習作
朝河侑舞
傀儡失格
創作をする者は、すべからく操り人形である。それが、物書きである私の、思想のすべてだった。
「はい。……はい、ありがとう、ございます。それでは失礼します」
ぷつりと途切れた音と共に、詰め込んでいた息を溜息として大きく吐き出す。青白いパソコンの画面に映し出されていたのは、重版を祝う編集担当からのメール。春から公開されるという映画化に先駆けて、原作を求める人が増えたのだというその文言は次回作に対する圧力さえ滲んでいる。いや、そう勝手に受け取っているのは私の方だ。つくづくひねくれているのだと、自分でも自覚出来てしまった。
習作というにはあまりにも拙すぎる、数々の文章たち。趣味が高じただけの文でしかなかったそれらをとある投稿サイトで細々と書いていただけのはずだったというのに、気付けば世間から見合わない評価を貰っていた。
驚き固まっているばかりの私の元に、評価の影響を受けてかひっきりなしに出版社からメールが届くようになり、あまりにも喧しかったものだからその中からよく本を買うことの多かった出版社を選び、好きにしてくださいと原本を投げてしまった。おそらく、それがいけなかったのだと思う。
知らず知らずのうちに肥大化していた私の作品は、世論では代々的に取り上げられては連日話題の中心で鎮座するようになってしまった。テレビをつければあの放り投げた作品が報道され、名も知らぬ評論家が絶賛する。SNSを開けば私が書いた文面を引用され、顔も分からぬ匿名たちが好意を口にする。ただそれが、あまりにも怖かった。
感想がもらえることが嫌なわけではない。自分の書いたものを受け取った誰かが、口々に良かったと言ってくれることはひどく嬉しかった。けれどその声が膨張しすぎて、四方八方から浴びせかけられすぎると、矮小な心臓が持たなかったのだ。私という物書きは、ただ物書きと口にすることさえ烏滸がましいほどに稚拙で、浅ましく、浅学で、希薄であるという自覚があった。豪胆にも勁烈にも在れなかった。
故に、二作目三作目と連作を重ねる度に滲み出る自らのちっぽけさを、まるであたかも聡明さを醸し出すような文体で覆い尽くした。それがまた、いけなかった。
ただの一般人であるという私の口振りを世論は見て見ぬふりをし、私という偶像を幾分にも膨らませた後に囁き合う。やれどこぞの行方不明になった大物作家に違いない、やれどこぞの唄歌いに違いない、やれどこぞのバーチャルタレントに違いない、等々、々。
ただ、一介の社会人であることなど、誰も見向きやしない。それさえ暴かれたくなくて、私は編集部から時折投げつけられるコラムやインタビューをすべて断っていた。膨らみ続けている人々の中の自分の偶像を拭うより、矮躯な自分を晒す方がひどく怖かったのである。
そうすると、世の中というものはただ好き勝手に私というものを描き続ける。それを眺めながら、私はまた筆を執ってしまうのだ。辞めればいい、折ってしまえばいい、もう書かないと言えばいい。そう分かっているのに、そうすることが出来ない。これは、呪いであるからだ。
取り憑かれ、糸を結ばれ、もうそれしか自らには存在し得ないのではないだろうかという心地にとらわれ続ける。吐き出し続けることを強要され、そうせずにはいられないというのに自らが吐き出したものの愚鈍さに苦しめられている。完璧には程遠く、傍らには常に完璧が這い寄っている。まばゆい星々に目を潰され、のたうち回り、それでも不出来の烙印を自ら押しながらもまた這いずるように進むことしか儘ならない。
創作というものは、そういうものであると私は思っていた。だから私は、書くことを辞められなかった。創るということはこんなにも苦痛を伴うというのに、何故か手放すことが出来なかったのである。それは、一種の麻薬にも似た感覚であるのだろうと、私は思っていた。
◇
処女作の続編の初稿が書き終わった、とある冬の末日。寒気に身を震わせつつも送信したメールの文面を見ながら、私は今日何度目かのコーヒーを淹れるために椅子から立ち上がった。
