番外編4 「借り物の椅子」に座る誰かへ
机の引き出しの一番奥に、まだ少し余白のある帳面が一冊ある。
倉庫の帳簿でもなく、旗の記録でもなく──
“借り物の椅子”に座った日のことだけを、こっそり書いてきた帳面だ。
◇ ◇ ◇
その帳面を開いたのは、とある静かな雪の夜だった。
暖炉の火がぱちぱちと音を立て、
寝台の向こうではエリスがすやすやと寝息を立てている。
エドガー様は、まだ執務室だ。
「もう少し書類を片付ける」と言って、ハロルドを連れて出ていった。
(少しだけ、昔のことを書いてもいいかしら)
ふと、そんな気分になった。
ペンを取り、帳面の新しいページを開く。
そこには何も書かれていない。
けれど、インクの匂いが、あの日の緊張を呼び覚ます。
“契約妻として、この家に連れてこられた日のこと”──。
わたしは、最初の一行を考えて、少し笑ってしまった。
『親愛なる、わたしの知らない誰かへ。』
見たこともない誰かに向かって、手紙を書くような気持ちだった。
『あなたがこの手紙を読むころ、
ラドクリフに“借り物の椅子”が残っているかどうか、わたしには分かりません。
でも、もし──
“家の都合で契約妻としてここに来た”誰かが、
この屋敷のどこかで震えながら椅子に座っているのなら。
その人に、少しだけ話してみたいことがあります。』
ペン先が、するすると紙の上を滑っていく。
『わたしも最初は、自分を“借り物”だと思っていました。
王都の家から、ラドクリフへ送られてきた契約妻。
書類の上では、一年だけの妻。
“用が済めば、返される椅子に座る人”。
それが、わたしだと思っていたのです。』
あの日の緊張でつま先まで固まっていた感覚が、蘇る。
『だから、最初の冬はとても怖かった。
この椅子に座るのは、自分で決めたわけではない。
でも、座ってしまったからには、椅子ごと返されるかもしれない。
“借り物”のまま一年を過ごして、
“ありがとう、さようなら”と言われるのが怖くてたまりませんでした。』
文字を追いながら、胸の奥が少し熱くなる。
『もし、あなたもそうなら──
“怖いです”と、まず誰かに言ってみてください。』
ペン先を止めて、しばらく考え込む。
誰に言えばいいのか分からなかったあの頃。
父にも、王城にも、誰にも言えなかった言葉。
でも、ラドクリフでは違った。
『倉庫の帳簿の前でも、
用水路の水音を聞きながらでも、
“怖がりながら考える係”であることを隠さなくていい場所が、この屋敷にはあります。
エドガー様は、そんなわたしの怖さを、“弱さ”ではなく“仕事”として扱ってくれました。』
読み返してみて、少し照れくさくなる。
(本人が読んだら、きっと眉をひそめるでしょうね)
『もし、あなたが座っている椅子が“借り物”だと感じられるなら──
その椅子に座っているあいだだけでも、この家の冬を一緒に数えてみてください。
倉庫の“怖がり線”を一緒に見て、
門の下で“おかえりなさい”を一緒に言って、
用水路の氷を一緒に砕いて。
それを一年繰り返したあとで、もう一度、自分に聞いてみるのです。
“わたしは、ここに居たいかどうか”と。』
“ここに居たいか”と、
初めて自分に問いかけた夜のことを思い出す。
『家のためにここにいるのか。
契約のためにここにいるのか。
それとも、──自分のために、ここにいたいのか。
その答えは、きっと一年目には見つからないかもしれません。
わたしも、二度目の冬を越すまで、自分の答えを口にできませんでした。』
目頭が少し熱くなるのを感じながら、ペンを進める。
『でも、もし。
“ここに居たい”と、自分の言葉で言えたとき。
そのとき、あなたはもう“借り物の椅子”には座っていません。
その椅子は、“あなたがここで冬を越すための椅子”になります。』
手が、ほんの少し震えた。
『もちろん、その選択には怖さもついてきます。
家の期待を裏切るかもしれない怖さ。
知らない土地で生きていく怖さ。
隣にいる人を信じる怖さ。
“怖がりながら考える係”の仕事は、その先も続いていきます。』
暖炉の火が、ぱちんと音を立てた。
『だからこそ、同じように怖がっている誰かが、
あなたの椅子の隣にもきっといます。
“ここで冬を越したい”と、
あなたと同じように考えている誰かが。
その人と一緒に、少しずつ線を引き直していけるのなら──
“借り物の椅子”は、いつのまにか“居場所”に変わっています。』
ペン先を止め、最後の一文を考える。
『どうか、怖がっている自分を、笑わないであげてください。
怖がりながら考えた人は、“どこが寒いか”を誰よりも知っています。
その人が座る椅子の周りには、きっと、火を焚いてくれる人が集まります。
──ラドクリフで、借り物の椅子から始めて、
“ここに居たい”と選んだ女より。』
ペンを置き、ふう、と息を吐いた。
「……さて、これは誰に渡しましょうか」
声に出してみると、少し可笑しくなる。
この手紙を読む“誰か”は、
もしかしたらこの屋敷には現れないかもしれない。
でも、それでもいい。
引き出しをそっと閉じながら、わたしは心の中でつぶやいた。
──いつか、本当に“借り物の椅子”に座る誰かが現れたら。
そのときは、この帳面ごと手渡そう。
“ここに居たいかどうか”を、自分で決めるための材料として。
暖炉の火が少し小さくなったので、
新しい薪をひとつくべる。
ぱち、と火の粉が弾けた。
“借り物の椅子”に座っていた頃の自分が、
その火の向こう側で、少しだけ笑った気がした。
──怖がりながら考える女の冬は、
これからも、きっと何度も巡ってくる。
でも、そのたびに。
“ここが、わたしの椅子だ”と言える自分でいたいと、
静かに思いながら、ページを閉じた。
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