第30話 試練③

聖剣の間は、静寂が満ちた空間だった。

そこには時間すら流れていないような、不気味なまでの静けさが広がっていた。


レニオスとリュシオンは霧に満たされた空間に立っていた。


「おいおい、何も見えないじゃないか……。本当にあるのかよ聖剣。ここまで苦労して、まさか、本当に伝説でしたっていうオチはないだろうな」

レニオスが苦言を漏らす。


足元に確かな地面はある。だが、それ以外のすべてが不確かだった。 


リュシオンがあたりを見回し、一瞬瞬きをした。


彼が目を開いたと同時に、霧がわずかにうねる。


そして、まるで水面に石を落としたように――世界が歪んだ。





視界に映ったのは、幼い自分の姿。


「母さん……?」


震える声。かすれた呼びかけ。

けれど、背を向けた女は一度も振り返らないまま、深い森の中へと消えていった。


――助けて、と声を出そうとしたのに、声が出なかった。


息を吸い込むだけで、喉が詰まるように痛かった。


「……そうだ。俺は……こうやって捨てられたんだ」


今の自分が、あの頃の自分を眺める視点でその映像を見つめていた。

だが、思い出すたび、胸の奥が苦しさに締め上げられる。


その場面がゆっくりと滲み、次の“記憶”へと繋がった。





今度は、血の匂いが鼻を突いた。


目の前に広がるのは、焼け落ちた村――


母のものらしき布が、血まみれの地面に落ちていた。

その先には、黒い鎧をまとった“魔族”たちの姿があった。


鋭い牙、角、深紅の瞳。

炎の中で笑いながら剣を振るう魔族。


「やめて……やめて……っ!」


子供の自分が泣き叫ぶ。

地面に縋り、どうしても助けたいと手を伸ばす。


その視線の先で、母の首が――断ち切られた。


リュシオンは膝をついた。


「……っ!」


目の奥が焼けるように痛い。

魔族は母の遺体を、なおもいたぶり笑っている。

あまりの惨劇に呼吸もできない。


だが、それは――


「……待て。これは……“現実”じゃない……」

歯を食いしばり、視界を覆う涙をこらえる。


「……こんなもの……っ」


これはただの“幻”だ。そう自分に言い聞かせた。


だが――その映像の“鮮明さ”と“感情の重さ”は、記憶というにはあまりに深く、重い。


……おかしい。これは本当に俺の体験か?


……違う、違う。こんなことはなかった。何かがおかしい。でも、本当にあったことのようだ……。


リュシオンは混乱していた。

どこまでが現実で、幻想なのか。




そのとき――


霧の奥から、黒い影がゆっくりと歩み出てきた。


足音は、なかった。

なのに、その存在だけで周囲の空気が異質に歪む。

ただ立っているだけで、大地と空を支配しているような、異様な圧。


長く翻る漆黒の外套。

頭上には伸びた二本の角。

夜のように暗い髪と、紅く燃えるような瞳。


(……魔王だ)


リュシオンは即座にそれを理解した。


心臓が、ずきりと脈打つ。

剣に手をかける――が、指が、止まった。


(……なぜ……震えている?)


恐怖? 怒り? 憎悪?

それとも、戦うべき存在を前にした本能的な緊張?


――違う。


胸の奥に広がっていたのは、それらとはまったく別の感情だった。


(……なんだ、この感覚は)


魔王は何も言わなかった。

ただ、静かに――深い哀しみのこもった瞳で、こちらを見ていた。


それは、言葉では表現できない種類の痛みだった。

過去も未来も、すべてを背負って、それでもそこに立ち続ける者の哀しみ。


「……お前……泣いているのか……?」


言葉が、喉の奥からこぼれ落ちた。

驚きでも、非難でもなく。まるで少年が迷子になった子猫を見つけたかのような、震える声で。


魔王は何も言わず――瞳を伏せた。

そして、ひとすじの涙が頬を伝い落ちた。


―――なぜだ。なぜそんな目をする。


その紅い瞳に、既視感があった。

胸が、ひきつれる。


浮かんだのは、エイリスの面影。


優しく、儚げで、どこか寂しさを抱えたあの瞳。

他人を守るために自分をすり減らし、それでも笑っている、強くて弱い人。


なぜ重なるのか。

なぜ、魔王に、そんなものを感じてしまうのか。


―――俺は、魔王を、魔族を――憎んでいる。


憎んでいる?


なぜ?


(……なぜ憎んでいたと思うのだろう……)


違う。


むしろ、俺は救われたことすらあった。

でも、誰かが言った。「魔族は敵だ」「お前の母は、魔族に殺された」と。


それは、誰が言った?

そんな事言われた事がない。


「……あの時はお前を、憎んでいたはずだった。でも、今は……わからないんだ」


―――なんだ。俺は何を言っている?


