第26章



「“二年目の色”ってね、冬の色じゃなくてもいいと思うの」

エリス様の一言で、わたしの頭の中の“冬のイメージ”は、少しだけ塗り替えられた。


◇ ◇ ◇


執務室から自室に戻ると、エリス様は毛糸の籠を抱えたまま、床にぺたりと座り込んでいた。

周りには、色とりどりの毛糸玉が転がっている。

赤、橙、深い緑、淡い紫──まるで旗の縮小版のようだ。


「お仕事、おわった?」


顔を上げたエリス様の目の下には、ほんの少しだけ毛糸の線がついていた。

どうやら、真剣になりすぎて手で頬を擦ったらしい。


「ええ。

“冬の前に決めなくてはいけないこと”が増えましたわ」


「また、怖いお仕事?」


「うーん……」


少しだけ考えてから、素直に頷く。


「そうですね。

少し怖くて、でもちゃんと考えたいお仕事です」


「じゃあ、クッキーのお姉さんの仕事だね!」


エリス様は、当たり前のように言った。


「怖がりながら考える係、でしょ?」


「ええ。

最近は、少し肩書きが増えたみたいですけれど」


「なに? 教えて!」


「“一年の契約について考える係”だそうです」


そう言うと、エリス様は首をかしげた。


「いちねん、けいやく……。

あ、あれ? お父さまとクッキーのお姉さんが、最初に決めたやつ?」


「よく覚えていましたわね」


「だって、聞いちゃったんだもん。

“一年だけの奥方”って、台所の人たちが言ってたの」


ドキリとした。

子どもだから分からないだろう、と思っていた大人たちの油断は、やはり甘かったらしい。


「……いやな言い方、だと思いましたか?」


慎重に尋ねると、エリス様はしばらく唇をへの字にして、それから答えた。


「うーん……よく分かんなかったけど、“一年だけのお母さん”みたいで、ちょっとヤダった」


胸の奥を、ぎゅっと誰かに掴まれたみたいに感じた。


「ごめんなさい」


思わず、頭を下げそうになる。

けれど、寸前で踏みとどまった。

“謝るためだけに”一年を過ごしてきたわけではないことを、今のわたしは知っている。


「……エリス様。

あのとき、誰にも言えませんでしたか?」


「うん」


彼女は素直に頷く。


「だって、もし言ったら、クッキーのお姉さんがいなくなっちゃうかもしれないって、思ったの」


「いなく、なる?」


「だって、最初に来たとき、お父さまが“一年だけだ”って言ってたもん。

“来年の冬には、もういないかもしれない”って、思っちゃった」


そう言って、彼女は毛糸玉をぎゅっと握りしめた。


「でもね、冬が来て、春になって、夏になって。

旗も一緒に作って、倉庫にも一緒に行って。

そのたびに、“あれ? 本当に一年だけ?”って分かんなくなってきたの」


胸の奥が、じん、と熱くなる。


エドガー様も、父も、王都も。

大人たちは“契約”や“条文”で一年を測っていた。

この子は、“季節”と“日々となにを一緒にしたか”で一年を測っていたのだ。


「エリス様」


わたしは、彼女の前に膝をついた。


「一年の契約のお話を、してもいいでしょうか」


「こわいやつ?」


「少し怖いです。

でも、お話したいです」


エリス様は、ほんの少し考え、それから大きく頷いた。


「うん。

クッキーのお姉さんが“怖いけど考えたい”って言うときは、ちゃんと聞いた方がいいって知ってるもん」


その信頼に、胸が痛いくらいのあたたかさが混じる。


「ありがとう」


わたしは、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「わたしとお父さまは、王都とラドクリフのあいだに“一年だけの約束”をしました」


なるべく単純な言葉を選ぶ。


「“一年のあいだ、わたしはここで暮らします。

そのあいだ、エリス様やみなさんと一緒に冬を越して、日々のことをお手伝いします。

でも、一年が終わるころに、もう一度、どうするか考えます”という約束です」


エリス様は、真剣な顔で聞いている。


「その約束の“紙の方”は、もうすぐ終わります」


「かみのほう?」


「ええ。

王都のえらい人たちは、“紙に書いてある約束”しか見えませんから」


少しだけ冗談めかして言うと、エリス様の眉がぴくりと動いた。


「ふーん。

じゃあ、“紙に書いてない約束”は、見えないんだ」


「そうかもしれません」


「じゃあ、クッキーのお姉さんとわたしの“クッキー約束”は、ぜんぜん見えないね」


「クッキー約束?」


「“クッキーを焼くときは、最初の一枚はエリスの分ね”ってやつ!」


ああ、そんな約束も、しましたっけ。

思い出して、思わず笑ってしまう。


「それは、王都の誰にも見えませんね」


「見えなくていい。

だって、それはわたしたちの約束だもん」


エリス様は、胸を張った。


「一年の契約はおわるの?