本が敷き詰められた棚を抜け、愛用のケトルへスイッチを入れながら部屋を見回す。執筆に時間を奪われる日々が始まると、掃除はおろか食事や風呂の類も忘れがちになってしまうためか、今回も既に部屋のあちこちにごみ袋や空いたペットボトルが散乱しかかっていた。
あれだけ厭だ厭だと宣う割には、この行為に一度のめり込むと一気に辺りが見えなくなってしまう。既に今も時間は深夜二時を回り込んでおり、おそらく別途で書いていた小説に手を付け始めれば、間違いなく夜が明けてしまうだろうということは明白だった。
この呪いは、書かなければ良いというものでもないというのは、私自身薄々勘付いていた。筆を折ったとて幻覚は頭の後ろを常に這い回り続け、幻聴は鼓膜の奥底で悲鳴を上げ続けている。最早精神病の一種であると私は思っており、既に十数年を共に生きてしまった以上、おそらく一生治ることのない不治の病であることも悟っていた。
だからこそ、それ故に。今この身へ一心に注がれる評価がに恐怖を覚えている。私自身は本当にただ筆の赴くまま、自らの意識の向くままに書いたものが手放しで褒められるのだ。
例えばこれがひどくこだわったのだとか、えらく時間がかかったのだとか、至るまでに血の滲む努力をしたのだとか、そういうものであるならまた話は別であっただろう。けれど言わばこれは、ただ「自分が自分の勝手たるままに書いた」だけの作品でしかない。それをこうも評価されると、恐怖に満ち満ちてしまったのだった。
ただ、存外評価をされなければいいかと言われればまた話は別で、自らの産み出したものに自分以外の肯定を少しばかり得られれば、というこれまた性根の腐った思考さえ私は持ち合わせている自覚があった。
物書きの側面を取ると私は物凄く面倒だなというのが自己評価の結論で、故に基本的に物書きであることは誰かに一言も話したことなどはない。言えばたちまち、その感覚が他人とは決定的に「違う」ことをまざまざと見せつけられてしまうだろうと知っていたからだった。
かちりとケトルのスイッチが上がる音と共に、ぼけていた思考が引き戻される。慣れた手つきでコーヒーを淹れ直しながら、ふとテーブルの上にいくつかの手紙が封も切らずに放置していたことを思い出した。
おそらくこのまま椅子に戻ってしまえば、あと数日は確認もせずに放っておいてしまうだろう。熱を含んだ一口を啜ってから手を伸ばすと、編集部やダイレクトメールの中に見慣れない封筒が紛れ込んでいた。
「……ああ、この方か」
捲った裏側に書かれていた宛名の見覚えに、少し眉尻を落とす。初めて私が処女作を発刊した時、初版を買ってくれたのだというこの方は、所謂私の初期からのファンというものだった。
文芸誌への寄稿作品や未だ続けているネットへの投稿作品を零さず読んでくれているようで、二週に一度ほどこうして直筆の手紙を編集部を通し送ってくれていた。勿論これ以外にも沢山の感想の手紙が手元に届くが、この方の手紙だけは届き次第送ってくれと編集部の方へと連絡していたので、いつもこうして郵便物扱いとして届くことが多かった。
彼は──いや、話の口振りから察するにおそらく青年であるらしいという仮定でしかないのだけれど──とある都内の学校に通う高校生らしかった。本を読むことは好きだが、今まで筆を執ったことはなかったという。然し私の処女作を読んだことで初めて「文を書いてみたい」と思い立ったそうだ。今は私の作品を含めて様々な本を読みながら知識を蓄えつつ、拙いながらも文を書いているらしい。
彼の作品を一度読んでみたいと思っているものの、此方から返事をすることは今までしたことがなかった。それは何というか、あまりにも「作者面」じみているかと思ってしまったせいで、今まで一度も出来ず仕舞いだったのだ。
封を切り、今日も熱量のこもった紙束に少しの苦笑を漏らしながら便箋を開く。青年を思わせる角ばった綺麗な字と、言葉尻に真面目さを思わせる文面。書き出しの挨拶から直近の作品への言及を経て、色々な語彙を以てして褒め湛えられているそれにどこか恥ずかしささえ覚える。
いつも通りするすると読み応えのあるその文章を読み進めてはファンレターの箱にこの手紙を納めることを空想していると、ふと便箋の最後の結び文に見慣れない一言が付け加えられていた。
