ジャガーとねこちゃんと彼女のハンドル

 浦和の昼下がりは、あいかわらず淡々としていた。

 太陽だけが機嫌よく、ジャガーXJのボンネットに、ためらいのない光を落とす。

 磨いた面に空がふたつ映り、俺はそれだけで気分がすこし軽くなった。


 そのとき、小さな出来事が起きた。

 事務所のそばで、杖のおばあさんが立ち止まり、


 よた、よた


 と俺のクルマに近づいてきた。

 エンブレムを見つめ、目をほそめる。


「まぁ、かわいいねぇ。この“ねこちゃん”。ピカピカだねぇ」


 そう言って、やわらかくなでていった。


 ……ネコじゃないけどな。

「こりゃ、ご利益がありそうだ」


 充希は商店街を歩いていた。

 袋をさげた手が、そっとこわばっていた。

 運転のことを思うだけで、胸の奥で息がほどけなくなる。

 逃げてきた自覚もあったが、もう限界が近かったという。


 きゅうりを並べていた八百屋の店主が、ふと声をかけたらしい。


「充希ちゃん、運転こわいんだって?

 あの道は車多いしねぇ。でも、あんたなら大丈夫。よく考える子だもの」


「落ち着いて相談できる人……知りません?」


「あるよ。あそこの角の細道にある事務所。マイクってやつだ。

 クセはあるけど、変な人じゃない」


 その “変な人じゃない” のひと言が、胸にそっと触れるようにゆるんだ。


 次の文房具屋では、店主がめがねの奥から笑った。


「萬屋さんなら安心よ。聞くのが上手なの。しかもイケメンだしぃ」


 その言葉が、ぽとりと落ちた。

 いま求めていたのは、“聞いてくれる誰か”だった。


 商店街の出口の細い道に、やわらかな光がさしていた。

 袋を握りなおす。

 足はまだ震えていたが、逃げる理由は半分だけほどけていた。


“行ってみてもいいかもしれない”

 そう思った瞬間、胸の内がそっと広がったという。


 事務所の前に立つと、色の抜けた扉が、不思議なくらい静けさをまとっていた。

 充希は小さくかがみ、ノックした。


「……すみません。車のことで相談があって……」


 扉がきしむ。


「…すみません…」


「ねこちゃんなら売れねぇぞ」


「はにゃ、そういう意味ではなく……」


 不安をかかえた目元なのに、不思議と澄んでいて、どこか芯が見えかくれした。


 袋を胸元でぎゅっと抱えながら言った。


「運転が……こわくて。免許はなんとか取れたんですけど、

 道路に出ると体が固まってしまって」


 俺はしばらく充希を見てから言った。


「じゃあ乗ってみるか。“ねこちゃん”に」


「猫?……?」


「さっきのおばあさんが、そう呼んでた。かわいいって」


「は、はぁ……」


「これがネコちゃんなんですか?」


「らしいな。行ってみるか」


 充希は状況についていけていなかったが、うなずいた。


「…お願いします」


 助手席に充希を乗せ、浦和の外れまで静かに走った。

 車の流れと、充希が緊張をほどく気配を、そっとそろえる。


 ブレーキを踏む “間”。

 ウィンカーを出す “息”。

 右折で拾う “相手の気配”。


 車は力じゃない。阿吽で動く。


 動きと気配が重なり、互いの沈黙がひとつに落ち着く。


 広い駐車場に着くころには、充希の肩のこわばりもすっかり抜けていた。


 俺はハンドルを差し出した。


「……いいんですか? こんな高そうな車……」


「保険入ってるからな。

 それより、自分を信じる練習だよ」


 震える手でギアをDに入れる。

 吸気の鼓動がゆっくり整い、車体が小さく前へ進んだ。


「目線は近くじゃない。“これから行く場所”だ。

 曲がる前に心で決める。体はあとからついてくる」


 何度も失敗し、涙がにじんだ。

 それでも充希は弱音をはかなかった。


 俺は必要なときだけ言葉を落とす。


「ハンドルは反射じゃない。意志だ」

「ブレーキは逃げ道じゃない。安心をつくる道具だ」

「スピードは速さのためじゃない。間合いを測るためのものだ」


 街灯がすべて灯るころ、彼女はひとつ、長い息をそっとこぼした。


「休憩にしよう」


 充希は水面から顔を出したみたいに、静かに深く空気を取り込んだ。


「車って、こわいだけじゃないんですね……ちょっとおもしろいです」


「自由だからな。

 でも自由には責任がつく。

 だからこそ、楽しめるんだよ」


 その言葉に、充希ははにかんだ。


 休憩のあと、運転しながら話してくれた。

“ねこちゃん”のエンジンをかけた瞬間、ハンドルが自分に向かってくる。

 ギアのボタンは宇宙船みたい。

 シートが自分に合わせて動いたと、子どもみたいに喜んでいた。


 今日だけで、充希はずいぶん成長した。


「じゃ、帰ろうか」


「本当にありがとうございました」


「来週、西署の裏で講習会がある。教官は口がうるさいけど、行ってみるのもいい」


「行ってみます。ありがとうございます」


 表情は、すっかり明るかった。


「家まで送るよ」


「あ、いや、その、すみません」


「ひとつ忠告。

 慣れても、安全運転な」


「はい。

“ねこちゃん”って、私も呼んでいいんですか?」


「好きに呼びなよ。名前より、中身のほうが大事だ」


「私も子ねこちゃん買います。小さいの」


「買うときゃ付き合ってやるよ」


 群青の空を、XJは静かに走った。

 ただの黒い車が、今日は充希の胸にそっと火をつけた “黒豹” だった。


 充希の心に “ねこちゃん” がいれば、それで十分だ。

 ありがとな、ねこちゃん。


 緊張つづきで疲れた充希が、胸の奥で気持ちを静かに整えられるように。

 俺はゆっくり、家路へとハンドルを切った。

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