水底の春

@reina_sprite

第一話・摩耗

 午前8時24分。大学最寄りの駅に電車が滑り込む寸前、ふと「人生は暇つぶし」という言葉が脳裏を掠めた。向かいの席には、淀んだ瞳で週刊誌の不倫記事を追うサラリーマン。その隣のOLは虚空を睨み、少し離れた女子高生はスマホの画面に頬を紅潮させ、落ち着きなく足を揺すっている。彼らは、そして私は、一体何のために呼吸を繰り返しているのだろうか。思考はレールの継ぎ目を渡る振動と共に途切れ、ドアが開いた。吐き出される人の波に身を任せ、ホームへと降り立つ。耳をつんざく発車ベル、金属が軋むブレーキ音、駅員のアナウンス。熱気、ゴムと鉄の焦げた匂い、他人の汗の臭気。それらが混然一体となって膨れ上がり、まるで巨大な有機体のように世界は蠢いている。私はその中へ身を投じ、いつものように大学へと足を運ぶ。


 改札を抜け、一歩踏み出した背中を、不意にトンと小突かれた。振り返れば、いつも講義で隣に座る沙也加がいる。「おっはよ~!」と、鼓膜を震わせる太陽のような声。


「おはよ。さやちゃんは毎朝元気だね」

「えー、そう? 私、これでもめっちゃ眠いんだけど」


首を傾げる彼女は、心底楽しそうに見えた。その屈託のない笑顔を直視した瞬間、「この子は何のために生きているのか」という、先ほどの邪魔くさい問いがリフレインする。私はその哲学めいた思考を無理やり脳の隅へ押しやり、いつもより少し歩幅を広げた。


 思えば、こんな不毛な思考に囚われ始めたのは、高校三年の秋だった。 「ずば抜けた才能」を持つ親の期待に応えるためだけに設定された、身の丈に合わない東大というゴール。その道半ば、全国模試で突きつけられたD判定の文字。新宿西口、歩道橋の上で途方に暮れたあの夕暮れは、目を閉じると、まぶたの裏から鮮烈な逆光のように私を射抜く。


 眼下を走る青梅街道には、タクシーやトラックのヘッドライトが奔流となり、その奥には中央線や山手線が、すし詰めの人間を運んで交差する。さらにその先、歌舞伎町のネオンが欲望の臓器のように脈打っていた。 行き交う無数の鉄塊や、硝子箱に詰め込まれた人々の群れを眺めるうち、自分がその巨大なシステムの、交換可能な部品の一つに過ぎないという感覚に襲われた。私は何のために、この場所で生きているのだろう。 問いは答えを得ることなく脳内を支配し、気づけば一時間近く、私は手摺を握りしめたまま立ち尽くしていた。


 この呪いのような思考癖は、第二志望の蒼陵大学に滑り込んでからも変わらない。 人間が生きる意味など、何処にもないのではないか。幸福とは、その空虚な穴を塞ぐための幻想に過ぎないのではないか。むしろ、幸福の形を上辺だけなぞった歪な生活を「これが幸せだ」と盲信できることこそが、最も効率的な生存戦略なのではないか。 そんな冷めた思考を巡らせているうちに、いつの間にかキャンパスの門をくぐっていた。


 一限の哲学は、死生観を扱っていた。仏教における死は肉体の終焉であり精神の終わりではないとする説、それを否定する浄土真宗の教義。 右から左へと流れる講義の声が、不意に途切れる。意識が浮上したとき、教授はとっくに仏教の説明を終え、ユダヤ教の死生観について語っていた。ふと横を見ると、いつもなら机の下でInstagramをスクロールしている沙也加が、かつてないほど真剣な、それでいて酷くくすんだ瞳を黒板に向けていた。 その横顔が、妙に網膜に焼き付いた。


 彼女の父親が、彼女の幼少期に病没していることは知っていた。講義の内容が、古傷に触れたのかもしれない。私はそれ以上深く考えることを止め、再び瞼を閉じた。次に目を開けたとき、講義室はすでに昼の喧騒に包まれていた。


「お昼、何食べる?」


 講義室を出て、スマホを耳に当てたまま戻ってきた沙也加に声をかける。彼女の足取りは、鉛を引きずっているように重かった。


「いや、ごめん。私、ちょっと帰る」

「え、次の授業、出席とるやつでしょ?」

「事故があったらしくて……」

「事故? 電車遅延とか?」

「ううん、お母さんが」

「……っ」


喉の奥で言葉が詰まった。


「ごめんね、暗い話して。明日は一緒にお昼食べようね!」


そう言い残し、彼女は一度も振り返ることなく人混みの中へ消えていった。私はただ、彼女の小さな背中が雑踏に飲み込まれていくのを、呆然と見送るしかなかった。


 一人、学食で麻婆豆腐丼を突きながらスマホを開く。 タイムラインを流れるニュース速報に、指が止まった。

『八王子JCT 乗用車・トラック計8台玉突き事故 運転手ら4名死亡』

心臓が嫌な音を立てる。記事をタップすると、無惨にひしゃげた鉄塊と、散乱したガラス片の映像が現れた。午前11時30分頃発生。大型トラックを先頭とした多重事故。 そして、記事の末尾に更新された犠牲者のリスト。


山口 和香 (53)


 目を凝らすまでもない。沙也加の母親の名前だった。 かけるべき言葉を探そうとして、あまりの空虚さにスマホを伏せた。思考を放棄するように視界を閉じる。その日は、それ以上何も思い出せなかった。


 翌日から、沙也加の席は空席になった。 葬儀や手続きで忙殺されているのだろう。私は砂漠に取り残されたような乾いた日常を、ただ淡々と消化した。いつもの哲学めいた思考だけを友として。


 ふと、「人生は暇つぶし」という言葉がもう一度脳裏をよぎった。 沙也加は、何のために生きてきたのだろう。彼女が楽しそうに語っていた母親とのエピソード、亡き父への敬愛。彼女にとって、両親こそが生きるよすがであり、世界の全てだったのではないだろうか。


 私、日野森奏には、そのような「愛」の対象が存在しない。 東大に落ちたあの日、尊敬していた父は私を無視し始めた。仲裁役だった母も次第に父へ同調し、ある日「親戚の恥だ」と吐き捨て、手切れ金代わりの3000万円と共に私を家から追い出した。 あの日から、私は私を維持するためだけに生きている。救いのない問いを反芻し続けるこの思考癖は、一種の自衛本能なのかもしれない、そんなことを思った。

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