『先生のただのファンである分際で、このようなお願いを申し付けることをご容赦ください。僕の浮かんだ話の種に、先生が水を撒くのであればどのように考えますでしょうか。是非、お返事をいただけたら嬉しく思います』
そんな文面と共に添えられていた、もう一枚の小さな紙。便箋とも言えぬメモ用紙には、幾つかの単語が並んでいた。昏睡状態の姉と、主人公である弟、手紙、芝居、葉桜。目を閉じた先で思い浮かんだのは、病室の窓で鳴り響く、口笛の音色。見知った、とある文豪の作品を少し過ぎらせるようなキーワードたち。
瞬間、目の前がばちんと眩しく輝くように白んだ私は、そのメモと手紙を持ったまますぐに椅子へと駆け寄っては、いつも使っている執筆用のソフトを立ち上げた。赴くままに指を這わせキーボードを叩くさまが、没入に似た神経のとがりを覚える。そうして呼吸の仕方も意識しないまま、私はただ五つの単語に踊らされて巡る景色を必死で書き留めるように鍵盤を叩いていた。
テーブルの上に置き去りにしてしまったコーヒーの熱が冷めていくのと相反するように、私の頭はかちりかちりとギアを上げていく。たった少しばかりの彼の言葉は、また私を呪いのどん底へと突き落とした。ただ今はそれがどうしてか、あまりにもひどく楽しくて仕方なかったのである。
まるでくるりくるりと弧を描く操り人形のように、また夜明けさえ忘れて吐き出す。表現の深みは、底に行き着き枯れ果てることなどなかったのだった。
書き上げた短編作品は一度彼の住所に送った方がいいのかと逡巡したのだが、よくよく見れば件の手紙にメールアドレスが記載されていた。これなら手紙を送り返すよりはハードルが低いなと私用で使っていたフリーメールのひとつから執筆した添付ファイルと共に文面を作り、送り付ける。
と、送ったところでそもそも、私が本物の私であると信じてもらえるのだろうかと途端に不安が過ぎった。一応商業用で使っているペンネームを添えてはあるが、それだとしてもいたずらメールやスパムの類だと思われてしまったらどうしたものか。
その時こそ覚悟を決めて手紙を送る他ないかと、傾き始めた朝の日差しの中もぐり込んだベッドの中で思ったのだが、日暮れの橙に染まりきった空を見ながら這いずり出て確認したメールボックスには、丁寧なお礼と共に彼からの返事があった。どうやら、ちゃんと本物なのだと認識してもらえていたらしい。
それからというもの、変わらず彼から送られる手紙には、種に水が欲しいという文言と共にいくつかの単語の羅列のメモが添えられるようになった。わざわざメールという直接連絡が取り合えるツールを得たのにも関わらず手紙を送ってくるさまは、どこかやはり彼もまた創作に取り憑かれたひねくれ者であることを示している気がして、私は彼のやり方に則って彼から投げられたそれを拾っては文を書き連ねた。
ある時は啓蒙すべき愛する主を陥れる弟子の話を。ある時は信念を貫く為に友との約束を守った男の話を書き送った。その数は既に片手では収まらなくなり、いつしか彼が私の元に届けてくれるであろう手紙が今度はいつ届くだろうかと落ち着かない日々も増え始めていた。
勿論本業である執筆は疎かにはしていなかったが、いつしか編集部から「先生の作品を上げる速度が速くなっている」と言われ、思わず自分が彼とのやりとりを始めてからの編集部宛てのメール履歴を確認すると、以前は三週に一度だったその速度は二週に一度に上がっていることに気付いた。完全に、彼からの手紙が手元に届くペースと同じになっていたのだ。
思えばこんなに頭が常に何かを吐き出し続けることにとらわれていながらも、苦痛にまみれることが減っているのも珍しいと感じていたが、どうやら自分の考え方が本業である執筆から彼とのやり取りの中で発生する物語の方に天秤が傾いていることに気付いてしまった。
勿論私の手から生み出されるものに優劣はない、駄作も良作も私の中では等しくない。ただ、人の知能がふたつに掛かった、所謂合作にも近しい彼との作品は、おそらく私にとって発想すら至らない種ばかりが故に、楽しいという漠然とした感情に捕まってしまっているのだなとそこでようやく気付いたのだった。
