第16章
王都からの手紙と耳飾りが届いてから、季節は驚くほどまっすぐに春へと傾いていった。
雪はすっかり姿を消し、ラドクリフの丘はやわらかな緑に覆われている。
朝、窓を開ければ、冷たい空気の中にもほんのりと土と草の匂いが混ざっていた。
「クッキーのお姉さん、みて!」
エリス様が両腕いっぱいに抱えているのは、色とりどりの野の花だった。
黄色、白、淡い紫。どれも庭師が整えた花壇のものではなく、丘のあちこちで勝手に咲いた小さな花たちだ。
「わあ、たくさん摘んできたのね」
「きょうは、テーブルにも“春”をのせるの!」
そう言って、彼女は誇らしげに胸を張った。
雪どけ祭りの旗に刺した花と、丘の上の本物の花。
エリス様の中では、全部ひとまとめに「ラドクリフの春」になっているらしい。
「じゃあ、花瓶を持ってくるわ。
お昼のテーブルに飾りましょう」
「うん! お父さまのところにも、ちょっとわけてあげる」
そう言って駆けていく背中を見送りながら、私はそっと耳に触れた。
まだ箱から出していない、淡い青の耳飾り。
“ホイットロック家の娘”としての印。
けれど同時に、“あの家を出てここへ来た私”の証でもある。
――一年後、この耳飾りをつけてどこに立つのかは、まだ決めなくていい。
その猶予があるだけで、胸の重さはずいぶん違った。
◇ ◇ ◇
春が本格的になると、館には別の種類の客人が増え始めた。
王都からの高位貴族ではなく、旅の商人たちだ。
「雪が深いあいだは、ここまで来るのを嫌がるんですよ」
グレゴリーが、楽しそうに肩をすくめる。
「だから春になると、“待ってました”とばかりに集まってくる。
辺境で珍しい品を見つければ、王都で高く売れますからな」
その言い方に、どこか懐かしい感覚を覚えた。
王都では、逆のことがよく囁かれていたからだ。
――辺境の屋敷に嫁ぐなんて、王都での席を失った人の行き場所よ。
あのとき耳にしたひそひそ声が、ふっと頭をよぎる。
「奥様?」
「え? あ、いえ」
グレゴリーの顔を見て、我に返った。
「商人たちの相手、というのは……わたしにも手伝えるでしょうか?」
「もちろんですとも。
辺境伯様おひとりでは目が行き届かぬところもありますからな」
そう言って、彼は帳簿の束の一部を私に差し出した。
「布地や雑貨の好みは、奥様の方が詳しいでしょう。
村の娘たちも、奥様の真似をしたいと言っておりますし」
「真似、ですか?」
思わず聞き返すと、グレゴリーは小さく目を細める。
「ええ。
“奥様みたいに、色で季節を着たい”と」
雪どけ祭りの旗やドレスの刺繍のことを思い出し、じんわりと頬が熱くなった。
「……それなら、わたしの“わがまま”が少しは役に立っているのかもしれませんね」
「“わがまま”とおっしゃるのなら、もっと増やしていただきたいくらいですよ」
そんな冗談めいたやりとりを交わしながら、私は商人たちの待つ応接間へ向かった。
◇ ◇ ◇
「おお、こちらがラドクリフの“新しい奥方様”でいらっしゃるか」
最初に声をかけてきたのは、腹の出た中年の商人だった。
人懐こい笑みを浮かべているが、その目はしっかりとこちらを値踏みしている。
「リディアと申します。
遠いところをお越しいただき、ありがとうございます」
丁寧に挨拶すると、彼は目を丸くした。
「まさか、本当に王都言葉のご令嬢とは。
噂は聞いておりましたが……」
「噂?」
胸の奥がぴくりと反応したが、顔には出さないようにする。
「ええええ、王都の商会の連中がね。
“ホイットロック伯爵家の娘御が、辺境に契約で嫁いだ”って。
最初は誰も信じちゃいませんでしたが、こうして本物を拝見できるとは」
“本物”という言い方に、少しだけ苦笑が漏れた。
「噂というものは、いつの間にか一人歩きしていくものですね」
「いやいや、悪い意味ではありませんとも」
彼は慌てて両手を振った。
