君は友達の恋人

夏野夕方

君の隣(1)

 人生で難しいことは、いくつかある。お金を多く稼ぐこと、家族を手に入れること、自分の才能を見つけること、何かの種目で一番を取ること――。

 人の数だけ欲は存在し、それを手にできない人がいる。どんなに欲しくても、どんなに頑張っても、手に入らないものがある。

 それは、人の気持ちだ。

 私は、好きな人の一番好きな人になることができない。どんなに着飾っても、どんなに良い子に振舞っても、どんなに有能かをアピールしても、自分の弱さをさらけ出して見せても。一番欲しい言葉や一番欲しい立場も、その気持ち一つで、手に入れることはできなかった。

 私の心は、こんなにもあなたに揺れ動くのに。私の気持ちは、あなたの苦しみを一つも取ってあげられない。

 ――私は、私という存在が心の底から憎い。


 私立の中学校に通う、二年二組の津村瑠姫つむらるきは、部活動中に家庭科室の窓からグラウンドをじっと見つめた。野球部の揃った掛け声が、元気よく聴こえてきたからだ。汚れているボウルを持ったまま、その様子を見ていると、部長の浅川が瑠姫の小さな肩をがっしりと掴んで、一緒に窓の外を見た。その唇はニッと弧を描いて、瑠姫の視線の先を確信めいた瞳で捉えている。

「あらあら、愛しの彼ですか?」

「毎回言うが、ここからじゃ豆粒で見えないだろ」

 部長の声につられて、後輩の面倒を見ていた副部長の増田が、隣にやってきて細い目をしながら、一緒にグラウンドを見つめた。

「いますよ!」

 瑠姫は、指を差した。二人は目を凝らして首を傾げて苦笑いする。

「やっぱ見えないわ」

「いくらイケメンでもね~。でもさすが津村ちゃん」

「さっさと片づけて帰ろうぜ~」

 荒っぽい口調で増田は、部員たちに片付けをするように指示を出した。瑠姫も、いつまでも見ていたい気持ちを抑えながら、作業に入る。次第に、その声は遠くなっていった。

 部活が終わると、いつも通り優しい先輩たちに挨拶をして、急いで昇降口に向かう。そして靴を履き替え、暗くなっていく空を見上げながら、グラウンドのフェンスに走った。グラウンドには誰もおらず、野球部の部室からはたくさんの部員が出てきた。

 ――違う、違う……。

 出てくる人たちの顔を確認しながら、この世で最も好きな、幼馴染の畠仲永人はたなかえいとが出てくるのを待つ。

「あ、津村さんだ」

 部員の一人が瑠姫の苗字を呼んだ。同じ二年生だということしか知らない。他の部員も瑠姫を見て頬を緩めて近寄ってくる。

「津村さん、今日もかわいいね!」

「永人ならもうすぐだと思う」

「あ、出てきた。おーい、永人! 津村さん!」

 瑠姫はその場から二歩下がって、部員の影から永人を視認する。瞬時に頬が綻ぶ。

「永人、お疲れ」

 永人は色素の薄い瞳を和らげ、小走りで瑠姫の前に立った。

「瑠姫。お疲れ」

 ――私はこの人が好きだ。

 誕生日は、八月十八日。獅子座。二年一組、出席番号二十三番。身長百七十センチ。体重不明。少し人より色素の薄い瞳と、猫みたいな軟らかい髪の毛が特徴的。好きな食べ物は漬物で、特にキュウリが好き。嫌いな食べ物はキノコとチョコレート。好きな科目は英語、嫌いな科目は数学。友達は多いほうで、中学からいろんな女の子に告白されるほどの整った顔をしている。

 永人は、百六十五センチの瑠姫に少し近づいて、見下ろした。

「今日は、何を作ったの?」

「オリジナルドレッシング」

「相変わらず、変なのばっか作ってるんだね」

「そうでもないよ? 油にも相性があるんだからね」

「へえ、油ってオリーブオイルとサラダ油以外にあるんだ」

「死ぬほどあるよ」

 永人はふっと笑みを零した。

「じゃあ、帰ろうか。みんなまた明日」

「いいなぁ、永人。津村さんと帰れて」

「ほんとほんと、こんなかわいい幼馴染がいて羨ましい」

 永人は「ハハハ」とだけ言って、視線を一定に留めた。あとからやってくる人を待っているのだろう。

 現れたのは、波川平介なみかわへいすけ。永人と同じ一組で、永人より全体的に少しシャープな顔つきをしていて、永人より少し背の高い。興味のあること以外には無関心無表情で、女子生徒からの告白が絶えないというのに、野球一筋で目移りしない硬派な男だ。

 波川は瑠姫を視界に入れて、疲れて欠伸をしようとしていた口を途中でやめて呑み込んだ。

「じゃあね、平介」

「お、おう。津村さんも」

「……あ、はい」

 瑠姫は永人に合わせて、一緒に歩きだした。そして、同時に校門を出た。

 永人との距離は十五センチくらい。周りはこの距離を、「恋人」と呼ぶ。私たちは、この距離を「友達」と呼ぶ。それはいつまでも変わりなく、この人生が終わるまで続く。

 ――私は、私を呪っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る