けれども、そうだとしても。こんなにも何かにとらわれることもなくただ純粋に「楽しい」と思える時間が久々に訪れたせいで、私は、その是非については特段考えることさえしなかったのである。
◇
それは既に彼とのやり取りが当たり前になってきた、新緑の揺れる季節のことだった。ふと趣味で掲載していた作品の投稿サイトのトップページに、期待の新人と称されたポップ文字と共に書かれているあらすじに既視感を覚えた。かちりとマウスを押し込んだ先でするすると文字の羅列を目で追い、あれ、と声を零す。
見覚えのある文体、記憶に新しいストーリー展開。確かにそれは、自分が書いた作品だった。それも大分前に彼に送り付けた、彼の種を元とした作品。添えられていたペンネーム欄には見知らぬ名前の記載があって、そのリンク先に飛ぶと既に何件かの短編小説が並んでいる。
古い順からひとつずつ開き読めば、ああと何となくすとんと落ちたような心地になった。
「……成程。私はゴーストライターだったのか」
彼が唐突に送り付けてきたメモと、自分が彼に送った文。それがこのページでひとつに繋がった。彼は彼の思いつく種を私の文で見たかっただけではなく、自分の名を冠して人に見せたがったのだ。それが優越感故か、名声を欲したが故か、別の思惑があるのかは本人に聞かなければ分からない。そうだとしても確かに、彼の種で育てた私の文は彼の名で評されている。それは紛う方ない事実だった。
ただ私はその事実を目の当たりにして、どうしてか怒りの感情が浮かぶこともなく、彼に寄せられた感想の数々にひとつひとつ目を通していた。文体が良い、構成が良い、表現が良い。そんな言葉の羅列に笑みが止まらなくなる。自分の評価ではなく、この人物にそれが集まっているのが何故かひどく嬉しさを覚えてしまっていた。
自分が書いたものが、自分ではない誰かを認めている。何故だろうか、自分の名で出している作品に対する承認欲求とは違った感情がそこにはひしめき合っていた。
だからこそ、とでも言えばいいかは分からなかったが。私は彼に、自分の作品を身勝手にサイトへ載せていることをあえて言及しなかった。もし私がそれを言い咎めてしまえば、彼はきっと作品をすべて消して私に手紙を送ってくることも辞めてしまうだろう。彼のアイデアが詰まったあのメモを元に私が文を書くことだってなくなってしまうに違いない。
それはあまりにも惜しいし、そんなことになってしまうくらいなら、いくらでも彼のゴーストライターとして筆を執り続けようと思った。彼と何かを作り上げる心地の方が、一人で書き上げるより幾分も楽しいことに気付いてしまった今の私にとって、彼の存在が無くなってしまうことの方が、遥かに損害だったのだ。
件の作品を見つけてから、数週間程後。さらりと夏が巡り落ちていった頃、自宅にとある一通の手紙が届いた。真白な便箋に包まれたそれに少しばかりの胸騒ぎと共に裏面を捲ると、そこには常の彼の名と共に見慣れない字が一行ほど増えていた。
なんだ、と薄い独り言と共に切った封の中からは、いつもの通りではない便箋が二枚ほど引き出されてくる。女性の風貌を纏ったその字面は、彼の母だと言った。
つらりと並んだその文字を滑るように読み始めた私は、は、と一瞬ばかりの音の後に息をひゅっと詰まらせた。
『先生におきましては、どうぞ、息子の葬儀に参列頂ければと存じます。ご多忙とは思いますが、どうしてもあの子の敬愛した方に一目、会っていただきたいのです』
死、という単語が、目の前を掠めていく。葬儀、参列、見送り。いや、けれど、と息を止めた私の双眸は、未だ文面をたどたどしくなぞっていた。
読み取るに彼は、転落死してしまったのだという。彼は細々とではあるが文を書き上げていたようで、それをとある友人によく見せていたのだと。感想を貰えるだけで喜び、尊敬する私のような物書きになりたいのだと何度も御母堂に零していた。
