第3話
奉行のジレンマと「毒樹の果実」
【堂羅デューラ(火盗改)サイド】
黒煙が空を覆う大伝馬町。
焼け落ちた豪商「越後屋」の火事場は、凄惨な状況だった。
「……ひどい」
デューラは、現代の検察官としての冷静さを必死に保ちながら、焦げた柱と化した現場を検分していた。部下たちが遺体の収容と、野次馬の整理に追われている。
そこへ、岡っ引きの早乙女蘭が、どこからか嗅ぎつけてきたかのように現れた。
「長官様。どうも、きな臭い『噂』が立っておりやす」
「また噂か」
デューラは、コーヒー(の代わりに口に含んだ苦い白湯)を吐き出しそうな顔で答える。
「こいつぁ、ただの噂じゃござんせん」
蘭は、熱気が残る現場に似合わぬ涼しい顔で続けた。
「越後屋には、最近クビになった『庄助(しょうすけ)』という手代がおりましてね。なんでも、番頭と揉めて、ひどい追い出され方をしたとか。『燃やしてやる』と捨て台詞を吐いていた、なんて話も……」
「……その庄助はどこにいる」
「さあ? 火事と同時に姿が見えねえそうで」
デューラの目が、わずかに光る。
「(動機、不審な失踪……状況証拠としては十分だ)」
「全員、聞け! 手代・庄助の行方を追え! ただし、捕縛する際は――」
デューラが「(令状も何もないが)強引な真似はするな」と言い終わる前に、血気盛んな火盗改の部下たちが「おう!」と叫び、散っていく。
捜索は、早かった。
半刻(一時間)もしないうちに、庄助は焼け出された長屋の片隅で震えているところを捕縛された。
「長官! こいつが庄助です!」
「俺じゃねえ! 俺はやってねえ!」
詰所に引きずられてきた庄助は、恐怖に顔を歪ませていた。
「俺は、こいつの『自白』が聞きたい。ただし、手荒な真似は――」
デューラが制止する声は、またしても部下の怒声にかき消された。
「うるせえ! てめえのせいで、何人死んだと思ってやがる!」
デューラが別の報告で詰所の奥に入った、わずかな間のことだった。
戻ってきた時、庄助はすでに「自白」していた。
「……俺が、やりました。越後屋が憎くて……火をつけやした」
床に突っ伏し、顔を腫らした庄助の姿。
そして、満足げに腕を組む部下たち。
「長官。きっちり『吐かせ』やしたぜ」
「……貴様ら」
デューラのこめかみに青筋が浮かぶ。
「(拷問……! この自白は、法治国家では証拠能力を失う!)」
だが、ここは江戸。火盗改の部下にとって、これは「迅速な職務遂行」であり、「正義」だった。
「……いいか。そいつを、南町奉行所へ突き出せ」
デューラは、どうしようもない無力感と、江戸の「悪」の早すぎる裁き方に、奥歯を噛みしめた。
【佐藤健義(奉行)サイド】
佐藤健義にとって、南町奉行所での「初お白洲」は、まさに悪夢の始まりだった。
(なぜ私が、こんな前近代的な場所で、人の生き死にを……)
彼は、奉行の装束(記憶にはあるが、肌には馴染まない)の重みに耐えながら、目の前の男――放火犯・庄助を睨み据えた。
「――面(おもて)を上げい!」
雪之丞が、いつもよりは少しだけマシな、だが相変わらず面倒くさそうな声で叫ぶ。
庄助は、顔に生々しいアザを作り、震えながら顔を上げた。
佐藤の隣には、火盗改長官としてデューラも並んでいる。その顔は、煮え切らない怒りで歪んでいた。
「さて、この度の越後屋火災。火盗改の調べにより、犯人はこの庄助。相違ないな?」
陪席の役人が形式的に尋ねる。
「は、はい……」
「証拠は?」
佐藤が、短く、鋭く尋ねた。
火盗改の役人が、得意げに胸を張る。
「はっ! 証拠は、こやつの『自白』にござんす! 越後屋をクビにされた腹いせに火をつけたと、洗いざらい白状いたしました!」
佐藤は、庄助の顔のアザに目をやった。
「……その自白。いかにして取った?」
「へ?」
役人はきょとんとした。質問の意味が分からない、という顔だ。
「ですから、そりゃあもう、火盗改のやり方で……ちいとばかし『石』を抱かせたり(拷問)、『海老責め』にしたり……」
その言葉を聞いた瞬間。
佐藤の中で、何かが切れた。
それは、現代の法曹家として、絶対に譲れない一線だった。
「――馬鹿者ッ!!」
奉行所全体が、佐藤の怒声に凍り付いた。
雪之丞が、眠たげだった目をわずかに見開く。デューラが「(……やはり、言ったか)」と苦い顔をする。
「いいか、よく聞け!」
佐藤は、お白洲にいる全員――デューラさえも睨みつけながら、断言した。
「拷問によって得られた自白に、証拠能力は無い!」
「……は?」
「それは『違法捜査』であり、『デュー・プロセス(適正な手続き)』を無視した、野蛮な行為だ!」
「でゅー……?」
訳の分からない横文字に、役人たちが混乱する。
「その違法な拷問(木)から得られた自白(果実)は、法廷(ここ)を汚す『毒樹の果実』だ! 証拠として、一切採用することはできん!」
佐藤は、庄助に向かって言い放った。
「よって、この自白は棄却する! 庄助、貴様の放火を立証する『まともな証拠』は、この場に存在しない!」
「……え? え??」
庄助が、一番混乱していた。
お白洲は、大パニックに陥った。
「お奉行様が、気でも狂ったぞ!」
「放火犯を『無罪』にするってのか!?」
「江戸の町を燃やした奴だぞ!」
怒号が飛び交う中、佐藤健義は「法と秩序」を守るという信念のもと、たった一人、江戸の「常識」すべてを敵に回していた。
雪之丞は、その「狂った」上司の横顔を見ながら、深々とため息をついた。
「……あーあ。こりゃとんでもねえ奉行様が来ちまった。面倒くせぇ……」
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