観測される者たち――承認欲求が生む、六つの地獄
ソコニ
第1話『祝福の火』
1
鏡の中の花嫁は、完璧だった。
でも、完璧なだけでは——誰も覚えていてくれない。
美咲は控室で、三十回目の自撮りを削除した。白無垢。整ったメイク。プロが仕上げた髪型。どれも完璧だ。でも、それだけだ。来週には誰も覚えていない。友人たちのSNSに「素敵な結婚式でした」と投稿され、三日後には忘れられる。
美咲のアカウントのフォロワー数は、二千九百八十三人。投稿すれば「いいね」は百から二百。誰の記憶にも残らない、中途半端な数字。
それが、怖かった。
だから今日、美咲は——忘れられない花嫁になる。
「美咲さん、お時間です」
ウェディングプランナーの声。美咲は小さく息を吐き、バッグから小型スマホを取り出した。これは配信専用。三日前に作ったアカウント「@炎上花嫁」。
式場の三カ所に仕込んだ小型カメラ。誰も気づいていない。
美咲は、配信アプリを起動した。
【生配信】結婚式、全部見せます #炎上花嫁
配信開始ボタンを押す。
視聴者:1人。
始まった。
2
式は、滞りなく進んでいた。
新郎の拓也は緊張した顔で美咲の隣に座っている。誠実で、優しくて、退屈な男。彼は美咲のSNS癖を知らない。知っていたら止めただろう。だから、何も言わなかった。
司会者がプロフィールを読み上げる。美咲は膝の上のスマホを確認した。
視聴者:23人。
コメント欄が流れ始めている。
『綺麗な花嫁だね』
『幸せそう』
『おめでとう!』
ありきたりな言葉。誰も覚えてくれない言葉。
美咲は立ち上がり、マイクを手に取った。
「皆さま、本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます」
拍手。美咲は笑顔のまま続けた。
「実は今日、皆さまにサプライズがあります」
拓也が不安そうに見上げる。美咲は構わず言った。
「私、結婚式って、形式的で退屈だと思ってたんです。だから今日は、もっと自由に、みんなの本音を聞きたいなって」
会場がざわついた。
視聴者:104人。
『え、何これ』
『やばくない?』
『本音とか言い出したぞ』
美咲の笑みが、深くなった。
3
最初の爆弾は、義母への無視だった。
拓也の母親が祝辞を始めた。「息子をよろしく」「素敵なご夫婦に」——ありきたりな内容。美咲は興味なさそうに視線を逸らし、テーブルのスマホをいじり始めた。
会場が凍りついた。
義母は言葉を詰まらせ、不安そうに美咲を見た。しかし美咲は顔も上げない。
視聴者:512人。
『最低すぎる』
『新郎の母親に失礼だろ』
『これ、本当に結婚式?』
『炎上不可避』
美咲は心の中でガッツポーズをした。これだ。この反応。
次に、友人代表のスピーチ中に化粧直しを始めた。堂々とコンパクトを開き、口紅を塗り直す。友人の声が震えた。
視聴者:1,203人。
『引くわ』
『こんな花嫁見たことない』
『新郎可哀想』
『これ、台本?』
美咲の手が震えた。怖かった。でも、止められなかった。
そして、ブーケトス。
美咲は独身女性の中から、既婚者の友人・奈々を狙って投げた。奈々は困惑した表情でブーケを受け取る。
「奈々ちゃん、おめでとう。あ、でももう結婚してるんだっけ。ごめんね、忘れてた」
わざとらしく明るい声。
会場の空気が、完全に死んだ。
4
視聴者:5,847人。
コメント欄は制御不能だった。
『ヤバすぎる』
『炎上確定』
『新郎、逃げろ』
『花嫁、頭おかしい』
『でも、目が離せない』
美咲は震える手でスマホを握った。成功だ。これだけの人が、自分を見ている。
拓也が美咲の腕を掴んだ。
「美咲……何してるんだよ」
怒りではなく、困惑の声。美咲は拓也の目を見られなかった。
「ごめん……でも……」
その時——
会場の大型モニターが、突然点灯した。
映し出されたのは、Excelのスプレッドシート。参列者全員の個人情報が、細かく記載されていた。
招待客リスト・完全版
氏名、年齢、職業、年収、住所、電話番号——それだけではない。
