そして、ユウシャはユウシャに世界を託した。
赤色ノ人
『大義』
「勇者どの!お急ぎを!」
「分かってます!」
雨上がりの森には、湿った土の匂いが立ち込めている。
張り詰めた空気の中、僕はじっとりと汗ばんだ手で手綱を握りしめ、先頭を走る騎士団長を追いかけた。
目的はただ一つ。
『魔王の血を引く幼体』の討伐………赤子殺しだ。
先行していた騎士団長の馬が、突如として足を止め、鼻を鳴らした。
即座にこちらも手綱を引く。
古びた獣道の前で、手負いだったはずの魔族の死体が転がっていた。
幼体を連れていたはずだが、ここにはいない。
「聖女、索敵を頼む」
僕が声をかけると隣にいた聖女が頷き、詠唱を始めた。
彼女の青い瞳は、森の暗がりのずっと奥を見つめている。
「この先……かすかに魔力の
「人間?まさか、この期に及んで魔族に味方する者がいるとは………すぐに踏み込むべきです!抵抗するなら容赦はしないッ!」
騎士団長が剣の柄に手をかける。
殺気立つ彼を、僕は制した。
「待ってください騎士団長。相手は赤ん坊と、それを匿っているただの人間でしょう?王命に従うあなたの立場もわかる。けれど、僕らは勇者一行。武力を行使する前に、まずは話を————」
「情けがなんの役に立ちますか!!」
騎士団長はいら立ちを隠そうともしなかった。
「魔王は死に際、最期の力を振り絞ってあの幼体を 『新たな王』として逃がした。これを見逃せば人類の滅亡は必然!我々の戦いは全て無駄になるのですぞ!それに、これは私にとって………大勢殺された部下たちの仇討ちでもあるのです……」
騎士団長が馬上で唇を固く結ぶ中、聖女が祈るように目を閉じた。
「騎士団長さんの言う通りです、勇者さま。かつて仲間だった戦士と魔法使いも、戦いの中でその『甘さ』ゆえに命を落としました。これは、未来安寧のための断罪なのです」
「……………………」
言葉を詰まらせたまま、何も言えなくなった。
彼女が『断罪』という言葉を口にするのは、 幾度も惨い戦場を経験し、多くの命が失われるのをその目で見てきたからだ。
彼らの言うことは正しい。
「君の口からそんなことを言わせてすまない」
「何を今さら。旅を始めたころの純粋さなんて、道の端に捨ててきましたよ……果たしましょう、私たちの『大義』を」
僕たち、いや…………勇者の大義、それは世界を平和にすること。
わかってる。
でも、なぜだか心の奥で、つっかえているものがあった。
こんな旅の終盤の終盤であるにもかかわらずにだ。
…………。
たどり着いた先には、木材と土壁でできたボロボロの小屋があった。
周りにあるのは畑の跡か、ただの荒れ地か判別がつかない。
「………あれは」
入り口に泥と古布にまみれた痩せ細った老夫婦が立っていた。
「な、何だ、あんたら。ここは、オラたちの……」
騎士団長が剣を抜き放ち、切っ先を老夫に向ける。
「答えろ。貴様ら、魔族の赤子を囲っているな?すぐに引き渡せ、さもなくば斬る」
「し、知らねぇ!魔族?何を言っているのか、わかんねぇな!」
できるだけ威圧しないよう、穏やかに語りかける。
「聞いてください。あなた方が隠しているのは、魔族、それも
「種だって!?」
老女が、突然
「あの子は種なんかじゃない!あの子は、ただの……赤ん坊よ!」
「バカッ!お前ッ————」
「…………やはり、匿っていたか」
「だ、だったら、なんだって言うんだい」
騎士団長の静かな怒声に老女は震えはしても、そこから一歩も引かなかった。
「ワタシらには子供が…………ずっと、ずっといなくて…………あの子は森の奥で、ずっと泣いていて……待っていたんだよ。あの子は、神様からの贈り物なんだよ!」
聖女がその言葉に眉をひそめる。
「神?贈り物?愚かな………その赤ん坊から放たれる魔力を感じないのですか? それはいつか貴方たちを食らい、この世界を滅ぼす魔王として……」
「うるさい!」
老女が、聖女に向かって
その眼には貧困にも絶望にも、僕たちの武力にも屈しない、確固たる『母』としての光が宿っていた。
「そ、そうだ………」
老女を背後に隠し、老夫が続いて前に出た。
泥まみれの服とは裏腹に、強い決意を
「オラたちは知らねぇ!魔王がどうだとか、世界がどうだとか、そんな大きな話は知らねぇ!んだども、あの子の目を見てみろ!ただの、小さな………腹を空かせた赤ん坊の目だ!こ、殺させねえ!…………このまま死んでいくだけのオラたちに…………初めて守りてぇもんができたんだ!」
その時。
小屋の奥から、泣き声…………いや、鳴き声が聞こえた。
人の赤子とは違う。
やけに甲高く、飢えた獣が唸っているような。
僕は、目を閉じた。
世界を炎に包まんとする魔王の姿が脳裏をよぎる。
魔王は死んだ。
勇者の残された使命は、魔族の根絶。
そのために僕はずっと剣を振るってきた。
しかし、その剣を振り下ろすべき相手は、世界を滅ぼす魔王ではなく………。
自分の胸に手を当てた。
そこにあるのは、勇者としての『大義』と、一人の人間としての『情』。
