春のイタリアン

蓮田蓮

春のイタリアン

 春の光がやわらかく街に降り注いでいた。夏が近づく気配を感じながら、汐海は以前から気になっていた話題のイタリアンレストランへ向かっていた。

 珍しく二連休が取れた平日の昼。次の乗務を気にせずに過ごせる貴重な休日だった。

 店の扉を開けると、オリーブオイルの香りと軽やかな音楽が迎えてくれる。席に案内され用意されたメニューを見ると、どれも美味しそうな料理が並んでいた。

 おすすめのグラスワインを頼み、季節の前菜とパスタをゆっくりと味わった。どの皿も丁寧で、どこか温かい。

「そういえば、車掌になってから酒を飲みに行く回数も減ったな」

 そんなことをふと思った。学生の頃の方が、気の合う仲間と飲み歩く事も多かった気がする。現在は、乗務前の厳しいアルコールチェックのため、乗務する前日は禁酒を貫いている。

 お陰で、おすすめのワインは爽やかで、とても美味しく感じた。


 やがて、最後に運ばれてきたのはチェリーのタルトとエスプレッソ。

艶やかな赤い果実を見つめながら、思わず微笑んだ。甘さ控えめのタルトが口に広がる。

「このドルチェだけでもテイクアウトしたいな」と思わずつぶやいていた。それぐらい、このチェリーのタルトは美味しかった。

 次は市川にこの店のことを教えてみよう。飲み会好きの中野や、グルメな佐伯先輩にも教えれば喜んでくれるかもしれない。



 ピロリ~ン、とスマホが鳴った。

画面を見ると、弟からのLINEだった。

 4歳年下の弟は都内で働いている。なかなか会えないが、時々こうして連絡をくれる。

「今日のランチは職場近くのイタリアンレストランに行った」メッセージの後に料理の写真が添えられていた。

 まるで示し合わせたようだ。似た兄弟だなと思う。

自分は料理の写真をあまり撮らないが、珍しくドルチェとエスプレッソを撮っていた。その一枚を返信に添えると、すぐに可愛らしいスタンプと返信が返ってきた。

「兄貴のドルチェも旨そうだね(^^)」弟も元気そうで、何よりだ。

「次に会えるのは、夏休み頃かな」そう思いながら、店を後にした。


 この後の予定は久しぶりに映画館で映画を見ようと思っていた。時計を確認すると上映時間まで少し余裕がある。

 通りを歩きながら、ウィンドウ越しにいくつかの店をのぞいてみる。

穏やかな午後の陽射しの中、汐海はふと、こんな過ごし方も悪くないと思った。ゆっくりと流れる時間が、春の休日をやさしく包んでいた。


【春のイタリアン ― 映画館の帰り道】

 映画館を出ると、外はすっかり夕暮れの色に染まっていた。ビルの隙間から差し込むオレンジ色の光が、街をやわらかく照らしている。

 上映していたのは、評判のヒューマンドラマ。派手な展開はなかったが、静かな余韻が胸に残った。少しだけ、誰かに感想を話したくなるような映画だった。

 映画館の近くのカフェから、焙煎した豆の香りが流れてくる。立ち寄ろうかと思ったが、さっきのエスプレッソの苦みがまだ残っていたのでやめた。

 代わりに、駅前の書店に寄って新刊コーナーをのぞく。鉄道雑誌の棚に、自分が所属する会社の記事が載っているのを見つけた。後輩たちの姿が写真に写っている。

「みんな頑張ってるな」そんな言葉が自然に口をついて出た。

 外に出ると、風が少し冷たくなっていた。昼間は上着を腕にかけていたのに、今はそれを羽織る。


 駅前の広場では、学生たちが楽しそうに写真を撮っている。その笑い声を聞きながら、ふと、自分も同じ年齢の頃を思い出した。

 仲間と終電ぎりぎりまで語り合った夜。帰り道の自販機で買った缶コーヒーの味。思えば、あの頃は毎日が少し眩しかった。


 ホームに着くと、夕方の列車がゆっくりと滑り込んできた。社内はほどよく空いていて、吊り広告がゆらゆらと揺れている。窓の外を流れる灯りを眺めながら、汐海は今日一日のことを思い返した。

