常住坐臥、張力と聴力に問題あり
綾香が用意してくれたケーキと紅茶が、テーブルに並べられている。普段なら歓声を上げるところだけれど、状況が状況だった。これは一体どういうことだろう。豆美の知らないところで、渚は綾香のピアノ教室のアシスタントをしているらしい。しかも、いつからしているのかは知らないけれど、高校二年の冬になってもそれを続けている。豆美以外の、例えば母はこのことを知っているのだろうか。でも、ああしてわざわざ豆美とお菓子の交渉をしてまで隠し通そうとしているのだから、きっと家族の誰にも秘密にしているのだろう。
「なんで来たの?つけて来たって……なんでまたそんなこと」低いトーンで渚が切り出した。一向に豆美の方を見ようとしない。その態度にはむかついたけれど、反論のしようがなかった。渚の言い分は至極真っ当なもののように思えるからだ。これは明らかな藪蛇だったろうか。
「お姉ちゃんがこそこそしてるんだから、どうしたって興味は出ちゃうでしょうよ」優雅に紅茶のカップを手にした綾香が言う。どうやら豆美に助け船を出してくれたものらしかった。
「お菓子あげるから黙っててって、それしか言われてないし」
「……それはさ、知られたくないことだからこれ以上詮索するようなこともしないでねってそういうことでしょう?」
「そんなの聞いてない」
「あんたそんなんだからいつも国語のテスト赤点なのよ」綾香のマネのつもりなのか、渚が紅茶のカップを手に取りながらそう言った。
私は一体全体何をそんなに怒られているのだろう。そんなに悪いことをしただろうか。第一、そんな風に言ってもないことをあたかも事実みたいに並べて、こいつは私のことを超能力者か何かと勘違いしてるんじゃないか。
どうしようもない苛立ちが、豆美の心のうちで沸々と沸き立っていた。
何よりも許せないのは、こうして姉と綾香とが、二人だけの秘密を作っていたことだった。
姉みたいに慕って、姉になってくれればいいとすら思っていた人に裏切られた上に、その人とつながっていたのは、誰あろう本物の姉の方とだったのだ。
「……黙っててごめんね。でも、それが渚との約束だったの。渚はね……、歌手になろうとしているのよ」
ぽつりぽつりと、綾香はそれを口にした。
「かしゅ?」オウム返しに、豆美は返事をする。かしゅ?カシュッテナンダッケ?
唐突に投げ渡されたあまりにも縁遠い世界の言葉の意味を、解釈するので頭は精一杯だった。
「渚が毎日必死こいて勉強しているのは豆美も知っているでしょう?でもね、それはあくまでも歌手になれなかったときの保険でしかない。渚は歌手になりたくて、だからこうして時々家を抜け出して、私のところにピアノと歌のレッスンに来ているのよ」
「……いつから?」
「ちょうど去年の冬くらいからかな」今までずっと黙りこくっていた渚がそう言った。
「勉強も頑張れなくっちゃ、レッスンをするのはなしっていうのが、私と綾香さんとの条件だったの」
「なんで私やお母さんたちには内緒なの?」
「それは……恥ずかしいのももちろんだけど、あの人たちが私に全幅の信頼と期待を寄せているのは確かだからね」
「こら」渚がニヒルな笑みを浮かべてそう言うと、すかさず綾香がぴしゃりとたしなめた。
豆美は、すぐには絢香が叱った理由を理解することができなかった。でも、少し考えれば、あれはつまるところ、出来損ないの妹とできる姉とを比べたときに、家族のみんなが期待をするのは当然姉の方になって、その姉が歌手だかミュージシャンだか将来の不確かな夢を追いかけるなんて言い出せるはずもないという話なのだということに気づかされた。
……つまりは、自分が姉の夢の足枷になっているのだ。
「あーそう。じゃあ頑張んなよ」豆美はそう言って、すっくと立ち上がった。そのまま部屋のドアへと向かおうとする。
「ちょ、ちょっと待って!」それをすかさず、渚が追い止めた。こういう引き留め役というか、仲裁役は絢香のやるものと思っていたので、豆美は少しばかり驚かされた。
「せめて私の歌を聴いてからにして」
本当は今すぐにでもこの部屋から出て行きたいところだったけれど、それを言う渚の表情は真剣そのもので、豆美は仕方なしに思い留まることにした。
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