今ここにある幸せを

蔵樹紗和

恋しい君へ

「あれ、文也ふみやさん?」


 背後から懐かしい声がする。誰のものか間違えるはずのない、何度も聞いた愛しい声。


麻奈まな……」


 振り向いた先には、確かに彼女がいた。もう会えないと思っていたのに、彼女は以前と変わらぬ笑顔でこちらにやってくる。


「やっぱり文也さんだ! 久しぶり! ちょっと老けた?」

「そ、そんなはずは……」


 麻奈は何にも変わってないな、そう言いかけて口をつぐむ。それにいち早く気づいた麻奈が、グッと顔を近づけてきた。


「文也さん、その癖はまだ変わってないね。そんなんじゃ、またおんなじことを繰り返すだけだよ?」


 そう言いながら、僕の左手の指の根本をトントン、と叩く彼女。全く、察しが早い。


「そうだね」

「結婚、したんだ」

「うん」


 ふと、麻奈の薬指の根本ものぞいてみる。やはり、と言ったほうがいいのだろうか。彼女の指にもきらりと輝くリングがはまっていた。


「麻奈も、なんだね」

「うん」


 しばらくの沈黙。おそらく、彼女も同じであの日々のことを思い出しているのだろう。


 こんなにも僕たちの関係がぎこちないものになってしまった、あの日々のことを―—。



***



「なんでずっと目を合わせてくれないの!? いっつもいっつも、もううんざりだよ!!」


 そう言って、数日前に麻奈は部屋を出て行った。


 違うんだ! これは、気恥ずかしくて君をまっすぐ見つめられなかっただけなんだ。傷つけるつもりなんて一切なかったんだ。


 そう言えたらどんなに楽だっただろうか。しかし、僕の頭はそれを拒んだ。どうしてかって? そんなの簡単だ。―—僕が至らなかったから。


 誕生日。彼女は僕にプレゼントをくれた。僕は気恥ずかしくて小さく「ありがとう」と言うのが精一杯だった。


 夏の日。夜空に花が咲き誇るのを彼女は子供のような無邪気な笑顔で喜んでいた。僕はその横顔を見ているだけでうれしくて笑顔を向けることしかしなかった。


 クリスマス。肩を並べて一緒に光の中を歩いた。彼女は定番の歌を歌ってくれたが、僕は音痴だと言われるのを恐れて隣で頷くことしかできなかった。


 彼女は確かに愛情を向けてくれていたのに。愛してくれていたのに。それに応えられなかったのは、僕の方だ。


 今更気づいても、もう遅い。


 僕の恋は、ただの恋で、終わってしまったようだ。


「本当に、馬鹿だなぁ」


 自分でも辟易している。こうなることは分かりきっていたはずなのに、どこか心の奥でそれを認められない自分がいる。


「何で言われるまで気づかないんだ」


 ふと、窓の外に目を向ける。もう何日も外に出ていない。それでも、外の世界は皆忙しなく生きている。


 僕の時間が止まったとしても、世界は動いている。きっと、麻奈も。


 そう思うと、いつもの日常が麻奈と同じくらい輝いて見えた。


「麻奈、この輝きを知っていたんだ」


 そう思い始めたら、どうしても外に出たくなってしまった。


 もしかしたら、今が身を引くベストタイミングなのかもしれない。


「彼女はひとりでも強く、逞しく生きていくのだろう。それなら、僕も再開したときに恥ずかしくない人間でいたい」


 きっと、僕は一生この日の後悔を抱えて生きていく。それでも、この世界の流れに取り残されていたら彼女に呆れられてしまう。うん、それだけは避けよう。


 随分と後ろ向きなスタートだが、これも悪くないのではないか。


 そう思いながら、僕は部屋のドアノブに手をかけた。



***



 その後、僕はまた恋に落ち、結婚する。


 きっとあの経験がなかったら僕は変わることもできないまま麻奈を傷つけ続けていたのだろう。


 今では、あの経験も悪くないなんて思っている。


 あぁ、何だか懐かしく感じる。心なしか麻奈の表情も優しさに溢れているように見えた。


「あ、ごめん。長く引き止めちゃったね。用事があったかもしれないのに」

「あ、いや、僕の方こそごめん。とにかく、元気そうでよかった」

「えへへ。文也さんも、ね」


 あの頃よりもずっと慈愛に満ちた笑顔を見せてくれた麻奈。やっぱり、良い笑顔だ。


「それじゃね! また、いつか会おう」

「うん。……元気でね」

「当たり前だよ!」


 去り際、麻奈の口からこんな言葉が出てきてるのが聞こえた。


「ありがとう」


 ……それを言うべきは、僕の方だ。君のおかげで今僕は妻や子供たちと言った愛する人を見つけられたのだから。


 幸せを、見つけられたのだから。


 初恋の君へ。ありがとう。また、会う日まで。

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