第2話 森の契約者
月明かりの下、その女性は――エルフは、毅然として魔物の群れと対峙していた。
フラグメントは、動かない体で、目の前の救世主を冷静に観測した。
(分析対象:エルフ族、女性。アルセリアの『叡智の欠片』より生まれた種族。…魔物と対話している?)
彼女は、狼たちの前に臆することなく立ち、懐から小さな「角笛」のようなものを取り出すと、短く奏でた。
狼たちのリーダーが、不満そうに喉を鳴らしたが、やがて彼女に従い、群れ全体に撤退の合図を送った。
狼の群れは、フラグメントというご馳走に未練を残しながらも、霧と共に森の奥へと消えていった。
「…ふぅ。危なかったわね」
彼女は、泥の中に転がる彼に近づき、その顔を覗き込んだ。
「あなた、一体何者? ただの石ころじゃないでしょう? ミスト・フェンリルたちが、あんなに興奮するなんて…」
(…分析。彼女は『契約』により、高ランクの魔物を退けた。この森における、高い生存能力と交渉技術を有する個体と判断する)
フラグメントは、このエルフが、自身の目的のために最も合理的な「協力者」候補であると判断した。
「…私は、フラグメント。創造神アルセリア様のゴーレムです」
「――アルセリア様?」
彼女の緑色の瞳が、驚きに見開かれた。
それは、エルフ族が神話の中でしか聞いたことのない、創造神の御名だった。
「あなたが…神話の存在? 一万年前の?」
彼女は膝をつき、彼と視線を合わせた。
「その魔力(ちから)…いえ、あなたの『言葉』は、本物みたいね。でも、なぜあんな魔物の群れに…」
「…飛べません」
彼は、淡々と事実を告げた。
「一万年前のように飛べず、墜落した。魔力の抑制も、今は困難です」
「…なるほどね」
彼女はすべてを察したようだった。
神話の存在が、信じられないほど無力な状態で、森のど真ん中に落ちてきた、と。
彼女の瞳が、エルフ族特有の強い「知的好奇心」で輝き始めた。
これほどの「知識の塊」が、目の前に転がっているのだから。
「私はフィリア。この森の巡視兵よ。
あなた、このままじゃ、次の魔物に食べられちゃうわよ」
彼女は、そっと手のひらを差し出した。
「取引しましょう、フラグメント様。
私はあなたを、森の外縁…人族の街の近くまで、安全に連れて行ってあげる。その代わり」
フィリアは、悪戯っぽく笑った。
「あなたの知っている『一万年前の物語』…『原初の系譜』について、その対価として、私に教えてくれる?」
(分析:『知識』を対価とする要求。
エルフ族の特性に合致する。
合理的判断として、最適解と推奨する)
「…承知しました。フィリア。
あなたの護衛と、私の知識を交換しましょう」
彼は、泥にまみれた小さな体を動かし、フィリアの温かい手のひらに乗った。
「交渉成立ね。
よろしく、小さな賢者様」
フィリアは彼を、埃を払ってから、自らの革製のショルダーガード(肩当て)の上に乗せた。
「でも、その前に」
フィリアは、森の外縁とは逆の、森の奥深くへと視線を向けた。
「私は森の巡視兵。
あなたのような『神話の存在』を発見した以上、まず都市アイテルの森長(エルダー)に報告する義務があるのよ」
彼女の声から、先ほどまでの弾むような響きが消えていた。
(…分析。
フィリアの心拍数、わずかに上昇。発汗、微増)
彼女は「義務」と言った。
だが、その横顔には、任務への忠実さよりも、何か「触れてはならないもの」に触れに行くような、微かな緊張と怯えが張り付いていた。
奥地から吹き抜けてきた風が、フィリアのプラチナブロンドの髪を揺らす。
その風には、一万年の間、何一つ変わることなく澱(よど)み続けた、古びた書物のような匂いが混じっていた。
「行きましょう、フラグメント」
彼女は、闇の奥へと足を踏み入れた。
まるで、自ら鳥籠の中へと戻っていく小鳥のように。
彼の核(コア)の奥底で、未知のプログラムが、
チリ、と小さく警告音を鳴らした気がした。
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