 久しぶりに、何も気にせず過ごせた休み。美味しい料理、静かな映画、そして弟からのメッセージ。どれも心のどこかに温かく残っている。

 次の休日には、誰かをこのイタリアンレストランに誘ってみようか。

市川と行けば、仕事の話を抜きにしてゆっくり話せそうだ。中野や佐伯先輩を含めて、久しぶりに皆で集まるのも悪くない。

 停車していた列車が発車する。窓の外の夕暮れが、少しずつ夜の色に変わっていく。

 汐海は座席にもたれながら、小さく息をついた。

明日はまだ休みだ。次の乗務のことを気にせずに眠れる夜が、今夜はただ、嬉しかった。


【春のイタリアン ― 二日目の朝】

 カーテンの隙間から、柔らかな光が差し込んでいた。外ではまだ春の冷たい空気が残っているが、部屋の中は穏やかだった。

 時計を見ると、いつもより少し遅い時間。久しぶりに目覚ましをかけずに眠ったせいか、体の奥まで休息が染み込んでいるようだった。

 洗面を済ませ、コーヒーを淹れる。

以前、映画館の近くで買った豆を挽くと、部屋いっぱいに香ばしい匂いが広がった。マグカップを手に、ベランダに出る。

 遠くで電車の走行音が聞こえた。その音が日常へと戻る合図のように聞こえて、汐海は小さく笑った。

 昨日のイタリアンレストランで過ごした時間を思い返す。

グラスに注がれた白ワインの香り。季節の野菜と魚介を使った前菜とパスタの深い味わい。チェリーのタルトの控えめな甘さ。

 あの店の落ち着いた空気が、まだ心の奥に残っている。

ふと、弟から届いたLINEの写真をもう一度見て、

「似たような過ごし方をしてるな」と呟いた。

 コーヒーを飲み干すと、ふと誰かにこの店を勧めたくなったので、テーブルの上のスマホを手に取り、メッセージアプリを開く。

『昨日、前から気になっていたイタリアンのお店に行って来たんですが、とても良かったです。市川さん、甘いものがお好きでしたよね? ドルチェのチェリータルトが特に印象的で、すごく美味しかったですよ。』

 文章を打ってから、一度削除して、少しだけ言葉を整える。仕事の連絡でもないし、変に堅くなるのも違う。

『昨日、前から気になっていたイタリアンレストランに行ったんだけど、すごく良かった。市川さん、甘いもの好きだったよね?チェリーのタルトが絶品だった。今度、休みが合ったら行ってみないか?』そう文章を変えて送信ボタンを押した。

 既読がつくまでの間、カップの底を見つめていた。

数分後、短い返信が届いた。

『美味しそう! 写真ある?』

 思わず笑って、昨日撮ったタルトとエスプレッソの写真を添える。

すぐに「おしゃれ!」というスタンプとハートマークが返って来た。それだけのやりとりなのに、不思議と心が軽くなった。


 窓の外では、通勤電車がホームを出ていく。車掌の放送がかすかに聞こえた。

「今日も一日、安全運行で」その言葉が妙に胸に響いた。

 汐海はカップを流しに置き、カレンダーを見上げた。次の休日がいつになるか、まだ分からない。それでもまた、あの店に行ける日を思うだけで、少し先の時間が楽しみになる。

 春の風がカーテンを揺らす。静かな朝の光の中で、汐海は深く息をついた。小さな余韻を胸に、もう一度、穏やかな一日が始まっていく。


【春のイタリアン ― フライングの休日】

 休みの日の朝、いつもより早く目が覚めた。天気予報どおり、春らしい青空が広がっている。カーテンの隙間から差し込む光が気持ち良くて、二度寝する気にはなれなかった。

 洗濯機を回しながらスマホを開くと、前に汐海さんから届いたメッセージが目に入った。

――『今度、休みが合ったら行ってみないか?』

チェリーのタルトとエスプレッソの写真が添えられていた。

 その店のことを思い出すと、またあの写真の赤いタルトが食べたくなってしまった。でも、シフト表を見直してみると、しばらくはお互い休みが合いそうにない。

「……仕方ないよね」そうつぶやいて、つい検索アプリを開いていた。もちろん、あのイタリアンレストランを検索するためだ。

 レビューを見れば見るほど、行きたくなる。

「汐海さんにはちょっと悪いけど……」小さく苦笑して、思い切って予約のボタンを押した。


 昼過ぎ、目的のイタリアンレストランに着くと、ガラス越しに差し込む陽の光がテーブルを照らしていた。落ち着いた店内、笑顔のスタッフ。メニューには季節限定の文字がいくつも並んでいる。