“紙の約束”は」


「はい。

紙の上では、もうすぐ終わります」


「じゃあ──」


彼女は、毛糸玉をぎゅっと握り直した。


「“クッキー約束”は、終わっちゃうの?」


その問いは、王都のどんな法務局よりも、まっすぐで容赦がなかった。


「……終わらせたく、ありません」


迷わず答えが出た。


「紙に書いてある約束は終わっても、

わたしは、エリス様と“最初の一枚を焼く約束”を続けたいです」


「じゃあ、ここにいてくれる?」


小さな声だった。


「“一年のおくさま”じゃなくても?」


喉の奥が、きゅっと痛む。


「“一年のおくさま”ではなくても、ですか?」


「うん」


エリス様は、少し唇を噛んだ。


「……お父さまね、たまに夜、一人で星を見てるの」


「星を?」


「うん。

お母さまがいた頃も、そうしてたって、ハンナが言ってた」


彼女は毛糸玉をいじりながら続ける。


「でもね、クッキーのお姉さんがきてから、ちょっとだけ顔が違うの。

“星を見ている”っていうより、“どこかを見てる”みたいな顔」


それは、わたしの知らないエドガー様だ。

冬の夜の倉庫で見せた顔とも、視察団の前で見せた顔とも違う顔。


「わたし、最初はイヤだった」


エリス様は、ぽつりと言った。


「お母さまのことを忘れちゃうんじゃないかって、怖かったから。

クッキーのお姉さんがきたら、“ほんとうのお母さま”がいなくなっちゃうみたいで、イヤだった」


「……ごめんなさい」


今度は、素直に謝る。


「その怖さは、わたしが来たからこそ生まれてしまったものですね」


「ううん。

クッキーのお姉さんのせいじゃないの」


彼女は首を振った。


「だって、冬に一緒に旗を作って、

春に一緒に畑を見て、

夏に一緒に川で足を冷やして──」


言いながら、顔が少しずつ明るくなっていく。


「そのたびに、“あ、これをお母さまに見せたかったな”って思う自分と、

“クッキーのお姉さんと一緒にできてよかった”って思う自分が、両方いるって分かったの」


その言葉に、胸の奥が熱くなった。


「……両方、ですか」


「うん。

どっちかだけじゃなくて、両方」


エリス様は、毛糸玉をひとつ私に差し出した。

深い、熟した果実のような赤。


「だから、“二年目の色”も、ひとつだけじゃなくていいと思うの」


「ひとつだけじゃない?」


「うん。

“冬を越すための色”と、“クッキーのお姉さんがいてくれてうれしい色”とか。

“お母さまを忘れない色”と、“新しい今日の色”とか」


幼い言葉なのに、言っていることは驚くほど本質的だった。


「……エリス様」


わたしは、差し出された毛糸玉を手に取った。


「“お母さま”の色は、どんな色でしたか」


「うーん」


エリス様は、真剣な顔で毛糸の籠を覗き込んだ。


「春みたいな緑かな。

あったかくて、やわらかくて、でもちょっと泣きそうになる緑」


「春の緑……」


「クッキーのお姉さんはね、

“冬の光”って感じ」


「冬の、光?」


「うん。

寒いのに、ちゃんと窓の外を見てて、

怖いのに、倉庫に行こうって言ってくれる光」


その言い方に、思わず笑いそうになって、ぐっと堪えた。


「……とても、もったいない言葉ですわね」


「もったいなくないよ」


エリス様は、きっぱりと言う。


「だから、“二年目の色”は、

“お母さまの色”と“冬の光の色”を混ぜたやつがいいなって思うの」


言いながら、彼女は赤と緑の毛糸玉を両手に持ち、ぐるぐると指を絡ませる。


「ねえ、クッキーのお姉さん」


顔を上げた目は、少しだけ揺れていた。


「“一年のおくさま”じゃなくなったあとも──

ここにいてくれる?」


問い直された言葉は、先ほどよりもずっと静かで、ずっと重かった。


「“クッキーのお姉さん”のままでも、

なんか別の呼び方でもいいから。

冬を一緒に越してくれる?」


わたしは、赤と緑の毛糸玉を見つめ、それから彼女に視線を戻した。