既往歴。過去の不倫歴。借金。離婚歴。中絶歴。
会場が、悲鳴に包まれた。
「何これ!?」
「誰が!?」
「私の情報が……」
美咲は呆然とモニターを見上げた。自分の名前もあった。
立花美咲/28歳/無職(自称フリーランス)/年収:42万円/借金:304万円/整形歴:二重、鼻、輪郭/元交際相手:5名(実名記載)
血の気が引いた。
これは——私がやったんじゃない。
5
会場はパニックだった。
参列者たちは携帯を取り出し、自分の情報を確認している。泣く者、怒鳴る者、黙って席を立つ者。
拓也が美咲を見た。怒りと失望が混ざった目。
「お前が……配信してたのか?」
美咲は首を振った。
「違う……違うの……これは私じゃ……」
しかし拓也は、美咲の膝の上のスマホを見つけた。配信中の表示。
視聴者:23,104人。
『うわあああああああ』
『全員の個人情報晒されてる』
『これ、犯罪だろ』
『花嫁が犯人?』
『警察案件』
拓也は、美咲からスマホを奪い取った。
「お前……何やってんだよ……」
声が、震えていた。
参列者の一人——大学時代の友人、麻衣が叫んだ。
「美咲!お前がリークしたんだろ!私たちの情報、全部お前に渡してたじゃない!」
他の参列者も美咲を囲み始めた。
「お前が全部バラしたのか?」
「なんでこんなことを!」
「訴えるぞ!」
美咲は叫んだ。
「違う!私じゃない!私も被害者なの!見て、私の情報も晒されてる!」
誰も、信じなかった。
6
大型モニターに、新しいメッセージが表示された。
美咲へ
君が望んだのは"注目"だろう?
今、全員が君を見ているよ。
おめでとう。
美咲の体が硬直した。
画面が切り替わり、写真が映し出された。二年前、美咲が別の男性と付き合っていた頃の写真。相手の顔にはモザイク。
しかし美咲は分かった。
隼人——美咲の元カレ。IT企業のエンジニア。
メッセージが続いた。
隼人より
美咲、君は俺を捨てた時、こう言ったよね。
「もっと注目される男と一緒にいたい」って。
だから俺は考えたんだ。
どうすれば、君に"注目"をプレゼントできるか。
美咲の膝がガクガクと震えた。
そしたら、君が教えてくれた。
君の配信計画を。
君が式場に仕込んだカメラを。
君が集めていた参列者の個人情報を。
ありがとう、美咲。
君のおかげで、最高の"炎上"が完成した。
画面が暗転した。
会場は静まり返っていた。全員が美咲を見ていた。怒り、軽蔑、恐怖——様々な感情が、美咲に向けられていた。
美咲は、その場に崩れ落ちた。
7
式は中止になった。
拓也は、一言も告げずに去った。参列者たちも次々と式場を後にした。
残されたのは、床に座り込んだ美咲と、まだ回り続けているカメラだけ。
美咲は震える手でスマホを拾った。
視聴者:107,542人。
フォロワー数:94,381人。
コメント欄は高速で流れている。美咲の名前は既にトレンド入りしていた。ニュースサイトも記事を掲載し始めていた。
「炎上花嫁」結婚式で参列者の個人情報を暴露
新婦が仕掛けた配信が大炎上
元カレによる復讐か、それとも——
美咲は、画面を見つめた。
見て。
みんな、私を見てる。
私を、覚えてくれる。
私は、忘れられない。
目から涙が溢れた。しかし口元は、微かに笑っていた。涙なのか笑顔なのか、もはや本人にも分からなかった。
スマホの画面が明滅した。
フォロワー数:102,849人。
数字は、まだ増え続けていた。
美咲は画面を抱きしめた。
「見て……」
誰に言うでもなく、呟いた。
「みんな……私を……見てる……」
会場の照明が、一つ、また一つと消えていった。
暗闇の中で、スマホの画面だけが光り続けていた。
フォロワー数:108,592人。
美咲の顔が、青白い光に照らされている。
泣いているのか、笑っているのか——
もう、誰にも分からなかった。
ただ——
その光だけは、最後まで消えなかった。
(第1話・了)
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