第4章 風を捕らえる手
昼と夜のあいだ、丘は最も静かになる。
葡萄の葉が息を止め、空気が薄いガラスのように張りつめる。
その静けさを、アドリアーノは待っていた。
わたし――ピッコロは、蔵の窓枠に止まっていた。
彼の前の作業台には、細い管のついた瓶が一本。
瓶の中には何もない。
けれど、彼の表情は何かを見ている人のそれだった。
「風を捕まえるには、まず“静けさ”を瓶に吸わせるんだ。」
アドリアーノの声は低く、慎重だった。
その声に呼応するように、外の風が少し弱まる。
瓶の口が、空気を待つようにひらいている。
わたしは羽をたたみ、息を潜めた。
時間の流れまで止まったような一瞬――
そのとき、小さな葉が舞い込み、瓶の中に吸い込まれた。
「……入った。」
アドリアーノの目がわずかに光る。
「これで、風の息を封じ込めた。」
彼は瓶の口を封蝋ではなく、
透明なシリコンの栓で閉じた。
火を使わない封印。
炎の記憶を避け、光だけを頼りに手を動かす。
彼の手の動きには、もう迷いがなかった。
それは作業ではなく、祈りのようにゆっくりとした。
◆
蔵の奥には、六つの瓶が並んでいた。
ひとつひとつ、異なる方角の風を詰めている。
北風の瓶には、乾いた埃の匂い。
東風の瓶には、果実のような酸。
西風の瓶には、雨上がりの金属の香。
そして南風の瓶――
それだけは、まだ空のままだった。
「南は、赦しの風だ。」
アドリアーノがつぶやく。
「この風を捕まえたとき、きっと味が戻る。」
外では、空が紫に沈みはじめていた。
遠くの村の煙突から、白い煙がゆっくりと上がる。
その煙が西から東へ流れ、やがて南へ消えていく。
わたしは屋根に出て、羽を広げた。
南の風を待つ。
それはいつも、遅れてやってくる。
昼の熱を抱え、夜の匂いを纏い、
人の言葉の届かない場所から現れる。
◆
日が落ち、蔵の中に光が戻る。
アドリアーノは瓶の列の前に立ち、
手元の電灯を傾けた。
光は揺れず、ただ瓶を照らしている。
「風を光に通す。
そうすれば、燃えずに残る。」
電灯の白が瓶の曲面を撫でる。
わずかな静電のような光が、瓶の内側で踊る。
小さな音が生まれた。
――トン。
アドリアーノの口元がわずかに笑う。
「聞こえるか? これが、風の息だ。」
蔵全体が、静かに震えた。
瓶の列が共鳴し、光の筋が壁を走る。
風が、形を持ちはじめている。
その瞬間、外の風が一気に吹き込んだ。
南の風。
葡萄の香りをまとい、蔵の光を包み込む。
瓶の口がひとつ、わずかに開いた。
――ゴウン。
低く、深い響き。
丘が息をした。
アドリアーノは目を見開く。
「……捕まえた。」
わたしは羽を震わせた。
風が瓶に吸い込まれ、光がその中で渦を巻く。
炎はない。
けれど、空気が微かに温かい。
まるで火が風に赦しを乞うているようだった。
瓶の中に、小さな光の渦が生まれた。
赤でも青でもない――
“風の色”をした光。
アドリアーノは息をつき、囁く。
「これが、再生のはじまりだ。」
風が止み、丘に沈黙が戻る。
瓶の中で、何かが眠っていた。
その眠りは味のない夢。
けれど、その夢の底で、
風は確かに息をしていた。
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