〜エピローグ:Don't Look Back in Anger〜
日本では桜の便りが相次ぐ三月末、僕はケニアのナイロビ国際空港に降り立っている。
関西国際空港からドバイを経由し、妻と訪れたモロッコに続き、二度目のアフリカ大陸だった。
空港の免税店には、ライオンやキリンの置物が並び、幼い頃に見た父の出張土産を思い起こす。
見送りに来てくれた姉の言葉「蛙の子は蛙ね」の意味が、ようやく理解できた。
白亜の絶壁を前に早期退職を決意してから月日は流れ、僕はとある商社のナイロビ支店で新たなキャリアをスタートさせた。
あの医療用内視鏡メーカーの内定を辞退してから、いつかは日本の優れた中古医療機器を輸出し、開発途上国に貢献したいと考えていた。
組織の闇という重い鎖から解放された僕は、アフリカ市場に特化したこの企業への転職を迷わず決意した。
古巣の早期退職制度は、僕が危惧していたような「報復」の場とはならなかった。
むしろ、僕が引き起こした一連の騒動は、組織に静かながらも確実な変化をもたらしている。
退職時の機密保持に関する誓約書は徹底され、企業統治と法令遵守に関する社内研修も充実した。
あの内容証明郵便を送りつけた役員が社長に就任してからも、僕に対する圧力は皆無だった。
僕の「宣戦布告」と、命を懸けた"Fair Exchange"は、組織の論理と個人の正義のギリギリの妥協点を見出し、双方に静かなる決着をもたらした。
ナイロビでの生活は、中央アメリカで昔体験した開発途上国の空気と、どこか重なるものがある。
週末のある日、僕は現地の日本企業会が主催する交流会に参加した。
そこで僕は、かつて内定を取り消された専門商社の若手社員と対面することになる。
彼は、僕の経歴を尋ねた後、驚いた顔で指摘した。
「先輩ぐらい英語とスペイン語が出来るのに、今まで国内でしか働いて来なかったなんて、随分余裕のある会社だったんですね。ウチだったら速攻で海外に放り出されてますよ。」
彼の言葉は、閃光のように僕の乾いた脳髄を突き刺した。
「でもな、僕は昔、君の会社に内定を取り消されたんだよ」と、彼に打ち明けた。
あの時、父の無責任な一言による一年遅れの編入は、僕に数々の困難な代償を強いた。
僕にとって、人生を狂わせた一年の遅れは、長年のコンプレックスだった。
三十数年の月日を隔てた今、父が過ごしたアフリカの大地で、僕はあの因縁の企業と対峙している。
その偶然が、長年のコンプレックスの正体こそ「ボタンの掛け違い」だったと教えてくれた。
もしあの時「ボタンの掛け違い」がなければ、僕は浪人することもなく、別の企業に就職して、全く別の人生を歩んでいたかもしれない。
璃子と出会って彼女を傷つけることも、妻と出会って娘たちに恵まれることもなかっただろう。
だが、それが本当に相応しい人生かどうかなど、もはや誰にも知る由はない。
今となっては、僕の人生に「ボタンの掛け違い」は必然だったのかもしれない。
父から被った数々の苦難も、組織の闇との戦いも、すべてが僕の人生の一部に過ぎないのだろう。
次の日、ナイロビからモンバサ港へと向かう途中、道端では野生の象が水浴びを楽しんでいた。
遠く地平線の向こうには、ケニアの真っ赤な夕日が沈もうとしている。
また遙か彼方のサバンナでは、キリンの一群がその夕日を背に揺らいでいる。
そんな果てしないアフリカの大自然を目のあたりにして、僕には「ボタンの掛け違い」など取るに足らない「些細な歪み」のように思えてきた。
そして、今のありのままの人生を肯定する覚悟を持とうと決めた。
広大なケニアの大地を背景に、耳元でNoelの歌声が優しく響く。
♫ My soul slides away "But don't look back in anger," I heard you say.
僕は、サバンナの乾いた風に吹かれて、もう二度と振り返らないと心に誓った。
All the tears in the world seem to fall from you.
At their rainbow’s end a halcyon day or two.
How soon we fool ourselves how slow we tread.
Astral planes collide head on.
And on and on we glide as if forever…
lyrics by Bryan Ferry「いつか、どこかで…」
本作品はフィクションです。登場する人物・団体・企業名・地名・出来事などは、実在のものとは一切関係ありません。
また、故人を含む登場人物の描写は、作者の創作に基づくものであり、実在の個人・ご遺族の名誉や人格を損なう意図はありません。
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ボタンの掛け違い(第二部) 〜いつか、どこかで〜 Mulberry Field @ilps-9241
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