然しその友人は、どうやら彼の文才に何かしらの思いを抱いていたようだった。数日前のとある暮れ時、彼と友人は口論から喧嘩に発展。友人に突き飛ばされて身体を傾けた彼は、その背中を強く柵へとぶつけてしまった。そう、錆びきったとある橋の柵に、である。
軋み折れた柵は彼を乗せたまま、川底へと真っ逆さまに落下した。運の悪いことに前日雨が降っていたことで水かさの増していた川の中へ沈んだ彼は、終ぞ浮かび上がってくることはなかったのだと手紙には認められていた。件の友人は、それから一度も姿を見ていないのだという。
どうか、と乞われるように記された葬儀場は、然程遠くはない場所だった。日時も物書きをしている身には関係などない。ただ、すべての事柄を弾くように白んだ私の脳裏にはただ、嗚呼、という溜息ばかりが滲んでいた。
壊された、と咄嗟に思ったその感情が如何なるものなのか。今の私には、見当がつかない。
◇
おそらくば恙なく進んだ彼の葬儀は、淡々としているものだった。彼の御母堂は妙に線の細い方で、有難う御座いますと霞んだ声に私がなんて返したかはあまり記憶にない。ただ、遺影の真ん中で笑うその顔に、私が会いたかったのはあなただったのだろうかと文字面しか知ることのない彼を思い浮かべた。
昼過ぎにあった焼香の後、私は駅前で長らく時間を潰してから夜の街へと紛れるように転び出た。秋の暮れを匂わせる香りと寒さにスーツの裾を翻しながら、彼の御母堂から聞いた件の橋へと足を向ける。そこまで遠くはないと聞き及んではいたが、橋へと近付くにつれて車も人も通りが少なくなっていくさまが、ひどく寂れた印象を思わせた。
ああこれかと見改めた橋は、確かに古びた鉄骨だった。川岸へ危険を記す黄色いテープが風に乗ってたなびいては、夜の空気を撫ぜているのが見える。ふとその傍らに、人影が立っているのが見えた。学生服に身を包んだ姿はぽつんと川底を見つめており、そこで死した誰かを知っているような横顔を醸し出している。
刹那、私は咄嗟にそれが、彼と揉めたという友人ではないかと悟った。途端この足はかつりかつりとアスファルトに音を残しながら速度を上げていく。先程まで何も過ぎりやしなかったはずの白い頭の中が赤く染まり、そうして黒に塗り潰されていった。
私がいつも眺めていた封筒裏の名をぽつりと呟くと、私の存在と共にその一言に気付いたらしい影がはっと私を見て、それから恐怖に歪んだ表情を浮かべた。その瞬間、間違いなくその影が件の人物だと私の中ではっきり明確になる。
故に私の両手は、すっと震えることもぶれることもなく、その影の背を押した。
「私の人形を壊したのは、あなたでしたか」
何も考えることなく口から零れ出た言葉と共に、影は水底へと吸い込まれていった。ばしゃんと重たいものが落ちる音。悲鳴のようなものはなく、辺りには人の気配もなかった。
仇、というには拙い感情で、ただそれが何かと言われると、お気に入りのおもちゃを壊された腹いせに相手を殴ってしまった、といったような単純明快な心持ちの方が近く。ただ、そうしたからと言って、私が好んだあの種は何ひとつ帰ってこないのだと思うと、何とも言い難い感情に見舞われるばかりだった。
ふと掌に嫌な汗をかいていることに気付き、ぱたぱたとそれを扇ぎながらも、頭の隅で私は今であれば終電には間に合うだろうと思いつつ来た道を帰るためにくるりと振り返った。が、その一歩は縫い付けられたように動かない。──視線の先に、無言で佇む一人の青年の姿を見止めてしまったからだ。
いつから居たのか、なんて野暮なことさえ急に渇き始めた口からは出てこない。どう考えようとも、一部始終を見られていたに違いないからだ。先程まで自分が仕出かしたことに実感がなかったはずなのに、その双眸を見た途端殺人を犯したのだという感情に頭の上から爪先まで支配される。ただ、目の前の青年を消すためにもう一度人殺しを行えるほどの壮烈さは持ち合わせていなかった。
こつり、こつりと死刑宣告を告げられるかの如く、青年が私の元へと歩み寄る。暗がりに隠れた表情が橋元の灯りに照らされた時、私は音もなく喉奥を引き攣らせた。
「先生」
ただ一言。それに何故、という言葉さえ出やしない。
