病院で働いているという話は初めて聞いたけど同じ近畿圏内ならそういうこともあるだろうと思った。


 そして、同じ病院に勤める看護師さんが緊急で連絡してきたということは賢人の身に何か大変なことが起こったに違いない。



『私の社宅も館山先輩の社宅の近くなんですけど、今日仕事終わりにスーパーに寄ってから帰ってたら館山先輩が道端で倒れてるのを見かけて。幸い心拍とか呼吸状態には問題なかったんですけど意識がもうろうとしていて、会話はできる状態だったので先輩を引きずってとりあえず自宅まで送り届けました。流石に救急車を呼ぶほどではないと思うんですけどこのまま放置して帰れないので、先輩にスマホのロックを解除して貰って彼女さんに連絡させて頂きました。今日当直とかじゃなかったら今から来て頂くことは可能でしょうか?』

「全然大丈夫! 賢人を助けてくれて、私に連絡までくれてありがとう。今からすぐに向かうから、それまで見守っていて貰ってもいいですか? 後で絶対にお礼しますから」

『もちろんですよ。どうか早く来てあげてください……』


 有村さんはそう言うと自分から電話を切り、私は賢人の命に別状はなさそうと知って安心しつつも混乱した頭のまま急いで私服に着替えた。


 済生会如月病院は畿内医大病院とは違って研修医をはじめとする職員は病院が指定した社宅に入居することになっていて、賢人が暮らすワンルームアパートの一室は病院の社宅扱いなので家賃は月数万円で済んでいると聞いていた。



 賢人の消化器外科研修が始まってから彼とは直接会っていなかったけど、やはり仕事のストレスを無理に我慢していたのだろう。


 彼はまた休職することになるかも知れないけど今はそんなことより賢人のそばにいてあげたいと思って、私はJRの電車に飛び乗って賢人の下宿に急いだ。



 そして合鍵で賢人の自宅のドアを蹴破るように開け、玄関で慌てて靴を脱ぐとワンルームの中に走り込んだ。



 その時。



「あ、ああぁ……館山先輩のすっごくでっかいよぉ……こんなに気持ちいいの初めてかも……」

「ごめんねテクニックがいまいちで。みっちゃんはこれでも喜んでくれるんだけど」


 賢人はセミダブルベッドの布団に潜って女の子と抱き合っていて、信じたくないことだけど賢人と女の子は2人とも全裸だった。


 私の表情はその光景を見た瞬間に凍りついて、いつも持ち歩いているバッグをワンルームの床に取り落とした。



「あ、な、何……」

「館山先輩ー、もっと美奈子みなこを愛してください~。彼女さんなんかより私の方がずっと優しくてかわいいでしょう?」

「うん、そうかもねー。ってみっちゃん!?」


 声が出ない。一言も意味のある言葉を発声できない。


 女の子はワンルームの床に立ち尽くしたまま固まっている私に振り向くとにやりと笑って、ようやく私が来たことに気づいた賢人はベッドの上で驚愕の表情を浮かべて凍りついた。



「何……してるの……?」

「頭のいい女医さんは見たら分かるでしょう、浮気いちゃらぶセックスですよ~。ね、館山先輩?」

「みっちゃん、こ、これはその……」


 今更何を言い訳しようというのか。


 この根性が軟弱な最低の男は、今この段階になって私に何を弁解しようというのか。



「ふざけないで……」

「や~ん、こんな所で暴力振るうなんてだめですよぉ、助けて館山先輩っ……!!」


 狭いワンルームをゆっくりと歩いてセミダブルベッドに近づくと、私は目の前にいる下劣な看護師の顔を握り拳で殴りつけた。


 ベッドから身を起こした状態で顔面を殴打された有村は上半身をワンルームの壁に叩きつけられ、その衝撃で開いた口内から鮮血がベッドの上に飛散した。



「死ねっ!!」

「あぐあっ!!」


 そして目の前で浮気相手が殴打されて怯えていた賢人の顔面に正面から拳を叩き込むと、私はワンルームの床に落としていたバッグを拾って昏倒している2人に背を向けた。



 あの狭苦しい住宅に足を踏み入れることは今後二度とないだろうと確信して、私は夜の如月の街を無言で歩き続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る