自分が何を言っているのか、わからない。

けれど、心は確かに、そう叫んでいた。


剣を鞘に戻すと、リュシオンは静かに一歩を踏み出す。


魔王もまた、逃げなかった。

ただ、悲しみのまま、そこにいた。


そして、次の瞬間――


リュシオンは、魔王を抱きしめていた。


腕の中にあるのは、幻のように儚く、それでも確かな温もり。

魔王の身体は、微かに震えていた。

声もなく、ただ胸元で涙を流していた。


「……どうして……こんなに、苦しそうなんだよ……」


この手で斬るはずの相手を抱きしめながら、リュシオンは問いかけていた。

それは、世界への問いだった。自分自身への問いだった。


それは、理屈ではなかった。

ただ――確かに、そう感じた。


「魔王。お前には心がちゃんとある。あの時……すまなかった……」


―――“あの時”?俺は一体何を言っている?


あの時は何のことなのか……。

それがいつなのかも、わからない。

だが、胸の奥のどこかが、そう語っていた。


―――俺は……何かを、忘れている……


その瞬間――


魔王の手が、リュシオンの胸元に当てられた。

そして――その心臓を、貫いた。


「――っ……!」


刹那、血が噴き出す。

意識が、急速に闇へと沈んでいく。


「痛い……。いたいよう……」


リュシオンは、幼い少年に戻っていた。

ただ小さく、小さな身体に、どうしようもない痛みが沁みついている。


痛い。

寒い。

誰もいない。

誰も、助けてくれない。


ぐしゃぐしゃになった顔で、ひとり泣き続けていた。


「いたいよう……いたいよう……」


子どもの声が、広くて冷たい闇の中にかすれて響いた。

泣いても、叫んでも、誰も来ない。

ただ、寒さと孤独だけがずっとそばにいた。


「どうして……ぼくを置いていくの……?」

「なんで……なんでみんな、いなくなるの……」


誰も答えない。

言葉も手も、何も届かない――そんな場所だった。


寂しくて、怖くて、心が凍えていく。

痛いのは体じゃない。心だった。

何度泣いても満たされない、ぽっかりと空いた胸の奥が、ひりひりと泣いていた。


その時――


ほんのわずかな風が吹いた。

そして、誰かの温もりが、そっと彼を包んだ。


やわらかく、懐かしく、すべてを包み込むような抱擁。

それは、寒さも、痛みも、少しずつ溶かしていく不思議なあたたかさだった。


「……だれ……?」


ぐしゃぐしゃの涙の中で、ゆっくりと顔を上げる。

視界の先にいたのは――


「……エイリス……?」


彼女だった。

柔らかな光を纏い、何も言わず、ただその小さな自分を抱きしめていた。

責めることも、問うことも、否定することもなく――ただ、抱きしめていた。


その腕の中は、とてもあたたかかった。

あの孤独な世界のすべてを溶かしてしまうような、優しさの塊だった。


リュシオンは、はっと息を呑む。

胸が、また苦しくなる。けれど、それは“孤独の苦しさ”じゃない。


「……エイリス……」


名前を呼ぶ声は、震えていた。

そして、伸ばした小さな手が、彼女に抱きしめようとした――


だが、次の瞬間。


エイリスはふわりと微笑み、光に溶けるように――彼の腕の中から、消えていった。


「……行かないで……っ……!やっと会えたのに……!!」


呼びかけは空へと吸い込まれ、誰も応えない。

残されたのは、胸の奥に染み込むような、深くて静かな喪失感だけだった。





気がつけば、リュシオンは一人、広間の中央に立っていた。


もう子供の姿ではない。


リュシオンの頬に涙が伝っていた。


なんだったのだろう……。

今起きたことは、一体……。


――でも。

その抱擁のあたたかさだけは、確かに残っていた。

心の一番深い場所に、静かに息づいていた。


それをかみしめた時、リュシオンの視界が開けた。


何もない空間。だが、彼の前には一本の剣が突き立っていた。


――聖剣。


なぜそれがあるのかは、わからなかった。

ただ、それが“待っていた”というように、彼に呼びかけているようだった。


リュシオンはふらふらと近づく。

胸に残る傷も、幻だったのか、痛みだけを残して消えている。



手を伸ばしたその瞬間――


聖剣が、淡く光った。


そして、するりとその手に収まるように抜けた。


手にした剣は、温かかった。

それはまるで、彼が“何か”を赦され、そして“選ばれた”かのような感触だった。


(……これは……)


なぜ、自分が手にできたのかは、わからない。

けれど――


リュシオンは、静かに目を閉じ、聖剣を強く握りしめた。

剣の温もりが、まるで彼の覚悟に応えるかのように、静かに脈打っていた。

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