世界一美しい妻と、世界一不器用な夫の愛し方
DONOMASA
第1話
泡からの降臨
泡瀬 恵(あわせ めぐみ)は、自分が「美の女神」だとは、夢にも思っていなかった。どちらかと言えば、地味だと自分では思っている。ただ自慢は、夫の太郎が作るパンがやたらと美味いことくらいだ。
その日も、恵は太郎が早朝から捏ねた焼き立てのパンを前に、ぼんやりとスマホを構えた。
「太郎くん、またこのパン、形がいびつだよ。まるで焼くのに失敗したレンガみたい」
「失敗じゃないよ、恵。これは『大地の素朴な叫び』を表現してるんだ」
「はいはい、わかったわよ、芸術家さん」
恵はパンを皿に置き、照明の下でスマホをパシャリ。パンの不器用さを笑い飛ばす意図で、SNSにハッシュタグを付けて投稿した。
「#映えないけど夫作 #パンは素朴な叫び #今日の朝食」
数時間後、会社のデスクでスマホを確認した恵は、椅子から落ちそうになった。
通知欄が、見たこともない数のハートマークとコメントで埋め尽くされている。
「え、なにこれ。パンがバズったの!?」
慌ててコメント欄を見ると、そこにはパンへの言及はほとんどなかった。
『パンより、背景に写り込んだ手の甲の美しさが神レベル…!』
『この光の加減、まさかプロ?加工アプリなしでこの透明感は、リアル女神降臨』
『誰かこの女神、特定求む!』
恵は愕然とした。彼女が意図して投稿したのは、夫の作ったパンという「現実の素朴な叫び」だったはずだ。しかし、写真を見た人々が勝手に「背景に写り込んだ恵の肌の美しさ」という、予想外のデジタルデータに焦点を当てたのだ。
恵は、何一つ努力もせず、たった一枚の写真の偶然の光のせいで、「デジタル美のカリスマ」として、インターネットという名の海から祭り上げられてしまった。彼女の人生に、「美の女神体質のバグ」が仕込まれた瞬間だった。そして、時がたつにつれ、手だけでなく自分自身を写し賞賛を得る快楽に溺れていった。
太郎(夫)は、恵がデジタル上で「女神」として祭り上げられたことなど、全く気にしていなかった。彼は相変わらず、恵のために手作りのパンを焼き、趣味の手製のフィギュアの組み立てに集中していた。
「恵、これ、新作だよ。『恵みたいな理想の妻』をイメージして作ったんだ。この可動域、完璧だろ?」
夫が見せてきたのは、関節がカクカク動く、顔の造形がどこかチープなフィギュアだった。
「ふ、ふふ……ありがとう、太郎くん。すごいね、可動域」
恵は、その不器用な愛に心の中で溜息をついた。SNSを開けば、彼女のデジタルアイコンには、毎日何千もの完璧な賛辞が寄せられる。
『恵さんの美しさこそ、僕の生きる最高のモチベーションです』
『あなたの笑顔は、この世のすべての芸術を超越しています』
そして、中でも恵が惹かれたのは、「アレス_戦神」というユーザーだった。彼は、マッチングアプリの中でも連絡を取り合う、完璧な肉体とロマンチックなセリフを持つ理想的な男性だった。
アレスの送ってくる完璧な賛辞に、太郎への愛情、恵は、二つの愛の間で揺れ始めた。
(太郎くんは、私じゃなくて、私みたいなフィギュアを見ている。でも、アレスさんは、私の美しさそのものを崇拝してくれる……)
ある日、夫の太郎が言った。「恵、最近スマホばっかり見てるだろ。デジタルに心を奪われすぎだよ」
太郎は、作業部屋から、アルミホイルを何重にも巻いた手製の箱を持ってきた。
「これは、電波を遮断するアルミボックスだ。恵が寝るとき、この中にスマホを入れておけば、デジタルなノイズに邪魔されずに休めるだろ?」
太郎の愛は、「デジタルな不貞行為」を物理的に防ごうとしたのだ。
しかし、恵は夫が寝静まった後、アルミボックスに入れたスマホの他に、隠しておいた二台目の隠しスマホを取り出した。画面には、アレスからの新しいメッセージが届いている。
『今夜も美しい君に会いたい』
恵は、夫の素朴な愛を無視し、デジタル上の理想の愛へと、静かにログインした。
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