第8話思い出
お世話様の家――それがアタシの家だ。
……この言葉を、アタシはずっと嫌っていた。
しかし、悪意を喰らいすぎた猿神は、制御がきかなくなってしまう。
五年前。
おばあちゃんは、
誰もその続きを語らず、語ろうともしなかった。
その日から、アタシの家は存在ごと見えないものになった。
それまでは「犬を飼ってはいけない」というキマリがあった。
犬がいると
子どもを
そして、この日を境に、アタシの家の存在はタブーになった。
それからアタシは、独りぼっちになった。
小学校の校庭の向こうでみんなが楽しそうに遊ぶ姿が、胸に刺さった。
アタシは、人が通れないほど狭い路地裏で、ひっそりと遊ぶようになった。
ある日、一匹の子猫が歩いてきて、アタシの目の前で立ち止まった。
恐る恐る手を伸ばすと、子猫はぺろぺろと舐めてきた。
くすぐったくて、そして……受け入れられた気がして、アタシは泣いてしまった。
「ルカ! 女の子泣かしちゃダメだよ」
アタシと同じ歳ぐらいの男の子が、子猫を抱き上げた。
その子猫が、あからさまに不服そうな顔をしていたのがおかしくて、思わず笑ってしまった。
「アタシも抱っこしてもいい?」
勇気を振り絞って言うと、男の子はすっと子猫を差し出してくれた。
子猫はとても温かくて、ふわふわで、しなやかだった。
「この辺の子?」
男の子が訊いてきた。
幸せな気持ちが、急に重くなる。
アタシがお世話様の家の子だと知られたら、きっと離れていく。
でも――嘘はつきたくない。
正直に言おう。
そして、さようならだ。
「……アタシ、お世話様の家の子なの」
男の子は、一瞬だけ瞬きをした。
――あ、終わった。
アタシの心が先に落ちた。
この子猫は、すぐに奪われる。
アタシの手から、アタシの世界から。
せめて、最後の一瞬まで、この温もりを感じていたい。
「ふーん」
その子は、ただそれだけ言った。
驚きでも、嫌悪でもない。
「猫が好きみたいだね」
――えっ?
拒絶が返ってくると思っていたのに、男の子は笑っていた。
「ねぇ、アタシの家、お世話様の家だよ」
男の子は首を傾げて、平然と言った。
「それ、さっきも聞いたよ」
この子……何も知らないんだ、アタシの家のことを。
でも、家に帰ったら親に叱られて、もうここには来ないだろう。
せめて今日だけでも、友達でいたい。
アタシは明るく訊いた。
「アナタは、何してたの?」
男の子はニコニコ笑って言った。
「ルカの散歩だよ」
ルカって、この子猫?
猫って……散歩、するの……?
アタシの疑問に気づいたように、男の子が付け加えた。
「ルカは猫だけど、犬みたいな猫なんだ」
アタシは、気づけば笑っていた。
「何それ! 面白いね」
楽しい時間。
幸せな時間。
辺りが夕暮れに包まれる頃、男の子が言った。
「そろそろ帰るよ、またね」
アタシは、その日が来ないことを知っていながら――
「バイバイ、またね」
男の子と子猫が角を曲がって消えた瞬間、
とめどなく溢れる涙は、もう止められなかった。
家への帰り道は、今までで一番つらかった。
束の間の幸せの代償が、こんなにも重く、苦しいものだなんて。
……じゃあ、アタシはもう、そんなもの要らない。
次の日、アタシは家を出るのが怖かった。
……もし行かなければ、
「また来るかもしれない」という、馬鹿な期待を抱いたままでいられる。
でも、どうせ来ない。
期待なんかしたら、また痛くなるだけ。
だったら、自分で壊したほうがましだ。
そう自分に言い聞かせて、路地裏へ向かった。
路地裏への曲がり角に差しかかった、その時だった。
――タタッ。
小さな足音が、アタシの心臓の真上に落ちた。
子猫が、アタシだけを見て走ってきていた。
その後ろで、男の子が笑って手を振っていた。
子猫がアタシの胸に飛び込んでくる――。
——なんで来たの、なんで来たの、なんで……
胸の奥が熱くなり、言葉が全部消えた。
アタシは、ただ子猫を抱きしめて、泣きじゃくっていた。
この日、アタシは知った。
――世界は、たまに残酷で、たまに優しいということを。
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