第6話 奇妙な道

 思えば私、ただ糸を買いに行こうとしていただけですのに。


 いつの間にこんなことになっているんでしょうか、と、すっかり夜中になってしまった今、思う。


 こちらではまともな――というか、あちらのように真夜中でも煌々と照らせる灯りがありません。

 行燈や提灯の灯りは油を消費する上に、作業するには乏しいため、日ごろから就寝時間は早いのです。


 なのに、こんな真っ暗闇の中で外出している私って。


 本来ならば新しい糸を結び終わり、明日の弾きはじめを楽しみに眠りについているはずですのに。


 今頃、屋敷はさすがに騒ぎでしょうかねぇ。


 すでに半刻どころか、一刻と半――三時間は経っているはずです。

 ふさ江さんはもう目覚めているでしょう。急に意識を失ったことを、どう思うでしょう。


 それに、父からの話の後に私が行方不明ならば「縁談が嫌で失踪か」なんて思われても仕方がありません。

 いやしかし、喜ばしいなんて決して言えませんけど。


 さて、本当に。


 いったいどうなっているんですか、これ。


 何だか、危ない香りがします。

 非現実的世界から、さらにとんでもないところに向かっていそうな。


 私無関係ですよね、帰っていいですか。


「ただの『しゅ』でないとしたら、何だと言うんだい」


 あぁ、目の前の現実から逃れて考えていますと、どんどん私を置いて話が進んでいきそうですね。


 鬼さん曰く、『しゅ』というのはつまり『呪』と書いて、しゅ、と読むそうです。初耳です。

 それより「呪い」とか「術」とかの方がわかりやすいのに、なんて文句は言いません。言いませんとも。


「始まりはただの呪詛じゅそよ。しかし、ややこしい法で対処しおった」


 呪詛はわかります。丑の刻参りとか、そういう類ですよね、きっと。


 ですが、「対処」とはなんでしょう。言葉がわかっても意味が分かりません。

 ここで私が質問すると、所謂K・Yですかね。……もうあちらでは使われてないのでしょうか、略称。


 あ、違う話に行ってしまいました。


「起点はわかった。しかし先から呪詛の行方が掴めぬ」


 物騒な言葉が次々と。


 そこの、にぃんまりと通常より三割増しの笑みを浮かべてるお兄さんや。

 ちょおっとその美しいお耳をお借り願えますかねぇ……?


 鬼さんは私の視線に気づきながら、ひょい、と肩をすくめて見せました。


「今日は外れだねぇ」


 何がですか。何をですか。


「また出直すかえ」

「そうだなぁ」

「して、お主」


 扇が展開しました。柄はありません。真っ白の扇面が、狩衣の女性の目元から下を隠しました。

 鼻、口を白紙で覆って、こちらを見てきます。


 ヤメテ。


「説明しや」


 その――

 探るような眼。


 ヤメテ、ヤメテ、ヤメロ。


「そう睨まないでくんな」


 ふ、と目の周りが黒と赤に染まった。


 間近に見る着流し。

 柄もわからぬほど近く、染められた糸の目が見えるほど近く。

 上には、あまり見慣れぬアングルである横顔。


 もちろん、知っている顔。


 女性に顔を向けながら、こちらに一瞬だけ動いた青灰の瞳。

 咄嗟に、ちょうどいい高さにあった紅帯を掴みました。


 そこで初めて、自分の手が震えていることに気づきます。

 庇われ、た? この鬼さんに?


「(何という、ことでしょう)」


 もしや、幼心にトラウマになってしまったのでしょうか。

 父親という存在に呼ばれた、所謂払い屋という類に。


 は、と喉から息が噴き出しました。呼吸が乱れます。

 どうやら、短い間ながら息をしていなかったようです。


「何じゃ、庇うのか」


 そう、ですね。どう見たって今の私は、鬼さんに庇われています。


「なぁに。こいつに聞いたって、知らないだけだからねぇ」

「お主、先と言うてることが違うぞ。とっととその口開かぬか」

「さっきから開いているんだがねぇ」

「……ほう。今まで見過ごしてきたが、そろそろ払い時かのう」


 ぱちん、と扇が閉じられる音。

 鬼さんに向けられた怒気が冷たい。

 風もなんだか、嫌な感じで吹いてきて。


 あぁ、もう、本当に、帰りたい。(ドコニ、ドチラニ)


「おっかねぇおっかねぇ。あっしはなーんにもしちゃいねぇのにさ」


 腕が、青白い手に掴まれました。

 何を、するつもりなんですか?

 こちらを向いた鬼さんが、にぃ、と笑いました。


「何かを企んでます」という顔です。


 ですが何故でしょう。今までと違って、少年、のよう、な?


 吃驚している間に、鬼さんは大きく息を吸い込んで、勢いよく吐き出しました。


 たくさんの、鬼火を。


 瞼が、かさついた男の掌で覆われ、それでも最後に見えた目の眩む炎が、女性に向かっていく光景。


「待ちや!」


 怒号を背に、私は目を閉じたまま、どこかに引っ張られました。


 ……いったい私は今、どこにいるのでしょう。嫌に静かです。女性の声はしません。

 逃げた、のでしょうね。次はどこに行くのでしょう。


 目を塞がれたまま、手を引かれる方に歩いています。また転びそうなのですが――


「まだ目ぇ閉じてな。口も開いちゃいけねぇ」


 鬼さんの声です。

 聞こえたと同時に、瞼を覆っていた手が離れました。

 咄嗟に、震えた目に力を入れ、閉じたままに。


 言われた通りにしますけど、なぜこのままなのでしょう。

 女性の声もしませんのに。


「ここはちぃとややこしい通りでねぇ。お前さんはまだ、見ない方がいい」


 はぁ。そんなグロテスクな世界が広がっているのでしょうか。年齢制限ですか。

 お子様はお断りですか。というか、どこに向かっているんですか。


 視覚以外の感覚で周りを知ろうとしますと、とりあえず、さっきより少し生暖かいところです。


 川を離れたから、ですかねえ。

 臭いは……色々混ざりすぎて分かりません。

 甘ったるかったり、物が焦げた臭いだったり。とりあえず、異臭はします。

 ですが、静かです。物音一つしません。


 道は平らで、しばらく転ぶ心配はない、のかな。

 鬼さんの手だけが頼りですが。


「とりあえず、家に送ろうかねぇ」


 家。あぁ、いいですねぇ。もう布団にくるまって眠りたいです。

 今日起こったことは、すでに私の容量オーバーです。寝たい。寝たいです、もう寝ます。


 ……あ、まずいです。今どれだけ時間がたっているかなんてわかりませんけど。


 でもきっと、まずい気がします。主に母屋の面々が。


「ま、大騒ぎだろうけどねぇ」



 誰のせいですか!

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