第4話:左手で繋ぐ家庭の味② (秋田煮・シャケの砂糖醤油漬)

青南蛮を使った「三升漬」と「南蛮みそ」のピリッとした大仕事が終わり、キッチンは一時静寂を取り戻した。


激しい辛味から解放されたとはいえ、私の年一回の「保存食祭り」はまだ終わらない。


次に待つのは、まったく対照的な、滋味深く、心安らぐ二つの家庭の味。


山菜の塩気が効いた煮物「秋田煮」と、ご飯が進む甘辛い「鮭の砂糖醤油漬け」だ。

どちらも、私のルーツである母方の実家の食卓には欠かせない、優しさの味である。


三升漬けがシャープな目覚まし時計だとすれば、秋田煮と鮭の漬物は、ふかふかの布団のようなものだ。

作る手間と時間はかかるが、その分、完成したときの安心感は何物にも代えがたい。



【山菜の滋味、秋田煮】


「秋田煮」は、塩漬けにした根曲竹、蕗(ふき)、ワラビ、ウドといった山菜に、こんにゃくと豆腐を加え、油で炒め煮にするという、まさに家庭の味だ。

醤油やみそではなく、塩と白コショウが味の決め手だ。


まず、材料の下準備がこの料理の肝となる。

塩漬け山菜は、あらかじめ一日かけて丁寧に塩抜きをしておく。


この待ち時間が、焦りやすい私に「時間をかけて丁寧に」という教訓を与えてくれる。焦りは怪我の元だ。


塩抜きが終わったら、次は切る作業だ。

こんにゃくは、キッチンバサミで一口大に切る。

こんにゃくは滑りやすいので、右手を乗せ、押さえつける必要がある。


特に根曲竹は繊維が硬い。これも包丁を避け、左手に握ったバサミで力を込めて切っていく。切る音は「チョキチョキ」というより、「ザクザク」という鈍い音だ。


具材が揃ったら、大きな鍋をIHにかける。まずは油でこんにゃくを炒めて縮んで来たら、ワラビ以外の山菜入れてさらに炒めていく。


油回ったらワラビと崩した豆腐入れ、火が通ったら調味料入れるのだ。

この煮物は日持ちさせるための常備菜だから、調味は塩コショウでかなり塩気を効かせるのが特徴だ。


「これくらい塩っぱくないと、秋田煮じゃないんだよ」


そう言っていた、母の顔を思い出す。

私は慎重に、しかし躊躇なく塩を加えていく。


塩入れて水が出るので煮込んでいく。

山菜やキノコの旨味が溶け出し、独特の香りが立つ。

煮汁が少なくなるまでじっくりと煮詰める。


この「煮詰める」作業こそ、IHが真価を発揮する瞬間だ。

火力が安定しているため、鍋が焦げる心配がない。


汁が少なくなったら、最後にたっぷり目に白コショウを加えて、完成だ。


煮詰まった秋田煮は、一口食べると、故郷の山の景色が目に浮かぶような、滋味深く、そして力強い塩気が体に染みわたる。

これがあれば、ご飯が何杯でも進むのだ。


ちなみに、「秋田煮」なる料理は秋田には無い。

自分はずっと秋田の郷土料理だと思っていたのだが、戯れにネットで調べたところ、全く情報がなく行き詰った。


そこで母に聞いたら

「実家の横にいた「秋田」って人に教わったから秋田煮だよ?」

ってさあ、そんなのわからないよママン・・



【その四:シャケの砂糖醤油漬け】

そしてもう一品、これまたご飯の友として最強の保存食、鮭の砂糖醤油漬けだ。


作り方は至ってシンプル。鮭の切り身を砂糖と醤油をたっぷり合わせたタレに漬け込むだけ。だが、その素朴な味こそが、私たち夫婦にとって至福の味なのだ。


今回は魚屋さんで切り身にしてもらったものを使うので、片手での魚を扱う苦労は少ない。滑りやすい生の魚を包丁で切るのは、麻痺した右手の補助がないと非常に危険だからだ。


用意した鮭の切り身を、素焼きにする。

冷めたらタッパーに入れ、醤油と大量の砂糖とみりん。

これで二日ほど漬け込めば、それでいいだけだ。


軽く色が付けば薄味で、5日ぐらい立ったものは少し濃い味のおかず、私は茶色になるくらい漬かったものを、ご飯にのせて崩しながら混ぜてたべるのが好きだ。


冷凍保存も可能なので、大量に作っておけば、朝食や急な夕食のメインにもなってくれる心強い味方だ。


母の実家では正月にいつも、これらと氷頭なますにシャケのあら汁が出てきてた。シャケ全部を使ってたのだ。


昭和四十年代で空知地方という海のない場所。

当時のシャケは、とても貴重で正月のごちそうだったのだろう。

シャケ自体も今のように脂なんて乘ってなかった。


今でも、シャケの砂糖醤油漬を食べると子供の頃を思い出す。

今の方が絶対に美味しいシャケなのに、あの塩抜きした脂気のないシャケで作った方が美味しかった気がするのは何故だろうか。



【仕事の終わりと喜び】

三升漬、南蛮みそ、秋田煮、シャケの砂糖醤油漬。

すべての保存食を作り終え、冷蔵庫を眺める。壮観だ。


この瓶の列は、単なる食材のストックではない。それは、私自身の工夫の歴史であり、母から妻へ、食の愛情を繋ぐ役目を果たせているという満足感の象徴なのだ。


シャケが漬かった三日後の夜、パートから帰宅した妻は、リビングで秋田煮とシャケの砂糖醤油漬を見て、いつにも増して目を輝かせた。


「わー!秋田煮とシャケの砂糖醤油漬まで! パパ、本当にありがとう。これがあるだけで、冬を越せる気がするよ」


妻は満面の笑顔でご飯をよそい、塩気の効いた秋田煮と、甘辛いシャケを交互に頬張る。


「秋田煮、この塩気が最高! ちゃんと昔の味だね」 「シャケも味が染みてて美味しい! 明日の朝食が楽しみになっちゃった」


妻の「美味しい」という言葉を聞くたびに、私の左手で頑張った疲れは消え去っていく。

片手調理という不自由さを乗り越えて、大切な人を喜ばせることができたという幸福感が、私の心を温めてくれる。


今年もまた、私の左手が、遠い故郷の家庭の味と、愛する妻の食卓をしっかりと繋いだのだ。

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