君と出会った春

ガブリエル

第1話

ハカランダの影の下で


メキシコシティは、いつものように無数の方向へ息づいていた。

レフォルマ通りを走り抜ける車の轟音、露天商が即興で歌うリズム、地下を金属の川のように流れるメトロのざわめき。


アドリアンは観光客の一団を避けながら歩き、ふと空を見上げた。

ハカランダの花が、空気そのものを紫に染めている――そんな幻想めいた光景だった。

それでも、行き交う人々の誰ひとりとして、その美しさに気づいてはいないように見えた。


手に持ったコーヒーはまだ温かい。

友人たちが笑えばアドリアンも笑い、写真を撮るときには頷く。

けれど、昨日の出来事を誰かが語るとき、彼の名前はいつもかすれた囁きのように扱われる。

騒がしい交響曲の中の、ほとんど聞き取れない和音のように――たしかに存在するのに、簡単に忘れられてしまう。


独立記念塔〈エンヘル〉の前では、観光客たちがスマートフォンを掲げていた。

仲間がぞろぞろと集まって写真を撮る。

アドリアンも一歩前に出たはずなのに、できあがった写真の中では端のほうで、半分ぼやけた影のように写っていた。

人々の光と笑顔のあいだに紛れ込んだ、通りすぎる幽霊のように。


街のざわめきに紛れていく感覚に、彼は小さな寒気を覚えた。

この街は、ほんの一瞬だけ彼を認識し――次の瞬間には忘れてしまう。



いつもの書店に入ると、古い紙の匂いが迎えてくれた。

アドリアンは本を丁寧に棚へ戻し、客の短い問いに答え、誰かが本の話で盛り上がるのを黙って聞いていた。


言葉にされなくても、彼がいることで店の空気が少し穏やかになることを、店そのものが知っているようだった。


夕暮れになると、外のハカランダが風に揺れ、花びらが肩越しにさらさらと落ちていった。

最後の客を見送り、店の扉を閉めると、街のネオンが古い建物と新しい建物を同時に照らしていた。

屋台の人々は片付けを始め、紫の花びらが歩道に静かな雨のように積もっていく。


アドリアンは自宅の階段を上り、自分の部屋の窓辺に腰を下ろした。

街灯が黄色く街を照らし、果てしなく広がる夜の都市が、ゆっくりと息を吸っているように見えた。


携帯に映る写真――〈エンヘル〉前での一枚。

笑顔いっぱいの友人たち、輝く記念塔、そして地面をおおう紫の花。

その端に、わずかにぼやけたアドリアン自身の姿があった。


誰かを誘おうとして、打ったメッセージを結局消してしまう。

かすかな笑みを浮かべ、窓にもたれて街を見つめた。


何百万もの人々が沈黙を抱えて眠りゆく夜。

その中でアドリアンは――

ネオンの光と紫の花びらに溶けていく、忘れられたため息のような存在だった。


……それでも、完全にひとりではなかった。

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