「………問答無用」
騎士団長が剣を振りかぶり、老夫に向かって一歩踏み出した。
「待て!」
かつてないほどの大声で叫んだ。
騎士団長は驚き、動きを止めた。
「まずは確かめましょう。もし間違いであれば、僕たちはこのまま引き下がります」
僕は夫婦に近づくと敵意がないことの証明として、自分の剣を地面に突き刺した。
「僕も、その子がただの赤ん坊であることを強く願っている」
聖女に視線を送る。
彼女はすぐに察してくれたようだ。
苦渋の表情を浮かべながら、少し間が空く。
そして、無言で頷くと、奥へと歩き出した。
ここにいる皆の死角に立つよう、揺り
そして、赤ん坊の首に手を———。
「この幼体はすでに……息を引き取っています」
その言葉に、騎士団長が叫んだ。
「な……馬鹿な!?そんなはずはない、確かにここまで魔力を感じて———」
「でしたら、お分かりのはず…………魔力の反応は、すでに消えています。どうやら先ほどの呼び声を最後に、力尽きてしまったようですね」
聖女は立ち上がり、真っ直ぐな目で騎士団長を見つめた。
「魔王の血をもってしても、真の親を失ってはこの世界で生き延びることはできなかった、というでしょう」
騎士団長はそれ以上は何もいえなかった。
聖女の言う通り、先ほどまで感じていた魔力の気配はもうない。
彼女は老女に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「ご夫婦、ご愁傷様でした。あなた方が注いだ愛情は偽りではありません。どうか安らかに、この子を土に
老夫婦は何が起きたのかも分からず、呆然としている。
赤ん坊は泣き止んだが、それが永遠の沈黙だとは信じられずにいるようだ。
しかし、剣を鞘に納める僕を見て、彼らは理解すると同時に膝をついた。
「『大義』は果たされました。撤収しましょう、僕たちの旅はこれで終わったんです」
僕はそう言い捨てると、小屋に背を向け、森へと歩き出す。
もう振り返らない。
いや、振り返ってはいけない。
騎士団長は不服そうな顔をしながらも、この状況を受け入れるしかなかった。
聖女もまた、老夫婦への罪悪感に顔を歪ませながら、僕の後ろについてくる。
———足音が遠ざかり、再び小屋の中が静まり返った。
老夫は赤ん坊が眠る場所へと駆け寄る。
揺り籠の中で赤ん坊は、目を閉じていた。
肌が青みがかっている。
震える手で赤ん坊を抱き上げる。
そして、その小さな身体を、老女に渡した。
老女は赤ん坊の顔を胸に押し付け、さめざめと泣き出す。
「ああ、なんて、なんて、可哀想に……」
魔王の血を引くからなんだ。
生まれたばかりの命に違いはない。
たった数刻の命で終わらせてはいいわけが……。
ああ、どうか生きて、この寒さと飢えを乗り越えてほしかった。
老女の胸中で、その切なる願いが、熱い涙とともに溢れる。
溢れて、溢れ出して、止まらない。
だからであろうか。
その思いに応えんばかりに———。
赤ん坊の手が老女の汚れた胸元の布を、強く握った。
「お、おい…………」
魔族特有の赤黒い瞳がこちらを覗いていた。
その赤子は老女の胸から伝わる温もりを感じ取ると、安心するように笑うのだった。
———背後の小屋が、雨上がりの霧の中へと遠ざかっていく。
そろそろ赤ん坊が目を覚ます頃かな。
「これで、よかったですよね」
聖女が前を歩く騎士団長に聞こえないよう、小声で僕に問いかけた。
「………ああ」
彼女は、僕のために一芝居うってくれたのだ。
聖なる力、と呼ぶべきだろうか。
神に仕える彼女にとって、瀕死となっている者を遠隔で蘇らせるなど造作もないらしい。
「すまない、僕のわがままに付き合ってもらって」
「ふぅ、何か勘違いされているようですが、私は聖女ですよ?神を信じる者たちに心からの慈愛と加護を………私は私の『大義』を果たしたまでです」
彼女がため息交じりに返してきた。
「……まぁ、その結果、あなたの『大義』は果たせなくなってしまいましたがね」
「そうでもないよ」
「?」
「勇者が世界を平和にする、それではダメなんだ」
僕は自分の
そこには、剣ダコと、洗っても落ちない血の匂いが染み付いている。
「こんなやり方がいつまでも続くようなら、どのみちこの世界は滅ぶさ」
そうだ。
だからこそ、僕の成し得なかったことを託したかった。
あの老夫婦のように。
剣を持たず、誰の命も奪わず、ただ不器用に愛することだけで世界を変えられる、そんな優しき者たちに。
「ふふ、ひどい言い訳ですね」
「はは……責任放棄ともいうね」
僕たちは森を抜ける。
振り返れば、小屋は木々に隠れて見えなくなっていた。
だが、悪い道じゃない。
遠くない未来、ここはきっと、たくさんの美しい野花で埋め尽くされるだろう。
それは、剣では決して育てられないもの。
僕が世界に
そして、ユウシャはユウシャに世界を託した。 赤色ノ人 @akairo_no_hito
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