「むしろ、皆興味津々で。
“辺境に嫁いでどうやって暮らしているのか”“王都の娘にラドクリフの冬が耐えられるのか”と」
「……耐えられたように見えますか?」
思わず、意地悪な問い方をしてしまった。
商人は一瞬きょとんとしたが、それから大きく笑った。
「ええ、それはもう。
冬の間に痩せ細ってしまった顔ではありませんな。
よく食べて、よく笑って、“よく動いている”顔をしておられる」
その答え方に、少しだけ肩の力が抜ける。
「ありがとうございます。
それはきっと、ラドクリフのごはんが美味しいからでしょうね」
「はっはっは、それは大事なことですなあ」
笑い合いながらも、胸の奥では別のことを考えていた。
――王都での私は、“どう見えるか”ばかりを気にしていた。
頬のこけ具合、ドレスの流行、髪の艶。
全部、“誰にどう見られるか”のためのものだった。
今、商人が口にした「よく動いている顔」という言葉は、もっと別のものを見ている気がした。
「ところで、王都の噂話ついでに、ひとつ教えていただいてもよろしいでしょうか」
私がそう切り出すと、商人は目を細めた。
「どんなことで?」
「ホイットロックの名が、今どのように語られているのか。
差し支えない範囲で」
自分から尋ねるなんて、少し前の私には考えられないことだ。
でも、知らないまま怯えるのは、もう嫌だった。
「……正直に申し上げて?」
「ええ。むしろその方がありがたいです」
商人は顎に手を当て、少し考える。
「そうですな……一年前は、“娘御をうまく切り捨てた家”なんて陰口もありましたが」
「まあ」
思わず苦笑が漏れた。
「今は少し、風向きが違うようで」
「違う?」
「ええ。
“ホイットロック家の娘御は、辺境で一年の契約婚をしているらしい”という噂が広まってからは──」
彼は肩をすくめる。
「“帰ってきたときに、どんな女になっているか楽しみだ”なんて言う者もいる。
よくも悪くも、“王都の温室から外に出た娘”という見られ方をしているようです」
温室から外に出た娘。
かつて、自分では決して選べなかった言葉だ。
「ずいぶんと、勝手な楽しみ方ですね」
皮肉をこめて言うと、商人は苦笑した。
「王都の連中は、他人の人生で暇つぶしをするのが好きですからな。
ですが――」
そう言って、彼は少しだけ声を落とした。
「辺境まで足を運ぶような連中は、もう少し物の見方が違う」
「と、申しますと?」
「“一年もラドクリフで冬を越せた娘なら、王都に戻っても肝が据わっているだろう”と。
“いい取引相手になるかもしれない”とね」
取引相手。
政略結婚の“駒”ではなく、ひとつの“相手”として。
「……そういう見方も、あるのですね」
心のどこかで、くすぐったいような気持ちになる。
「悪くない噂話も、少しくらいはあると信じてくださって結構です」
商人はにやりと笑った。
「少なくとも、今の奥様を見て、“切り捨てられた娘”とは誰も思わないでしょうよ」
その言葉に、胸の奥がじんと熱くなった。
――切り捨てられた、だけの娘。
それが、一年前の私自身が自分につけていた名前だったのだと思う。
でも今は、違う何かになりつつある。
まだはっきりした名はわからないけれど、少なくとも“ここで冬を越した人”という印は刻まれている。
◇ ◇ ◇
商人たちとのやり取りがひと段落したころ、廊下でエドガー様とすれ違った。
彼も別の商人の話を聞いていたらしく、手には新しい地図が握られている。
「どうだった」
「布地も香辛料も、よい品を持ってきていましたわ。
それに……」
言いかけて、少し躊躇する。
けれど、隠しておく理由もない。
「王都の噂話も、少し聞きました」
「そうか」
彼は足を止め、私の顔をうかがう。
「傷つく話だったか?」
「半分は」
正直に答えると、彼の眉がわずかに寄った。