「これも気になるし、あ、こっちも……」

 いつもよりも食欲が勝って、前菜からデザートまでしっかり注文してしまった。

 グラスの中の白ワインが、光を受けてきらりと揺れる。その向こうで他のテーブルの客が楽しそうに話している。

 一人で来ているけれど、不思議と寂しくはなかった。きっと、汐海さんが「良かったよ」と言っていた理由が、店内の空気そのものから伝わる気がした。

 メインの魚料理は、香草の香りがふわりと広がって絶妙な塩加減。ナイフを入れるたびに、自然と笑みがこぼれる。

 最後に運ばれてきたチェリーのタルトは、しっとりと美しく輝いて見えた。

「ほんとだ……これは写真撮りたくなる」思わずスマホを取り出して、チェリーのタルトとエスプレッソを並べて撮る。スマホを眺めると幸せな気分になった。

 フォークを取り一口食べると、やっぱり絶品だった。甘すぎず、ほど良い酸味が口いっぱいに広がる。

 その瞬間、少しだけ後ろめたい気持ちが胸をよぎった。

「フライングしちゃったなあ」

 でも、食べ終える頃には心の中にもう一つの思いが芽生えていた。――今度は絶対、一緒に来よう。


 店を出ると、風が少し暖かくなっていた。街路樹の若葉がきらきらと光っている。歩道のベンチに座りLINEを開いて下書きを作る。

 『あのイタリアンレストラン行ってきちゃいました!やっぱり、すごく美味しかったです。次の休み、ぜひ一緒に行きましょう。今度は、タルトの他のドルチェも頼みましょうね。』

 まだ送信はしなかった。このまま、もう少しだけ取っておきたかった。

春の風が頬をなでる。次の休みを思い浮かべながら、市川は小さく笑った。あの店の香りと味が、心のどこかで、ずっと続いているようだった。


【春のイタリアン ― 初夏編 ふたりで訪れる日】

 初夏の風が街を抜けていく。

梅雨入り前の貴重な晴れ間、街路樹の緑がひときわ鮮やかだった。

約束の日、汐海は待ち合わせの時間より少し早く、例のイタリアンレストランの前に着いた。

 ガラス越しに見える店内は、昼の光で柔らかく包まれている。あの日、ひとりで訪れた時と同じ席が空いていた。



 しばらくして市川が手を振りながら駆け寄ってくる。

「お待たせしました!」

「いや、俺も今来たところ。」

 いつもの勤務中とは違う、少しラフな服装。どちらからともなく笑い合って、席に通された。


 メニューを開くと、季節のコースが二種類あった。市川が迷いなく魚料理のコースを指差す。

「じゃあ、俺は肉の方にしようか。」

「ちょうどいいね。シェアも出来るし。」

 ワインは、それぞれの料理に合わせて、汐海は深みのある赤を、市川は爽やかな白を選んだ。グラスを軽く合わせると、かすかな音が響いた。

「こうして休みが合うの、久しぶりね。」

「ほんとに。こっちは最近、シフトがずっと夜続きで。」

「じゃあ今日は、ちゃんと“休日”してもらわないと。」

 そんな他愛ない会話の中にも、互いの忙しさや気遣いが滲んでいた。


 前菜のカルパッチョが運ばれてきた。鮮やかな彩りに市川の目が輝く。

「わあ、綺麗……!写真撮っていい?」

「もちろん。」

 シャッター音のあと、笑顔がテーブルにこぼれた。

メインは、汐海が頼んだ牛フィレ肉のロースト、市川は白身魚のソテー。それぞれ違う香りのソースが立ちのぼる。

「これ、すごく柔らかいね。」

「そっちも美味しそうだな。」

「少し食べます?」

フォークを差し出され、汐海は一口だけ受け取る。

「うん、やっぱり魚の方もいいな。次は迷いそうだ。」

 そんなやりとりの間にも、店内には穏やかな時間が流れていた。


 そしてドルチェの時間。

汐海はチョコレートのムースを、市川はレモンのセミフレッドを選んだ。それぞれ一口ずつ交換し合いながら、自然と笑みがこぼれる。

「チェリーのタルトもありますよ」と店員が告げると、二人は顔を見合わせて頷いた。

「テイクアウトで、お願いします。」

「やっぱり外せないわよね。」

 食後のコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。午後の陽射しが少し傾いて、街の色がやさしく変わり始めていた。

 どちらからともなく、ほっとしたため息が漏れる。

「こういう休日、いいわね。」

「うん、本当に。良い休日の過ごし方の見本みたいだ。」

市川が笑いながら頷いた。

「次の休みも、こんなふうに過ごせたらいいですね。」

「そうだな。今度は、映画でも見に行こうか。」

「良いわね、それ。見たい映画を調べなきゃ。」

 外に出ると、風が少し温かく感じた。チェリーのタルトの包みを手に、二人は並んで歩き出す。

 人の流れがゆるやかに進む午後の街で、その小さな約束だけが、確かに未来へ続いていた。


おわり

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