第4章 風を捕らえる手

昼と夜のあいだ、丘は最も静かになる。

葡萄の葉が息を止め、空気が薄いガラスのように張りつめる。

その静けさを、アドリアーノは待っていた。


わたし――ピッコロは、蔵の窓枠に止まっていた。

彼の前の作業台には、細い管のついた瓶が一本。

瓶の中には何もない。

けれど、彼の表情は何かを見ている人のそれだった。


「風を捕まえるには、まず“静けさ”を瓶に吸わせるんだ。」

アドリアーノの声は低く、慎重だった。

その声に呼応するように、外の風が少し弱まる。


瓶の口が、空気を待つようにひらいている。

わたしは羽をたたみ、息を潜めた。

時間の流れまで止まったような一瞬――

そのとき、小さな葉が舞い込み、瓶の中に吸い込まれた。


「……入った。」

アドリアーノの目がわずかに光る。

「これで、風の息を封じ込めた。」


彼は瓶の口を封蝋ではなく、

透明なシリコンの栓で閉じた。

火を使わない封印。

炎の記憶を避け、光だけを頼りに手を動かす。


彼の手の動きには、もう迷いがなかった。

それは作業ではなく、祈りのようにゆっくりとした。



蔵の奥には、六つの瓶が並んでいた。

ひとつひとつ、異なる方角の風を詰めている。


北風の瓶には、乾いた埃の匂い。

東風の瓶には、果実のような酸。

西風の瓶には、雨上がりの金属の香。

そして南風の瓶――

それだけは、まだ空のままだった。


「南は、赦しの風だ。」

アドリアーノがつぶやく。

「この風を捕まえたとき、きっと味が戻る。」


外では、空が紫に沈みはじめていた。

遠くの村の煙突から、白い煙がゆっくりと上がる。

その煙が西から東へ流れ、やがて南へ消えていく。


わたしは屋根に出て、羽を広げた。

南の風を待つ。

それはいつも、遅れてやってくる。

昼の熱を抱え、夜の匂いを纏い、

人の言葉の届かない場所から現れる。



日が落ち、蔵の中に光が戻る。

アドリアーノは瓶の列の前に立ち、

手元の電灯を傾けた。

光は揺れず、ただ瓶を照らしている。


「風を光に通す。

 そうすれば、燃えずに残る。」


電灯の白が瓶の曲面を撫でる。

わずかな静電のような光が、瓶の内側で踊る。

小さな音が生まれた。

――トン。


アドリアーノの口元がわずかに笑う。

「聞こえるか? これが、風の息だ。」


蔵全体が、静かに震えた。

瓶の列が共鳴し、光の筋が壁を走る。

風が、形を持ちはじめている。


その瞬間、外の風が一気に吹き込んだ。

南の風。

葡萄の香りをまとい、蔵の光を包み込む。

瓶の口がひとつ、わずかに開いた。


――ゴウン。


低く、深い響き。

丘が息をした。


アドリアーノは目を見開く。

「……捕まえた。」


わたしは羽を震わせた。

風が瓶に吸い込まれ、光がその中で渦を巻く。

炎はない。

けれど、空気が微かに温かい。

まるで火が風に赦しを乞うているようだった。


瓶の中に、小さな光の渦が生まれた。

赤でも青でもない――

“風の色”をした光。


アドリアーノは息をつき、囁く。

「これが、再生のはじまりだ。」


風が止み、丘に沈黙が戻る。

瓶の中で、何かが眠っていた。

その眠りは味のない夢。

けれど、その夢の底で、

風は確かに息をしていた。

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