「“切り捨てられた娘”という言い方も、まだされているようです。
でも──」
私はそっと胸に手を当てた。
「もう半分は、そうではありませんでした」
「……聞かせてくれ」
「“温室から外に出た娘”とか、“ラドクリフで冬を越した女”とか。
もう、ただの被害者ではなく、“どんなふうに変わるのか”を見られていると」
それが良いことか悪いことかは、まだ分からない。
でも――少なくとも、“可哀想な娘”だけではない。
「わたしも思うのです」
ふと口が滑る。
「たしかに、あの婚約破棄は……
今でも簡単には許せません。
わたしを“駒”としてしか見ていなかったのだと思うと」
喉の奥が少し熱くなった。
けれど、言葉を飲み込まなかった。
「でも、あの夜がなければ、わたしはここへ来ていなかった。
ラドクリフの冬も、エリス様も、あなたも知らないままだった」
「……リディア」
名前を呼ぶ声が、やわらかく揺れる。
「だからと言って、“全部帳消しにして感謝します”とは言えません。
あれはあれで、傷だったから」
「当然だ」
即座に返されたそのひとことに、肩の力が抜ける。
「でも──」
私は、窓の外に見える緑の丘を見た。
「“あの夜があったからこそ、今ここにいる自分”を、わたしは嫌いになりたくないのです」
あのとき泣き叫んでいた自分ごと、過去を否定してしまったら。
ここまで繋いできた道もすべて、意味がなくなってしまう気がするから。
「わがまま、でしょうか」
問うと、エドガー様は少しだけ微笑んだ。
「それを“わがまま”と言うなら、世界中がもっとわがままでいい」
「まあ」
思わず笑ってしまう。
「今のお前の言葉は、“自分の傷も未来も、自分のものだ”と言ったのと同じだ。
それを誰かに譲る必要はない」
“自分のもの”。
王都では、一度も許されなかった感覚だ。
家のため、家の名のため。
私の人生は、いつも“誰かのもの”として語られてきた。
「……ここに来てから、やっと少しだけ、“自分の人生”というものを考えられるようになりました」
それを口にすると、彼は小さく頷いた。
「一年を全うすると決めたのも、お前だ。
王都の噂や伯爵家の都合ではなく」
「ええ。
そして一年後、“ここにいたい”と言うかどうかも、わたしが決めます」
その言葉に、彼はほんの少しだけ表情を引き締めた。
「……そのとき、私の側に立ってほしいと望むのは、
やはり“図々しい”だろうか」
「図々しいかどうかは、わたしが決めます」
自分でも驚くほど、自然にそう返していた。
彼の目が、一瞬だけ見開かれる。
「……そうか」
次の瞬間、わずかに笑みがこぼれた。
「なら、一年のあいだに、少しでも“図々しい”と言われないようにしておこう」
「どういう意味でしょう」
「“そこにいてほしい”と思われる男になっておきたい、という意味だ」
真顔で告げられて、息を呑んだ。
喉の奥が熱くなり、視界が一瞬だけ滲む。
「……今のでもう、十分図々しいと思います」
やっとの思いでそう言うと、彼は珍しく肩を震わせて笑った。
「なら、もう開き直るしかないな」
そんな冗談を言い合えるほどに、私たちの距離は変わってしまっていた。
“契約の妻”と“辺境伯”という肩書きだけでは語れない、何か別のものがそこにある。
廊下の窓から、風に揺れる旗が見える。
黄と緑の小さな花は、相変わらずささやかだ。
でも、そのささやかな色が、冬の景色を確かに変えていた。
――あの夜に、全部を奪われたわけじゃない。
今さらのように、そう思えた。
奪われたものもある。
傷も残っている。
でも、その傷を抱えたまま、それでも“ここにいたい”と願う自分がいる。
それなら、きっと大丈夫だ。
いつか一年の終わりに、胸を張って言えるはずだ。
――これは、私の選んだ物語です、と。
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