――契約か、約束か。


王都の紙の上の言葉ではなく、この子の言葉に、どう応えたいのか。


「……ここに、いたいです」


自然に、言葉が出た。


「“一年のおくさま”だからではなくて。

エリス様と、一緒に冬を越したいから」


エリス様の顔が、ぱっと明るくなる。


「じゃあ、“お母さん”って呼んでもいい?」


喉の奥で、何かが引っかかった。

同時に、実の母の面影と、エドガー様の亡くなった奥方への想いが、胸の中でざわめく。


「……それは」


言葉に詰まりかけた瞬間、エリス様は自分で首を振った。


「ううん。

今のはナシ!」


「え?」


「“お母さん”って呼びたい日が来たら、そのときに考える」


彼女は、自分で言いながら笑った。


「今はまだ、“クッキーのお姉さん”がいい。

でも、“一年だけのクッキーのお姉さん”はイヤ」


胸の奥が、じんと熱くなった。


「……それなら、わたしも同じです」


「おなじ?」


「“一年だけのエリス様のところにいる女”でいたくありません。

“冬を怖がりながら考える係”として、もう少しここに座っていたいです」


エリス様は、満足そうに頷いた。


「じゃあ、王都に“紙の約束おわり!”って言ったあとも、

ここにいてね」


「王都には、“紙は終わりましたが、わたしたちは続きます”とお伝えしておきます」


「ふふ、それ、なんかかっこいい!」


二人で笑ったあと、彼女が毛糸の籠を押し出してきた。


「じゃあ、“二年目の色”決めよ!

冬の光の色と、お母さまの春の緑と──

あとは、“クッキー約束”の色も混ぜたい!」


「“クッキー約束”の色?」


「うん。

クッキーが焼けたときの、あったかい茶色!」


彼女が得意げに指さした先には、確かに、おいしそうな焼き菓子の色の毛糸玉があった。


――春の緑。

冬の光。

焼きたてのクッキーの茶色。


どれも、この一年でわたしが好きになった色だ。


「……とても、欲張りな旗になりそうですわね」


「いいの!

ラドクリフは“欲張り冬越し領地”だから!」


その宣言に、思わず吹き出してしまった。


欲張り。

たしかに、今のわたしは、欲張りなのかもしれない。


王都で守られていた過去も、

ホイットロックの娘であることも、

ラドクリフで得た居場所も、

エリス様との日々も。


どれも手放したくないと願っている。


「……分かりました」


わたしは、赤、緑、茶色の毛糸玉を並べた。


「“二年目の色”は、これでいきましょう」


「やった!」


エリス様が嬉しそうに跳ねる。


「お父さまにも、見せに行こう!」


「そうですね。

この“欲張りの色”を見せて、少し困らせて差し上げましょうか」


そう言うと、エリス様はきょとんとしたあと、くすりと笑った。


「クッキーのお姉さん、やっぱりちょっと悪役っぽいときある」


「それは、誉め言葉として受け取っておきますわ」


笑い合いながら、毛糸の籠を抱えて立ち上がる。


――王都からは、紙の上に三つの選択肢が送られてきた。


一年だけで終わらせるか。

預かり物として続けるか。

正式な婚姻とするか。


ここラドクリフでは、違う形の選択肢が生まれている。


春の緑と、冬の光と、クッキーの茶色。

“二年目の色”として、何を旗に縫い足すのか。


それはきっと、わたしたちがどんな一年の続き方を選ぶのか──

そのささやかな宣言になるのだろう。


「……欲張りでも、いいですよね」


誰にともなく呟くと、エリス様が振り返った。


「いいよ!

だって、冬を越すには、いっぱいあったかいものがいるもん!」


その言葉に、胸の奥で何かが静かにほどけていく。


――そうだ。


冬を越すには、少しくらい欲張りでいい。

居場所も、名前も、約束も。


そのすべてを抱えたまま、

わたしはこの土地で“二年目の冬”を迎える準備を始めるのだ。

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