商店街は、夜へ沈みかける直前の、ほのかな吐息のような柔らかさに包まれていた。

　貴美子は、三つの鞄を抱えて歩いていた。

　肩のバッグは、長い年月の相棒。

　手提げの布袋は、慌ただしい一日の名残をそのまま詰め込んでふくらんでいる。

　背中のリュックは、十年間背負ってきた重さを静かに受け止め、しなりを吸い込むように乗っていた。

　六十年の時間は、自然と人に荷物を増やすものらしい。

　信号待ちの影の中、ふとリュックの隙間から小さなメモ帳がひらりと落ちた。紙の薄さゆえに、夕映えをひとすくいまとって、ゆっくりと舗道へ滑り降りていく。

　その軌跡に、藍の袖が影のように伸び、指先が迷いなく拾い上げた。

「危ねぇな。落としたら、探すのが大仕事になるところだったぜ」

　その声は、俺のものだった。

「……ありがとうございます」

「字が綺麗だな。几帳面で……ちょいと詰め込み気質の字だ」

　さりげない言葉に、貴美子は驚いたように顔を上げた。

　俺は軽く会釈した。

「萬屋マイク。通りすがりの探偵だよ」

「……探偵さん？　まるで占い師のようですわ」

「占いはやってねぇが、人の性格を当てるのは、まぁ得意らしい」

　夕暮れの光が、俺のコートの端を淡く染めていた。

　貴美子は、そのゆるいきらめきを確かめるようにしばらく見つめていた。

「鞄、多いな。三つ持ちはベテランだ」

「若い頃からなんです……持っていないと落ち着かなくて」

「それも、その人の“生きる姿勢”だよ」

　信号が静かに青へと変わり、その色は貴美子の肩のこわばりをやさしく解いていった。

「珈琲でも飲んでくか」

「……よろしいのですか、私なんかが」

「いいよ。来る人は拒まねぇ主義でね」

　路地へ入ると、やわらかな空気が満ちていた。

　奥には、小さな木の扉。

　手描きの文字で『萬屋マイク探偵事務所』と記されている。

　喫茶店と見まちがわれるのも頷けるたたずまいだ。

「入んなよ。嫌ならすぐ帰ればいい」

　扉を押すと、焙煎した豆の香りがひそやかに満ちた。

「そこ座んな。鞄、いったん全部降ろしな」

　貴美子が三つの鞄を床に置いた瞬間、長く染みついていた重さが、ひと息ぶんだけ軽くなった。

「定年、最近だろ」

「……どうして、分かるのですか」

「“心身が空っぽで疲れてる”って顔してっから」

　その言葉に、貴美子は小さく笑った。

　笑いとともに胸の奥の固さが、ひとつ音もなくほどけていく。

「六十まで働きました。やっと自由だと思ったのに……

　自由って、こんなに心細いものなのですね」

「道幅が急に広くなっただけさ。これからの歩き方は、自分で決めりゃいい」

　温かいカップを渡すと、その熱が貴美子の指先に静かに戻っていった。

「やっぱり……マイクさん、占い師みたいですわね」

「ただのお節介探偵だよ。ほら、鞄、ほどこうぜ」

　貴美子はうなずき、三つの鞄を開いた。

　古い手帳、新しい手帳。

　折れたレシートの束。

　使わなくなったポイントカード。

　退職前の控え。

　読まれず残った手紙。

　半分だけ残った飴。

　壊れたボールペン。

　贈り主を忘れたキーホルダー。

　通帳、化粧ポーチ、タブレット。

　くしゃくしゃのおしぼり。

　貴金属の小袋。

　机に並んだそれらは、貴美子の六十年を裏側から支えてきた、小さな証しの群れだった。

　ふっと照明が落ち、部屋が淡い影に包まれる。

「おっと……停電か。たまにあるんだよ、ここ」

　俺は引き出しから懐中電灯を取り出し、小さな光を灯した。

　細い光は、机上の品々をやさしく露出させる。

「……暗いと、余計にいろいろ見えてしまいますわね」

「そういうもんさ。陰影は、いらねぇもんを消す」

　光の当たらない手元を見つめながら、貴美子はゆっくり心和む。

「……不思議ですわ。怖いはずなのに、落ち着いてしまって」

「大切なものを分ける前の、ちょっとした精神統一だよ。すぐ明るくなる」

　ぱちん、と音を立てて照明が復帰し、白い光が部屋を満たした。

　貴美子は眩しそうにまばたきした。

「戻りましたわ」

　俺は机に広がる品を見わたした。

「明るさの中と、暗がりと。両方から見て整理するのも悪くねぇかもな」

「私……選べるでしょうか。

　全部、大事にしてきたものなんです……

　でも今は、何が必要で、何が私を縛っているのか……」

「人生は“捨てろ”なんて急かさねぇよ。

　いまのあんたに合うもんだけ、選べばいい」

「選べるさ。六十年重ねてきたんだ。

　その重さは、弱さじゃねぇ、誇りだよ」

「……私は、何を持っていけば」

　俺は花柄の箱を差し出した。

「未来に必要なもんだけだ。それ以外はここに置いとけ。

　捨てなくていい。過去はここで預かっとく」

「思い出の避難箱だ。入れたいもんだけ入れな。

　しばらくここで休ませてやる……飲み屋のボトルキープみたいなもんさ」

「緊張と緩和……コントラストですかね」

「しゃれたこと言うじゃん。

　まあ、このタイミングの停電は……なんか意味あるかもな」

　貴美子は一つひとつを丁寧に触れ、選んでいく。

　レシートは端へ。

　手紙は封を開けず箱へ。

　飴も、壊れたままそっと入れる。

　残った鞄には、新しいノートと、これからに必要なものだけが並んだ。

「……軽くなりましたわ」

「見りゃわかる。肩の線が、ちゃんと前向いてる」

　貴美子は胸の奥で息を合わせる。

「私……何かを始めたいのです。

　何ができるか分かりませんけれど……

　声を使うことを、試してみたい気がいたします」

「いいじゃねぇか。読み聞かせでも朗読でも。

　あんたの声なら、届くよ」

「本当に……？」

「本当だよ。俺、嘘つくの苦手でね」

　外へ出ると、空気はほのかに甘かった。

　街灯が足元に薄い影を落とし、その先に静かな道が伸びていた。

「貴美子。あんた、今日……誕生日みてぇな顔してるぜ」

「まぁ……そんなふうに見えますの？」

「見えるさ。自由に迷って、自由に選び直した人の顔だ」

　三つの鞄のうち、二つは驚くほど軽くなっていた。

「まずは、読み聞かせの場所を探してみます」

「いいねぇ。その一歩、自分で見つけたんだし」

　貴美子は静かに顔をほころばせた。

「これからの私は……今日よりもう少し、自分を好きでいたいです」

　俺は煙草の火を弾いた。

「似合うぜ。その生き方、あんたに」

「……やっぱりマイクさん、占い師みたいですわ」

「ちげぇっての」

「でも──

　私の未来を、そっと照らしてくださいました」

「読み聞かせ、マイクさんの事務所で練習させていただきますわ」

「好きにしな。……気ぃつけて帰れ」

　貴美子は丁寧に頭を下げ、やわらかな足取りで角を曲がっていった。

　未来は、そのかすかな息づかいを、ようやく見せはじめていた。