頭犬と体犬

オカワダアキナ

頭犬と体犬

 ときどきリューさんの家に泊まりに行った。リューさんというのは母の高校時代の友だちで、漫画を描いて本を作り、コミケで売っていた。リューさんが「修羅場」になると母はトーン貼りとかベタ塗りとか手伝いに行った。

 わたしも一緒に行くのは邪魔だったと思うが、まだ小さかった。母は父と離婚するちょっと前で、祖母とも折り合いが悪かった。

 リューさんは実家暮らしで、両親と犬と住んでいた。犬にはぜったい触らないでと母が言った。リューさんの家の犬だが、そういうわたし宛の注意事項は母から伝えられた。リューさんは何か補足するみたいなことを横から言った。大柄でパーマ頭のリューさん。

「人間が嫌いだから確実に噛むよ」

 確実にというのはリューさんの口癖だった。確実に眠いとか確実に病むとかいつも言い、そういう言い回しはしばしば母もしていた。ああリューさんのがうつったんだなと、手品の種明かしを見たような気持ちだった。

 犬の名前はすずといった。できるだけすずに気づかれないようにしてと母は言った。すずは二階には来ないから、トイレのときだけ気をつけて。まるでゲームのモンスターみたいな言い方だった。トイレ一階にしかないからごめんねとリューさんは付け加えた。

 たしかにすずはいつもウーウー唸っていた。台所に柵がしてあり、トイレを借りるとき目が合った。鋭い牙を剥き出しにして、いまにも飛びかかってきそうに怒り狂っていたが、決して柵を越えてくることはない。というのもすずは頭と首だけの頭犬で、胴と足の体犬はべつのところにいた。

 そのころ頭と体を分けるのが流行っていた。体犬はものを食べないし吠えない。月に一度の栄養注射だけでいい。犬というのは頭と体をべつべつにしても痛みはないし、健康に影響はなく、ばらばらに生きていけるとされていた。頭犬はうるさい。頭犬を世話するリューさんは貧乏くじだったろうか。


 リューさんの家は崖下にあり、絶壁のような斜面に並んだ住宅地だった。家のすぐ裏はコンクリートの擁壁で、緑のつたが這っていた。ぜんぶ上の家から生えてきているとリューさんは言った。

「自分の頭の上にいつも誰かの足や床や土があるってことが、ときどきすごく不思議に感じる」

 階級闘争みたいな話? と母がちょっと笑ったが、いやもっと素朴な感慨としてとリューさんは言った。

 リューさんの部屋は年中こたつを出しっぱなしだった。ただし冬でも電源を入れない。ふとんの中ははじめひやっとしていて、足を入れているとだんだんぬるくなる。

「うちも団地の二階だよ」と母が言ったが、集合住宅とはちがうよとにべもない。

「自分が土の上に立っていて、でもこの屋根の上にも土があるってこと」

 それがとても不思議だし、普段は忘れがちなんだとリューさんは言った。

 わたしはこたつに足だけ入れて、おとなしい動物みたいに寝転がっていた。トーンをかりかり削る音が好きだった。飽きたらリューさんの本棚を物色し、『風の谷のナウシカ』とかを読んだ。ビデオで見せてもらったのより長くて怖い、黄ばんだ紙の。

 すずの体犬はどこにいるんですかとわたしが訊ねたら、妹が連れて行ったと言った。親とけんかして家出するみたいに出て行った。

「連絡先知らないから、どこでどうしてるか知らない」

 体犬はみんな足が速い。頭がなくて体が軽いから。すずがいつも不機嫌に唸るのは自分ではどこにも行けないから? リューさんの両親はいつもニコニコしていた。娘に縁を切られたようには見えなかった。

 台所の柵は、すずじゃなくてわたしが飛びかからないための柵だったろうか。

 散歩に連れて行くとき、リューさんはポシェットみたいにすずを首からぶら下げた。


 真夜中、リューさんの体は大きくなった。丸い背が屋根を突き抜け、丘みたいに高く膨らみ、巨大な太い指がペンをつまんだ。背中や髪がごうごうと燃え立ち、あたりは火の海だった。つたも崖の上の家々もぜんぶ燃えてしまうのだ。

 母はそれをなだめるでもなく、同じくらい大きくなって、やはり巨大な指でカッターを持ち、消しゴムをかけた。そしてビデオデッキを再生した。何話のこのせりふが……服装が……。二人は巻き戻しと一時停止と再生を繰り返し、これは確実にそうとかこれは解釈違いとかぶつぶつ言いあった。リューさんは火を吹きながら漫画を描いた。

 リューさんの漫画は、わたしが生まれる前にやっていた長い長いアニメの二次創作で、序盤で死ぬ男二人がカップルになっていた。アニメの中では二人とも軍人で、たがいに面識はないのだが、リューさんの漫画の中では大学生になったり会社員になったりしていた。

 あたりが燃えるとすずはキャンキャン吠えた。巨大なリューさんが指先でちょんと押さえると、くうんとひと鳴きして黙った。


 わたしはときどき勇気を出し、リューさんに突進した。漫画を描いているときはやらない。コンビニに買い出しに行くときとかにやる。子どもだからそういうことをしなくてはと思った。リューさんも、なんだよとか重たいとか笑いながらわたしをおんぶしてくれて、おたがいそういう振り付けを心得ていた。踊りが上手にできたら母が喜ぶと思った。

 わたしはときどき自分の頭と体が分かれている気がした。頭犬、体犬。わたしはどっちだったのか。もう片方は父に噛みついたか。どこかへ駆けて行ったか。

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頭犬と体犬 オカワダアキナ @Okwdznr

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