目の前にいる学生服を着た青年は、その双眸の光を細めて笑っていた。
「今晩は、はじめまして。先生」
真意は、黄金色の照明の袂で、影絵のように揺らめいていた。
◇
創作というものは、時折空を掴むように不明瞭だ。そもそも誰にも伝わりやしない物事を様々な方法を用いて表し、他者へと伝わるように表現したものだからだ。故に私はそれに取り憑かれ、長い年月を消費してもなお、離すことの出来ない筆を執り続けている。
元よりこの話も、そういう類のものだ。ひとりの馬鹿な男が、取り憑かれ、殺されることも壊れることも出来ないままで狂い続けている。強いて言えばその取り憑いているものが具現化されてしまったという、ただそれだけの話。
そして私は、それを良しとした。何故なら、結局のところ私が壊れたと嘆いていたものは別のものであり、それはそこに在り続けることを約束してくれたのだ。であるならば、未だ私の人形は存在し続けている。
否──もう筆を折ることも出来なければ、正気に返ることも出来なくなってしまった、というだけなのかもしれない。
「ッ、ふー……」
「お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様です……すみません、毎度毎度丸投げして」
「別に良いですよ。まあ、毎度来る度に汚してんのはどうかと思ってますけど」
「いや、執筆に注力するとどうにも……」
モニターから目を離し、ぐうっと背伸びをした私の後ろでがさりと音がする。振り返った視界の先で、既にここ数年のうちで見慣れた姿がゴミ袋片手に勝手知ったる顔で部屋の掃除をしているところだった。いつも任せきりで申し訳ないとは思いつつも、実際助かっているのも事実な節もある。まだ編集部に送っていない新作を見せることで彼はいつも喜んでくれるので、今回もそれで手打ちにしてもらおうと頭の隅で思うことにした。
過去に住んでいたこじんまりとしたアパートから既に引っ越して数年。現在のマンションは住み心地も良く快適だ。マンションを出ずともコンビニが併設されており、注文すると部屋まで届けてくれるシステムが一番有難かった。ただでさえ外に出ると誰に見止められるか分からないのだ、出来る限り自宅からは出たくないと考えていた故だった。
この部屋に訪れるのは、宅配の人を除けばただひとりだけ。合鍵を持ち、こうして時々身の回りの世話と、打ち合わせのためにやって来る彼のみ。──新進気鋭の小説家、彼その人だ。無論、その名を冠するのは私も含まれているけれども。
「あなた、この後インタビュー取材の打ち合わせじゃなかったですか? 大丈夫なんです?」
「一時間予定がずれ込んだって、今朝チャット送ってありましたけど」
「えっ」
「執筆にのめり込むのは良いですけど。バレて困るの、そっちでしょうが」
「……まあ確かにそうですが」
あの日を境に、世間から過度な期待を込められていた矮小な作家は、この世から存在しなくなった。数年前を境に行方不明になったと、世間ではそう報じられている。愚かな一物書きは、その身を破滅に導いて消え去ったのだ。そして今は、また別の物書きの中に内包されていた。
彼が彼であるならば、私もまた、『彼』である。
「今日、あと幾つ書くんです?」
「コラムが一本……と、あとは趣味のやつがもうひとつですね」
「ちゃんとご飯冷蔵庫に入れてあるんで、食べてくださいよ」
「分かってます」
「……」
「……? どうしました?」
あの日、別たれた黄金色の真実は、彼の名を冠する者の間でしか分からないものとして横たわっている。それは罪のように、それは罰のように。
ただそこに含まれる感情に、一滴の憧憬と独占がある限り。おそらく私たちは、二度と別たれることはないだろう。
それはまるで、喜劇のように。
「先生」
「はい?」
「書いたお話、読むの楽しみにしてますね」
「……ええ、勿論。楽しみにしていてください」
創作をする者は、すべからく操り人形である。
習作 朝河侑舞 @Asaga_yuma
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